引き裂かれた衣服をまとう。這いずって手を伸ばしただけで体が痛い。服はぼろぼろで、衣服の体をなさない。
「最低――」
 呟いて、まだ笑っている自分がシェイティはおかしくなる。どこか浮ついた気分のまま、口の中で何事かを唱えた。
 途端に痛みが消える。消えたわけではない。感覚を殺しただけ。傷を負っても気づかないから、本当ならば危なくてこんな魔法は使えない。
 ただ、いまはそうでもしなければ動けなかった。溜息を一つ。体を見下ろしてシェイティはかすかに口許を歪めた。
「外、行けない」
 これでは外に出た途端に、ならず者がいい獲物だとばかり寄ってくるだろう。表通りに出れば、衛兵が飛んでくるだろう。
 痛みを殺したついでとばかり、シェイティはもう一つ魔法をかける。襤褸屑は消え、いつもどおりの衣服があった。
「なんか、変……」
 生身の目には、元通りの襤褸が見えている。シェイティの、幻覚だった。よほどの魔術師でもない限り見破ることはできない。
 くすりと笑ってシェイティは立ち上がる。壊れた窓に視線が動いた。朝早くに雨が降ったのだろう。まだ水滴が零れていた。
「綺麗」
 つい、と手を伸ばす。そして肩をすくめてシェイティはこれにも魔法をかけた。彼の手の中、水滴が凝る。
 まるで透明な蛋白石。様々にきらめく色がシェイティの手の中で揺らめいてはまた色を変える。
 それを持って、シェイティは外に出た。タイラントを探そうとは、しなかった。間違いなく彼は元のねぐらにいる。
 探ったわけではない。ただ、知っていただけだ。彼は逃げない。自分が逃げないように。
 夕暮れになれば、またタイラントは歌いに行くだろう。それまでに、しておきたいことがあった。
 シェイティの足は、久しぶりに表通りへと向かっている。同じ陽射しのはずが、妙に目に眩しくて、戸惑う。
 思わず手びさしを作ったシェイティを、町の住人が怪訝な顔をして見ていた。
「変、かな……?」
 それほど自分は変わってしまっただろうか。街の人があからさまに異質だと感じるほどに。きっと、変わっているのだろうと思った。そしていまにはじまったことでもない、と。
 シェイティが向かっているのは、宝石屋だった。宝飾品を扱う店ではない。その原石を卸す店だ。
 今でもシャルマークを旅すれば、それだけで立派に冒険、と言える。
 そして冒険者が持ち帰るものと言えば大方は金貨か宝石。魔法のかかった道具類など、よほどの僥倖に巡りあわなければ生きて持って帰ってくることができるものではない。
 だから、このような宝石屋は、いまだに充分に活用されていた。ひと時に比べ、冒険者が減った今でも。
 そしてシェイティがここを選んだのには一つわけがある。彼は、明らかにごく当たり前の人間とは違う雰囲気を持っている。
 町の住人が使うような宝飾店に石を持っていくこともできなくはないが、間違いなく不審者に見えてしまうだろう。主人から盗んだか、どこからか掠め取ったか。店を出るより先に、衛兵に通報されるのは堅かった。
「詐欺、かな」
 店を出たシェイティの手には、思ったよりたくさんの金貨があった。首をかしげてわずかに振り返る。多少は、悪いことをしたと思ってはいる。
 もっとも、詐欺とは言い切れない。あれは世にも珍しい宝石であるには、違いない。問題は二十年ほどで元の水滴に戻ってしまうことだが。
「仕方ないね」
 いまの自分はこうでもするより大金を稼ぐ方法がない。師の耳に入れば、渋い顔をされるだろうけれど。
「違うか。褒めてくれるかもね。あの人なら」
 人混みの中、シェイティは呟いてくすりと笑った。訝しげな顔をして、人々が離れていく。シェイティは気づきもしなかった。
 ゆっくりとシェイティは歩いていた。痛みがないとは言え、気をつけていなければ別の傷を負いかねない。
 彼の足はそのまま薬草師の元へと向かった。昔の真言葉魔法を使う魔術師ならば、こんなときには便利だろうとシェイティは思う。
 鍵語魔法に、治癒呪文はない。真言葉魔法によるそれも、決して効率がよいとは言えなかったけれど、ないよりはずっといいとシェイティは思うのだ。
「いつか」
 新しい魔法理論が構築できたら、そのときには簡単なものでいいから治癒呪文を再度魔法に取り込みたい、とシェイティは思う。
 視線が、裏路地へと向いた。その先にいるはずのタイラントへ。いつか、は来るのだろうか。自分はまだ魔法に興味を持つことができるだろうか。できる、と言い切ることがいまのシェイティには難しかった。
 高価な治療薬を贖い、別の店で衣服も新たにした。それだけで、ずいぶんな散財だ。後ろめたくなってくるのは、普段の彼が慎ましい生活をしているせいか。買物など、あまりしたことがなかった。
