静かなのはただ二人だけ。睨みあうシェイティとタイラントだけが、黙ってその場に佇んでいた。混乱の極みにある酒場の喧騒も、二人の耳には届いていない。 つい、とシェイティが足を進めた。潮が引くよう、立ち上がった客の波が割れる。タイラントは軽蔑も露にそれを見ていた。 怖いのならば、逃げればいい。厭わしいなら、殴ればいい。いっそ、殺せばいい。あれは人間ではない。闇エルフの子。化け物だ。 それなのに客たちはみな、怯えたよう立ち騒ぐだけ。口々に化け物だ、と言いながら。 「ねぇ」 素顔に戻ったシェイティが目の前にいた。恐れてはいない、思いつつタイラントは知らず唇を噛んでいる。 「あなたは、何がしたいの」 闇エルフの子が静かに言った。淡々とした表情。けれど今までのものとは違う。あえて言うならばかつて共に過ごした日々のもの。だが、それとも違った。 「黙ってれば、見られる面だよな」 脈絡のないタイラントの言葉にシェイティは首を振る。彼が意識して言っているとは思わなかった。逃れたいのか、いまのこのときから。逃げたいのは、自分だと思う。 どこへ。シェイティは思う。この血から逃げられる場所などどこにもない。死んでしまえばいいのか。死にたいとも、思えない。 好きで生まれたわけではない。産んでくれなど誰が言った。それでもシェイティは生きている。生きているから、死にたくない。それだけのこと。 それは、人間と闇エルフの子とで違うものなのだろうか。同じだ、と思う。思うけれど、タイラントはそうは思わないのか。 「あなたは――」 「俺のことなんかどうでもいい!」 自棄を起こしたかのタイラントの叫び。シェイティが薄く笑った。 「よくない。ねぇ、あなたは何がしたいの。アデル・ダムドになりたいの」 さらりと言われた名にタイラントの顔色が変わった。アデル・ダムド。ラクルーサの反逆大臣。シェイティはまるで知り合いのよう、言った。 「この世に、復讐でもしたいの」 「どういう……」 「違うの? 欲しいのは意のままになる魔物? だったら手伝ってもいいよ。できるから。――二十年前にも、やったから」 二十年前。反逆大臣。ラクルーサの塔の迷宮。タイラントの頭の中で何かが繋がっていく。 「歌じゃ……」 「そう思いたければ、思えば。僕は事実を知っている。そこに、いたから」 「いただけじゃ、なさそうだな」 「好きなように思えばいい」 シェイティは言外に肯定していた。塔の迷宮を作り上げたのは自分だと。長年の、タイラントの疑問が解けていく。反逆大臣がどうやって魔法の塔を作ったのか。 答えは目の前にいた。闇エルフの血を引く魔術師が。人間の敵。くっと唇を噛みしめてタイラントは彼を睨む。 「君が――」 「僕には僕の事情があった。そのことに関しては、たとえあなたであっても、口出しはさせない」 ぴしりと言ってシェイティは目をそらす。痛みをこらえる顔に見えてタイラントはゆっくりと息を吸った。 「君の客だったのか」 「答える必要はない」 「言ったも同然だな。化け物。汚らわしいあいの子!」 刺し貫かれる言葉の数々をシェイティは受け流した。もう、彼の声が届く場所にシェイティの心はなかった。 「僕が死ぬのが、あなたの望み? 殺したい?」 一瞬の静寂。酒場の客たちのすべてにもその声は聞こえた。静けさが、続いた。客たちはありえないものを聞いていた。苦しみ嘆く化け物の声。 それが、タイラントにだけは聞こえない。彼は聞きたいものだけを聞いていた。見たいものだけを見ていた。そこにいるのは、人間ではない、化け物。 「死にたかったら、勝手に死ね」 「あなたの望みを聞いてるの」 「俺は」 言葉を切り、タイラントは口に出そうとする。しかし喉は張りついたようになって声が出なかった。 「僕は、あなたに謝りたかった。僕が悪かったって、謝りたかった。言葉なんかじゃ、とても足りないから、あなたの望みのままになろうと思ったの」 首をかしげてシェイティがかすかに微笑んだ。ようやく変わった彼の表情など、見なければよかったとタイラントは思う。知らず足が下がった。 「あなたが落ち着いて、ちゃんと話ができる日が来るまで、あなたの好きなようにしてもらおうと、思ってた」 細く消えていく声と共にシェイティが目を閉じた。それだけで体にかかっていた圧力が消え失せる。タイラントはそれで彼に気圧されていたのを知った。忌々しい、強くそう思う。 タイラントが何かを言いかけるその前、シェイティが振り返った。視線の先には酒場の主人。思わず手にとったのだろう暖炉の火かき棒を手に二人を見ていた。否、シェイティを見ていた。 「トビィ」 タイラントに呼びかけるのとは違う声でシェイティが主人を呼ぶ。ぎゅっと火かき棒を握り締めるのが目に入った。 「いままで、ありがとう。あったかいご飯、とってもおいしかった。お礼になるかどうか、わからないけど」 シェイティの手が皮袋を差し出し、中身をテーブルの上に撒いた。途端に酒場がざわめく。トビィだけが、厳しい顔をしていた。 