それ以来、シェイティは夕暮れになると酒場に行った。なにが気に入ったものか、彼は同じ酒場で歌っている。姿を隠すのはすでに無駄だった。黙って隅に座り、じっとタイラントを見ていた。
 タイラントはちらりとも目を向けなかった。男たちと野卑な話をし、時折は女の誘いに乗る。歌い終わった彼が、どこかに消えるのをシェイティは何も言わずに見ていた。
 傲然とした顔をしたタイラントが暗がりから現れ、もう一度歌う。時には気が乗らないとばかり、そのまま帰る。
 シェイティは、彼と共に酒場をあとにする。それが、習慣になっていた。共に帰る、とは言いすぎだろう。時を置かず、酒場を後にする。それだけのこと。シェイティはいつも彼の背を追っていた。耳の中に、彼の竪琴と歌声を響かせながら。
 あの時の、一晩ではすまなかった。すむとも思っていなかった。女と消えた夜でも、タイラントはシェイティを蹂躙した。
 それで、よかった。こんな形であれ、自分に執着している。復讐の一つの形でしかないとわかっていても、それでシェイティはよかった。
 だから今夜も、シェイティは酒場にいる。まだ客の入りは少ない。タイラントがぽつりぽつりと竪琴を弾いていた。
 初めて聞いた彼の竪琴。歌声を聴くより、ずっと好きだった。いまの彼の声では。どうしても、耳に蘇らざるを得ない、竜の声。
 シェイティは、無意識のうちに首を撫でていた。小さな竜の、尻尾があった場所。巻きつかれて苦しい思いをしたことすら、懐かしい。まるで生まれる前の出来事のように。
 ちらり、とタイラントはそれを見ていた。シェイティの仕種の意味に気づく。彼は、ぼんやりとどこでもない場所を見ていた。
 舌打ちを一つ。嫌なものを見てしまった気がした。シェイティの、善意など期待しない。あれは、人間ではない化け物。
「ふざけるな……」
 誰に言うともなくタイラントは呟く。意味など、なかった。ただ無性に苛立たしい。シェイティの目を見てしまったせいだった。
 無表情で、凍りついた眼差し。いつかのよう、感情を隠しているのではなかった。感情そのものが、凍りついてしまっていた。
 吟遊詩人の感覚は、それを嫌でも捉えてしまう。自分のせいか、とも思う。彼自身の責任だと否定した。
「君が、悪い」
 竪琴をかき鳴らし、呟きを消す。シェイティは、気づかない。まだ、首を触っていた。
「――気味が、悪い」
 あのような顔をされては。そう思ったはずなのに、シェイティの表情は動いてはいなかった。タイラントの目だけが、見てしまった何か。また、舌打ちをした。
 いつの間にか、客が増えていた。タイラントは派手に竪琴を鳴らし、注意を引く。化け物の相手などしている暇はなかった。
「おぉ、歌い手。注文だ!」
 どっと客が沸く。店の主人が満更でもなさそうな顔をして、タイラントの元にエールを運ぶ。どうやら、主人の奢りらしい。タイラントの歌を求めて足を運ぶ客で賑わっている礼、と言うところか。
 ゆっくりと息を吸い、にやりと笑う。タイラントの指が弦を弾き、声が滑り出す。それきりタイラントはシェイティのことを忘れた。
 声が聞こえたのは、偶然だった。ちょうど歌の切れ目、客も満足したのか新しい歌の注文はなかった。だからだった。そうでなければ、とても騒ぎに紛れて聞こえはしなかっただろう。
「なぁ、あんた」
 ねとりとした声に、タイラントは視線を向けた。側にいる誰かではなかった。店の隅。思った途端、目をそむけようかと思った。そちらにはシェイティがいる。
 それでも見続けたのは、ある種の興味か。鳴らすでもなく鳴らさないでもない。竪琴をいじりながらタイラントは彼を見ていた。
「邪魔」
 シェイティが、一言の元に男が寄せてきた体を避ける。あの男には、あれほどはっきりと拒絶するのか、とタイラントは新鮮な思いでそれを見ていた。
「そう言うなよ、あんた――」
 男の手が、テーブルの下にもぐった。と、シェイティがあからさまに嫌な顔をした。ぴしりと何かを打つ音。次いで男が顔を顰めて手を上げた。
「何も叩くことないだろ。きれいな顔してさ」
 男の言葉にタイラントは嘲笑をこらえきれなくなりそうだった。あれは幻。化け物の素顔を知らず、男は言う。
 タイラントの瞼の裏、シェイティの素顔が浮かぶ。一度だけ見た、闇エルフの子の顔。唇を噛んで、思い出を消した。
「あっちに行って」
「そう言うなって。聞けよ」
「聞かない」
「あんた。幾らだ? 黙って座って売れるほどの器量かよ、え?」
 にんまりとして男がシェイティの顔を覗き込んだ。シェイティの顔色は変わらない。席を立つでもなく、男をはねつけるでもない。疾うに、拒絶はしたと思っているのかもしれない。
 タイラントは、そうは思わなかった。何も、考えが浮かばなかった。気づいたら、自分の席を立っていた。
「それは、俺のものだ」
 自分の声が聞こえた。男の肩に手をかけて、振り向かせたときにはそう言っていた。自分の声に、タイラントは驚く。が、顔には出さない。シェイティが、無表情の目を向けてきた。