「いつもあるしね」
 確かに必要なものは必ずどこかにあった。自分で買わないだけで、だから元々たいそうな金を使っていたのかもしれない。師の元にいるから、シェイティが知らなかっただけのことなのかもしれない。
 それでも、こればかりは買ったことがなかったし、必要としたこともなかった。
 シェイティはいまだかつて手に取ったことがないものを買い求めた。
「これで、いいのかな」
 元のねぐらに戻ったころにはもう午後も遅い。治療薬を飲み、傷口にも塗る。それから感覚を取り戻せば、やはり痛かった。
「無理、か……」
 そうすぐさま効くわけもない。それこそそれでは魔法だ。
「あぁ、そうか」
 神殿に行けばよかったのだ、と今更気づいた。普段は怪我をしても側に神官がいるものだから、シェイティは神殿に行く、と言うことが浮かばなかった。
「それも、無理か」
 この傷を見られれば、何があったかは一目瞭然。まともな神官ならば、犯人探しをしてしまうことだろう。シェイティはそれを望まない。タイラントは、罪を犯してなどいない。
 軋む体に、ようやく新しい服を着る。それでずいぶんとさっぱりした気分になった。気持ちだけのことではあったけれど、さらさらとした布は心地良い。
「さぁ、行こうか」
 自分を鼓舞するよう、シェイティは言う。知らず、拳を握り締めていた。怖いのだろうか、それとも。
「なんだろうね」
 わからなかった。首を振り、シェイティは意を決して立ち上がる。不思議と痛みを感じなくなっていた。
 まだ、彼はねぐらにいるだろう。歌いに行くには、時間が早い。眠っているだろうか。それとも何か用をしているだろうか。
 それも、わからなかった。彼が一人でいる時間、何をしているのか考えたことがなかった。邪魔かもしれない。不意に思っては立ちすくみそうになる。
 強く首を振り、シェイティはタイラントのねぐらの入り口をくぐった。
「また抱かれにきたか」
 声が飛んできたのは、その瞬間だった。ずっと、気配を窺っていたのかもしれない。あるいは、彼からは見えていたのかもしれない。
「違う」
 言って、シェイティは自分でも本当はどうなのかがわからなくなる。それほどタイラントの声は、確信に満ちていた。
「へぇ?」
 嘲った、たった一言。シェイティの心をえぐる。聞かないふりをしたかったけれど、これが自分の罪なのだ、とシェイティは彼の言葉を聞いた。
「あなたに」
 そしてシェイティが差し出したのは、最後に買ったものだった。無言で受け取るタイラントが、何を考えているのかがわかれば。思ったけれど、彼の表情は見えなかった。
 薄暗がりの中、タイラントは眉を顰めて荷物を受け取る。嵩の割には、軽い。嫌な、予感がする。広げてみて、あたっていることを知った。
「施しか。そんなことができる身分か、化け物」
 淡々とした冷たい声。まるで、シェイティのような。それがタイラントの押し殺した怒りを物語っている。
「違う」
 叫ぶように言う。これは、かつてのタイラント。役割を入れ替えて、あのころを再現してでもいるよう。思った途端、シェイティの胸に痛みが走った。
「だったらなんだ!」
 叩きつけられたタイラントの声にシェイティは怯まない。タイラントも物を叩きつけようとは、しなかった。
 彼にシェイティが贈ったのは、竪琴。吟遊詩人の必需品。高価なそれを、いまのタイラントは持っていなかった。
「君なんかに――」
 ぎゅっとタイラントの手が握られた。竪琴を、突返そうとして、できない。視線が泳ぐ。そんな我が身を厭うよう、タイラントは舌打ちをする。
「僕が、聞きたいだけ」
「なに――」
「聞かせて欲しいだけ。あなたの竪琴、聴いたことないから」
 当然だった。シェイティが知るタイラントは、竜だった。小さな竜の歌声を、思い出すのは哀しかった。二度と、取り戻せないものがこの世にあるのだと思えばこそ。
「なんで俺が、君なんかのために? ふざけるな」
 嘲笑して、けれどタイラントの目は竪琴に吸い寄せられていた。
「ただで弾けとでも? 金払え、あいの子」
 くっと、嫌な声でタイラントが笑った。つられるようにシェイティは言う。そのようなこと、言うつもりなどどこにもなかったというのに。
「代価なら、昨日払ってるはず。違う? 足らないとでも?」
「あぁ、足らないな! あれが代価? 笑わせるな――」
 つ、とタイラントが顔を寄せてきた。シェイティは逃げない。目も閉じない。最後まで、彼の目を見ていた。
 殴られたほうが楽だった。噛みちぎられたほうが、幸福だった。タイラントのくちづけは、前の竜のよう、優しかった。




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