「――受け取って」 テーブルの上、きらきらと銀貨がばら撒かれていた。シェイティは、まるでなんでもないもののようそれを見やってトビィに視線を移す。 「あなたの信じるすべてのものにかけて、汚れた金じゃないことを誓う」 自らの信じるものにかけたのではとても信じられないだろうと言外に言う闇エルフの子の哀しい言葉に、トビィはかすかにこくりとうなずいた。ほっとしたようなシェイティの横顔。タイラントはそれを呆然と見ていた。 「どこで、そんな金……」 大金と言うも愚かな金だった。あれだけあればシェイティはわざわざうらぶれた路地裏の廃屋などをねぐらに定めずともよかったはずだ。上等の宿屋で豪勢な食事をして暮らすことだとて、充分できたはず。 「あなたが知る必要はない」 ぴしりと言ったシェイティはタイラントの顔を見なかった。 「まだ隠し事を!」 何を彼が想像しているか、シェイティはわかってしまう。情けなさに泣きたかったけれど、心はやはり動かなかった。 トビィへの礼は、水滴を変えた宝石を売った金の、残りだった。決して体で稼いだ金ではない。けれど、言ってもきっとタイラントは信じない。シェイティの唇から溜息が漏れた。 「もう、どうでもいいよね」 小さな声は誰に聞こえただろう。その意味まで聞き取ることができたのは、誰だろう。以前ならば、タイラントだった。 「それともあなたは僕を支配したいの。その名のとおりに?」 ゆっくりとシェイティが視線を合わせてくる。逃げ出されることを恐れてでもいるようだった。 「違う!」 咄嗟に叫んで、しかしタイラントは己の気持ちがわからなかった。はじめから、少しもわかってなどいなかったのかもしれない。 彼をどうしたいのか。殺したいのか。それとも死なせたいのか。思えば違うという気もする。ならばいったいどうしたいのか。わからなかった。 それを、シェイティに悟られたくない。きつい目をしてタイラントは彼を睨む。片目を覆った布が煩わしい。視界がぼけて目が疲れる。いま、はっきりと彼を見据えたい。それでも布は取らなかった。 「僕は、僕が悪かったと思ってる。心からそう思ってる。あなたを傷つけたくなかった。傷つけないように頑張ったつもりで――僕が一番あなたを傷つけた」 シェイティの手が伸びてきた。避けようと思えば避けられたはず。後になってタイラントは思った。しかしそのときはとても、動けはしなかった。 「謝る言葉なんか、ないよね。それだけのことを僕はしたから。だから、どんなことでも耐えられる。耐えようと思ってた。でも――」 シェイティの指先が、銀の髪を掠めた。触れられたと感じる間もなく指は引かれた。シェイティが指先の感触を懐かしむよう見ていなければ、触られたのだとは思わなかっただろう。 「あなたは、違うんだね。僕とまた、話したいなんて思ってくれる気はないんだね。化け物だものね、僕は」 皮肉げに言うはずの言葉も、シェイティは淡々と言った。もしも彼を知らなければ、真実そう思っていると聞こえただろう。 そう思ってタイラントはぞっとした。彼を知っている、そう思ったことに。化け物の知り合いなどいない。自分にとってシェイティは単なる玩具。彼に心があるなど、認めたくない。 「僕は、タイラント――」 わずかにためらったシェイティの声。視線をそらして唇を噛む。それから意を決したよう、再び視線を合わせた。 「あなたが大好きだった。いまのあなたも、前のあなたも同じタイラント。わかってるけど、どっちが本当のあなたかなんて愚かなことは言わないけど、それでも――僕は前のあなたのほうが、ずっと好きだった」 わずかにタイラントは思い出す。二人きりで過ごした日々。彼の肩に乗っていた小さな竜の自分。彼に寄せた思い。振り払うよう、強く首を振った。 「いつかまた、あのころみたいな顔を見せてくれると――信じてた」 シェイティの口から出るとはとても思えない言葉だった。あまりのことにタイラントはまじまじと彼を見る。そこに立つのが化け物なのかかつて愛した青年なのか、わからなくなる。 「でも、無理なんだね」 タイラントの思いを感じたよう、シェイティはそっと微笑んだ。ゆっくりと唇がほころぶ。それなのに、タイラントの背筋は冷えた。 「信じてた。あなたを、信じてた、タイラント。僕が、愚かだった。人間を信じた僕が、愚かだった」 シェイティは今度こそはっきりと微笑んでいた。力強い目のきらめき。生気を取り戻した魔術師の顔。それなのに、タイラントにはなぜか作り物のように見えた。 「振り向いてくれないあなたを追いかけ続けるなんて、できない。だから、あなたなんかもう――」 氷の剣が突如として出現した。息を飲む音。輝く氷に目を落としたシェイティは何を思うのか。かすかに顔を歪めた。剣の柄を握りこんだ彼の手の中、剣が溶けていく。まるでタイラントには向けられないとでも言うように。 「――いらない」 呟くよう口にしたシェイティの姿が薄れていく。あたかも氷が解けるよう、シェイティの姿はかき消えていた。 |