「詩人の細腕で、何ができるって? 可愛い坊やじゃねぇか。俺が可愛がってやるよ、なんなら、あんたもまとめてな」
 野卑に歯をむいて男が笑う。シェイティが、何かをする気であったとしても間に合わなかった。タイラントが先だった。
「細腕な。確かに」
 嫌な笑いをタイラントはした。男に、呻き声を上げる男に向かって。タイラントは男を無造作に蹴っていた。
「俺のものに手を出さないでもらおう」
 腹を抱えて唸る男に、タイラントは言う。睥睨し、そのまま背を返した。元の場所に戻って、何事もなかったかのよう竪琴を弾く。客もまた同じだった。この程度の騒ぎは、騒ぎではないのだろう。
 シェイティの目が彼を追う。嘲りも露な所有の宣言。それなのに、嬉しかった。
「……タイラント」
 呟いた声が、濡れていた。男が何かをぶつぶつと言いながら消えていく。シェイティは気づきもせずタイラントだけを見ていた。
 いつの間にか手元にエールがある。首をかしげれば、主人がうなずく。話題を提供したことへの礼か。シェイティは黙ってジョッキを掲げ口にした。
 吟遊詩人と、その連れを客はどう見るのだろう。自分たちが帰ったあと、わいわいと肴にするつもりだろうか。
「いいね、それも」
 小さく言ってシェイティは微笑んだ。うつむいたまま、目は何も捉えてはいない。耳だけが鋭くタイラントの音を聞いていた。
 憎しみ以外の何を向けられているというのだろう、タイラントに。自分は謝罪以外の何を抱いているのだろう、彼に。
 欲しいのはタイラントの魔法の才能か。違うと思った。タイラントが、欲しかった。首筋に手がある。撫でる。温かい。けれど竜とは違う感触。
 欲しいのは、竜か。違うと感じた。視線が彼へと向けられ、通り過ぎていく。失くしてしまった小さな竜。本人が、そこにいる。
「タイラント」
 呼び声は、彼には届かない。聞こえなくてもいい歌声だけが、シェイティに聞こえていた。
 耳をも塞ぎたくなった。旅の間に歌っていた歌。いまのタイラントの声で聞くのは耐えがたい苦しみだ。
「わかってるの」
 そっとシェイティは目を上げる。タイラントは嬉しそうに弾いていた。竪琴を弾く喜びだろう。吟遊詩人として、歌い手としてだけではなく、楽器をも操ることへの。
「わかってて、やってるの」
 囁き声は誰にも届かない。自分にさえ聞こえないほど。嬉々としたタイラントの顔だけを見ていた。
 不意にその眼差しがシェイティを捉える。すっと目が細まった。シェイティの心が冷える。これ以上凍りつくことがもしもできるならば。
「わかってるんだ……」
 あの歌を、あの声を、あの時間を。自分が好んでいると知っていて、タイラントはわざと歌っている。知らず、肩を掴んでいた。竜が乗っていた場所。
 それでもシェイティは席を立ちはしなかった。じっと彼の歌に耳を傾ける。飽きたよう、歌が変わった。
「よかったのに」
 いたぶられるだけのことを、自分はしたのだとシェイティは思う。それだけ深く酷くタイラントを傷つけた。詫びようなど、ないのだから彼が好きなようにすればいい。
 自棄でもなく、シェイティは本心からそう思っていた。抵抗する気なら、とっくにしている。彼のあの顔を見てしまったから。
 あの、酷く傷ついた顔を見てしまったから。だから言えなくなった。ごめんの一言が、どうしても言えなくなった。
 いまのシェイティにできるのは、思うさま嬲られることだけ。
「なにも、できないね。僕は」
 ジョッキの残りをシェイティはあおる。夜も更けていた。そろそろタイラントも仕事を終えるだろう。
 まるで、あわせて動いたかのようだった。シェイティが飲み終えるのと、タイラントが席を立つのが同時だった。そのことにシェイティは仄かな喜びを覚える。まるで、彼が自分を待っていてくれたかのように感じられて。単なる偶然だとわかっていても。
 それでもタイラントはシェイティを振り返りはしなかった。馴染みになった客の声に手を振り、ふらりと店を後にする。シェイティもまた無言で彼を追った。
 通りは暗い。店を閉め明りも消してしまったのだろう。背後にしてきた酒場だけが、明るかった。
 もう遠くに歩いてしまったはずのタイラントの背中を探そうとして、シェイティは驚く。すぐ、そこにいた。
「――化け物め」
 それしか言葉を知らないよう、タイラントは吐き出した。他に、言いたいことがあるのに言えなくなってしまったように。シェイティは黙って彼の元へと進む。タイラントはそこにいた。
 動かないタイラントに、思わず手を伸ばす。と、そのときだった。タイラントが忌まわしそうに体を避けたのは。あからさまに嫌な顔をして、振り払われた手をシェイティはじっと見つめる。
 立ちすくみ、手を見ていた。人間と同じ手。違う血が流れる手。同じ色の血が流れる手。タイラントはとっくにいない。ぎゅっと握りこみ、シェイティは彼を追った。




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