寝台の上で体を伸ばしてタイラントはシェイティが身づくろいをするのを見ていた。のろのろとした動きは快楽の名残か、それとも疲労か。
 汗と男の匂いに塗れた肌を拭うものもなく、シェイティは服をまとう。べとついた体が気持ち悪くて、ねぐらに戻ったら体を拭こうとぼんやり思う。
「――よく平気だな」
 声にシェイティは振り返る。身形を多少なりとも整えるところをずっとタイラントは見ていたのかと思った。未だかつてなかったことだった。昨日までの彼は、欲望を晴らすなり眠ってしまっていたのに、と。
「なにが」
 粗末な衣服は早、襟の辺りがほつれかけている。シェイティは指先で引っ張って整えようとしたけれど、かえってほつれが酷くなっただけだった。
「あんなこと、よく平気でできるな」
 自分で命じておいてよく言う、と我ながらタイラントはおかしい。喉の奥で笑った声に、シェイティが首をかしげた。
「慣れてるから」
 淡々と言われた言葉に、一瞬理解が追いつかない。訝しげな顔をしたタイラントにシェイティは目を向けた。
「こういう扱いには、慣れてるから」
 なんでもないことのよう、シェイティは言った。かすかに引き締まった口許だけが、好きでしているわけではないことを語る。
「どういうことだよ」
「僕が魔術師になる前、どうやって生きてたと思うの。こういうことをして、生きてたんだ、僕は」
「君は――」
「昔、僕は男娼だった。だから、慣れてる。不思議だね、人間は」
 一度言葉を切ってシェイティは遠くを見た。何もない、汚れた壁を。
「闇エルフの子を怖がって、嫌って、殺したいと思ってるくせに、どうしてだろう。抱きたがるのは」
 答えて欲しいと思っているわけではないのだろう、シェイティは。タイラントに向けた言葉ではなかった。人間に向けた言葉でもなかった。疑問の形にすら、なっていない、シェイティの中では。
「好きでしてたんだろ、淫乱」
「本当に、そう思う? だったらどうして僕はいま、魔術師なの」
「知るか!」
 吐き出して、タイラントは目をそむける。どんな色も浮かばないシェイティの目を見ているのが不意に苦しくなった。
「平然と足広げて誘ってくるくせに! 男だろ、君は。どうして平気なんだ」
「あなたは? どうして男の僕を平気で抱けるの。人間て、不思議だね」
 言ってシェイティはかすかに笑った。タイラントは、どんな気持ちで自分を抱いているのだろう。思った途端、答えがわかる。
 ただの、これは罰。自分を苦しめるためだけ。他には何もない。憎悪の行為。シェイティの体が軋みを上げた。
「――君が嫌がるところが、見たい」
 きりきりと歯軋りさえしながらタイラントが言った。シェイティはそっとうなずく。いまの彼に、竜の姿が重なる。
「君を、苦しめて、めちゃくちゃにしたい」
「それがあなたの望みなら」
「それなのに、けっこういいんだろ? 好きじゃないとか言いながら、感じてんだろ、え?」
「体はね」
「ほらな!」
「体は、反応する。僕は、そうやって仕込まれたから。僕がその気になってなくったって、客はその気で来るんだ」
 何かをこらえるよう、シェイティは目を閉じた。彼の瞼の裏に浮かんでいるのは、過去だろうか。
 タイラントは不意に思い出す。シェイティが傷を負ったときのことを。それを治療した老婆のことを。メグ、と言う名だったはずだ。彼女もまた、娼婦だったと言っていた。
 あのときシェイティが見せた信頼をタイラントは思う。彼女に向けた眼差しは、同じ境遇のものに対するそれだったのか、と。
 メグの打ち明け話に、シェイティは顔色を変えた。娼婦だった、と言った瞬間、シェイティは真っ青になったのだった、とタイラントは思い出す。遠い記憶だった。
 まるで、他人の記憶のようだった。メグに対するシェイティの態度に苛立ったのも、懐かしくはない思い出だった。
 いま、そのシェイティの前に自分はいる。人間の姿で。触れられたくはない傷だろう、とあのとき思ったはずなのに、その自分が傷口をえぐっている。
「――だから、僕は何も感じてないよ」
 思い出の中、シェイティの言葉が滑り込んでくる。見上げた彼は、少しばかり笑みを刻んでいた。
「あなたは、僕を痛めつけたいんでしょ」
「……あぁ」
「だから、僕は言いなりになってる」
「なぜ」
「……それしか、償う方法がないから。これが、僕の罰だから」
 今度の笑みは、はっきりとしたものだった。疾うに燃え尽きた蝋燭が足元に転がっている。月光に、褪色したシェイティの笑み。
「……おやすみ、タイラント」
 話はそれで終わりだとばかり、シェイティは背を向ける。それで、よかったはずだった。なぜ、声をかけたりしたのだろう、タイラントにもわからなかった。
