どんなことでも耐えられると、思っていた。シェイティは、だから黙って日々を過ごす。タイラントの望みを容れ、タイラントのためだけに。 それなのに、まるで変わらない日々。毎晩のよう、襤褸屑みたいに扱われた。そんなことにすら、慣れている自分がとても、シェイティは嫌だった。 いつもの酒場で、今夜もタイラントは歌っている。奏でる竪琴の音、響く声。シェイティもやはり、酒場の隅で聞いていた。 何事かを悟っているのだろうか。哀れんでくれているらしい酒場の主人は、いつもシェイティの前に温かい食事を出してくれる。 ありがたい、と思うのだけれど、凍りすぎた心は礼の言葉すら浮かべられない。無言で頭を下げるだけだった。 客の要望が途切れたのだろうか。タイラントが自分の楽しみのために歌いだした。そうすればまた、客がつく。 その歌声が、シェイティの注意を引いた。すっと息を飲む。 タイラントの歌。ラクルーサのことを歌っていた。ミルテシアだからだろうか、他国へのからかいを多分に含んだ歌詞。 それだけならば、シェイティは気に留めなかっただろう。だが、しかし。あまりにも。 さほど遠くない昔を歌っていた。ラクルーサの塔の迷宮。なし崩しに倒された反逆大臣。それを嘲笑うかの、戯れ歌。 シェイティが、珍しく顔色を変えたのがタイラントの視界に入る。きゅっとジョッキを握った指先が白くなっているのがよく見えた。 酷く、残酷な気分になっていた、タイラントは。いまにはじまったことでは、なかったけれど。シェイティをあおるよう、歌詞を惨くする。 いままで歌っていたよりいっそう、酷い歌詞。うつむいたシェイティの唇が震えていた。 国を思っているのだろうか。他国で一人きりの自分を思っているのだろうか。タイラントにはわからない。ただシェイティがつらい思いをしていることだけが手に取るようにわかり、それで充分だった。 もっとずっと、歌っていたかった。シェイティを苦しめることができるのならば。もっと早くに気づけばよかったとすら、タイラントは思う。ラクルーサの歌が、彼を苦しめるのなら。 しかし歌は終わってしまった。シェイティは視線をテーブルに落としたまま、微動だにしない。客たちは歌が気に入ったのだろう。てんでに話し出していた。 タイラントの歌は、ただの戯れ歌だ。真実だとは誰も思っていない。庶民にとって、国のお偉方をからかう歌は何よりの気晴らし。まして他国の重臣。なんの遠慮もない。それだけのこと。 それを逆手にとってタイラントは嘲笑う。シェイティを、見据えていた。 「間抜けな好色大臣もいたもんだな」 タイラントの言葉に、客たちが笑い声を上げて同意する。シェイティ一人が、ひっそりとしていた。 「大臣様だって、ただの男ってことだな」 「娼婦の手管にやられちまうなんて、ざまァないよ」 「俺は男娼だって聞いたぜ」 「いっぺん野郎を抱いたら病みつきになるって言うからな」 下卑た男たちの笑い声。タイラントは笑みすら浮かべて聞いていた。シェイティが、何を思うのだろう。心はそればかりに占められていた。 「なぁ」 タイラントが誰に話しかけているのか、客たちはわからなかった。わずかな静寂に、シェイティは顔を上げる。はっきりと彼は自分を見ていた。 「君も、客にとったことがあったりしてな」 くっと、タイラントが笑った。言葉の意味を客たちはすぐさま知る。男娼か、この青年も。あからさまな笑みが、シェイティを射抜く。 「どうなんだよ、え?」 気分よくタイラントは尋ねる。シェイティを苛むのが、心地良くてならない。調子に乗っていた。シェイティは、言ったではないか。償いたい、と。タイラントの望みを叶えたいと。ならばそうしてもらうまで。 「まさか、そんなこたァないだろうさ」 酒場の客はざわざわと笑っていた。吟遊詩人のからかいの言葉を真に受けたものは誰一人としていない。 シェイティは、若すぎるではないか。さほど昔のことではないとは言え、戯れ歌になるほどには過去のこと。 ラクルーサの大臣を客にとっていたほどシェイティは年嵩には見えない。若作りとも、思えなかった。 「あるわけないさ、まだ若い」 誰かが言った。タイラントは答えず、皮肉な笑みを浮かべるだけ。 シェイティの姿だけを、見ていた。引き結んだ唇は震えてもいない。先ほどの歌からは、すでに立ち直ってしまったのだろう。 いったいシェイティをどうしたいのだろうか、自分は。不意にタイラントの心に疑問が浮かぶ。このまま苛み続けたいのか、それともまだ先があるのか。わずかに自分の人間性が怖くなり、振り払う。悪いのは彼であって自分ではない。 「エール。くれる?」 かすかな声でシェイティが主人に言っていた。自分の望みを叶えると言ったくせ、シェイティはまるで揺らいだように見えない。 それが、忌々しくてタイラントは彼を睨んだ。運ばれてきたエールに、シェイティが何かを言っていた。酒場のざわめきに、彼の声は届かない。 主人もまた、シェイティに何かを言っている。