「ここにいろ」
 ひくり、とシェイティの背が震えた気がした。なぜ震えたのかなど、斟酌しない。震えた、その事実だけをタイラントは喜んだ。
「……そう」
 背を向けたまま、シェイティがうなずく。タイラントを振り返りはせず、反対の部屋の隅にいってはうずくまる。
 ことり、と汚い壁に頭をもたらせてシェイティは目を閉じる。服をかき合わせ、自分で体を抱いた。温まった肌から立ち上るタイラントの匂い。
「……おい」
 ためらいがちな声に、シェイティは目を開けた。片腕をついたタイラントが、体を起こしてこちらを見ている。
 乱れた銀の髪が、垂れ下がっていてみすぼらしいはずなのに、妙に綺麗だった。薄暗がりに目の色の違いはわからない。それが、シェイティには残念だった。
「なに」
「そんなところで――」
 言いかけて、タイラントは自分がなにを言おうとしているのか悟ったらしい。咄嗟に口をつぐんだけれど、遅かった。
「平気」
「何がだ!」
「人間より、丈夫。……化け物だから」
 特別な意味は持たせていなかった。普段、タイラントが言うように言っただけ。それなのにどうしてだろう、彼が嫌な顔をするのは。
 気づけばシェイティはタイラントをまじまじと見ていた。彼もまた、目をそらすことなくじっと見据えてくる。そらしたのは、どちらが先だったか。
「こっち……」
 ぎゅっとタイラントが唇を噛んだのか、暗がりにも目立って見えた。
「そっちに、行けばいいの」
 タイラントは黙ってうなずく。その間も、シェイティを睨み据えていた。
 立ち上がり、シェイティはわずかの間だけ、寝台の下にうずくまろうかと思う。けれど、タイラントにまた促させるのは、いやだった。言いたくないことを、言わせたくない。漠然と、そう思ったのかもしれない。
 心の中、かすかに浮かんだもの。拒絶されたいと言う望みだったのかもしれない。手酷く扱われれば、心の軋む音が聞こえなくなるとばかり。
 寝台に腰を下ろしたシェイティの腕を、タイラントは手荒く引いた。抵抗するはずもないシェイティの体が、彼の上に倒れこむ。
「俺が、寒いんだ。それだけだ」
「……うん」
「誤解は――」
「しない。平気」
 何度も繰り返されるシェイティの言葉。平気。いったいどこが平気なのだろうとタイラントは思う。腕の中で体を硬くしたままのシェイティ。戯れに、髪を撫でた。
 息を飲む音がした。タイラントは満足そうに口許に笑みを浮かべる。酷いことをされるのは堪えられても、優しく扱われるのは、つらいのか。
 何度も、ゆっくりと髪を梳いた。まるで愛撫だ、とそう思う。そして気づいた。シェイティの髪にこんな風に触れたのは、初めてだった、と。人間の姿では、初めてだったと。
「タイラント」
 呼び声に、彼は答えない。無言で続きを促したのは、シェイティの戸惑った声をもっと聞いていたかったせい。
「僕は、いま。どうしたらいいの」
 緊張して、強張ったシェイティの体。いま、無体に扱えば彼はどうなるのだろう。束の間、タイラントは思いを弄んだ。
「寝ろ」
「そう……」
「黙って、寝ろ」
 けれど、言ったのはそんな言葉だった。言われたシェイティより、言ったタイラント自身が驚いていた。
 口をつぐんで、シェイティの髪を撫でていた。彼は、眠ることができるのだろうか。温かい体に、タイラントのほうが眠りに落ちそうになる。
「……同じだ」
 呟きに、シェイティは答えなかった。あるいはもう、眠ったのかもしれない。
 タイラントは彼の体を抱きしめた。なんの反応もない。だからきっと、寝ている。どれほど硬くなっていたとしても。
 抱いた体は温かかった。闇エルフの子だとしても、人間と同じく。どこが違うのか、タイラントにはわからなくなる。
「化け物」
 口にして、確認する。これは、人間ではない。自分たちとは違う、別の生き物だ。化け物の柔らかい吐息の音。穏やかな、鼓動。耳にして、吟遊詩人の鼓動がなぜか跳ねた。
「化け物に、惚れてたなんて。お笑い種だな」
 聞こえないはずのシェイティの耳に流し込む。眠ったシェイティは、身じろぎ一つしなかった。だからタイラントはさらに囁く。
 聞くに堪えない言葉を。シェイティが、耳にしたならばその場で死んでしまいたくなるような、罵詈雑言を。甘やかに。うっとりと。シェイティの耳に流し込む。
 囁き疲れたタイラントが眠ったころ、シェイティは体を起こし彼を見つめた。ずっと、聞いていた。目には、一滴の涙もない。泣くにはもう、心が凍りすぎていた。




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