軽く彼の肩を叩いて去っていった。ぐっと、タイラントの喉が詰まる。 「いやだ――」 小さなタイラントの声は誰にも聞こえなかった。自分にすら。何を意図して言ったものか、タイラントにはわからない。 わかりたい、とも思っていなかった。視線はひたすらにシェイティに。 「そんなじっと見るなよ。可愛い坊やってか?」 客のからかいに、タイラントは一瞬きつい目をしそうになり、強いて薄い笑みを作る。客の反感は買いたくなかった。 肩をすくめて竪琴をかき鳴らす。よけいな弦に指が触れ、不協和音が響いた。いまの気分には、似つかわしいとタイラントはくっきりと唇だけで笑った。 悄然とうつむいているシェイティに歌う。そう決めた。客のためではなく、金のためでもない。シェイティのために、彼のためだけに。それが、自分の喜びだった。 新しい歌が始まったのに、シェイティは気づいていた。タイラントの視線を感じていたのも、わかっている。 それでも顔を上げる気にはならなかった。彼は、知っていて歌ったのはでない、あの歌を。物の弾みだと、わかっている。 「……タイラント」 顔色が変わってしまったのに自分でも気づいていた。あのとき表情を変えなければ、あそこまで惨く歌うことはなかったはず。 けれどシェイティはあれでよかった、そう思う。タイラントの気晴らしになったのならば、自分のことくらい。 思う自分が間違っているのを感じていた。どこにも進めない。袋小路出に入り込んでいた。自分の償いが、タイラントの憎悪を増幅させていることに気づかないシェイティではなかった。 わかってはいたけれど、しかしどうしていいのかがわからない。このままずっと、タイラントの憎しみを引き受けるのだろうか。それでもいいとどこかで思う自分がいる。まだ、耐えられる、と。 そう、思っていたのだ、シェイティは。どこまでも耐えようと、思っていたのだ。本当に。タイラントにシェイティの心は少しも届かなかったけれど。 シェイティの耳に、やっと歌詞が届く。客が大笑いをしていた。何がそれほど楽しいのか、思った途端にシェイティは青ざめた。 タイラントの歌声がする。先ほどの歌詞など子供のからかいに等しいかの、酷い歌。今度こそタイラントはわかっていて、歌っている。 シェイティがじっとタイラントを見つめた。そこにいるのは、知っていて、よく知らない男。一括りにしているくせ、乱れた銀髪が酒場の明かりに照り映える。 ちらり、とタイラントはシェイティを見た。シェイティもまた、タイラントの青い片目を見た。絡み合った眼差しを外したのはタイラント。 歌はその間も続いていた。残酷な数え歌。闇エルフの子を、少しずつなぶり殺しにしていく歌。右手を切り取って、一つ。左足を断ち落として二つ。最後に首切り飛ばし、ぱっくり額を割ったところで大笑い。 シェイティは凍っていく。いままでよりいっそう、凍れるものならば。ジョッキを握った指が痛かった。何も考えず、何も聞かずエールをあおる。 それが、タイラントの望みなのか。そこまで自分が憎いか。憎いのだろう、とシェイティは思う。 タイラントをないがしろにした自分を、彼はどこまでも許す気はないのだろう。 仕方ないことなのかもしれない。諦めたくはなかったけれど、仕方ないのかもしれない。それだけなら、まだ耐えられた。 「こいよ、化け物。ほんとの顔を見せろよ」 タイラントが、そう言わなければ。ゆらり、シェイティの目が彼を捉えた。笑っているのに、目は真剣だった。 「本気で言ってるの」 客がわずかにざわめいた。タイラントに、そしてシェイティに視線を向けては首をひねる。 「あぁ、本気だね」 唇を吊り上げてタイラントが笑った。かすかな溜息すら、シェイティは漏らさない。嫌な顔もしない。無表情のまま、黙って彼は立ち上がる。それがタイラントには不満だった。 もっと嫌な顔をすればいい。つらい、いやだと泣き喚けばいい。そうすれば、このもやもやとした気持ちも晴れるのに、と。 「……そう」 タイラントの心を感じたよう、シェイティはうなずいた。どこかが、壊れてしまった気がした。硬く締まって凍りついた氷が突然に罅割れたよう。 客の声が、突如として絶えた。シェイティを、みなが見ていた。息を飲んで青ざめるもの、事態の把握ができずジョッキをあおるもの。それでもみなが彼を見ていた。 シェイティの体が揺らいだ、そう見えただろう。タイラントは二度目になるそれをじっと見ている。ぐっと唇を噛みしめた自分が忌々しい。 「君なんか――」 恐れてなど、いないはず、あれはただの自分の玩具で、恐ろしい闇エルフの子などではない。自分に害なすことはない。 幻覚を剥ぎながら、シェイティにはタイラントの心が手に取るよう、わかる。わかりたくなかった。見た目など、何が問題なのだろう。自分は自分。それなのに。 思った途端、おかしくなった。時折今でも探してしまう小さな竜。いなくなった竜は、酷い男になって目の前にいた。 |