それから十日の間、シェイティはタイラントの背中を追い続けた。まるで、動きはなかった。時折、気まぐれを起こして宿に泊ることはあったけれど、たいていは夜遅くねぐらに戻ってくる。 シェイティは、そんな彼を遠目に眺めている。午後遅く、どこかの酒場に歌いに行くタイラントを。酒場は決まっていなかった。そのくせ、どこでも彼は受け入れられた。 それだけ娯楽に飢えていると言うことだろう。が、タイラントが一曲歌えば客は熱狂する。単なる娯楽とは言いがたいほどに。 時には向かいの店で、稀に裏の店で。シェイティはタイラントの歌声に耳を澄ませていた。ジョッキをあおり、苦笑を隠す。 「使ってるね……」 無意識なのか、意図的なのかは知れない。タイラントに聞くわけにもいかない。彼は、力を使っている。 魔術師であるシェイティにとって、それは魔法とはとても言いがたい。それほど未分化で未熟な力だ。 だが、力は力。魔法に慣れていないミルテシアの人々にとって、タイラントの歌の魔力は抗いがたいだろう。 タイラントはその力をもって、人々に自分を受け入れさせていた。歌に惹き込み魅了していた。それが悪い、とはシェイティは思わない。一つの技術には違いない。 「でも」 彼が意識しているならば、それでもいい。だが、わかっていないのならば、タイラントがつらい思いをするだけだろう、と思う。 「僕は、何をやってるんだろうね」 呟き声はジョッキに消えた。まだ顔を見せることができないでいる。 タイラントが力を使っていることを、わかっていないならば早く教えるべきだと今は強く思う。同じ過ちを繰り返したくはなかった。 それなのに、決心ができない。シェイティは通りがかった店主に片手を上げる。 「おかわりかい? あんた、金はあるんだろうな」 「見せようか」 「いいよ、あるんならな。なかったら――」 不穏を滲ませて主は言葉を切った。それにシェイティは肩をすくめて答えない。どうやらその態度は正解だったようだ。程なく新しいエールが運ばれてくる。 シェイティとて無尽蔵に金があるわけではない。そろそろ稼がないと手持ちが少なくなりかけている。タイラントの動向はわかっていたから、三日前には少し離れた通りに出向いて、稼いできた。 「カロルがなんて言うかな」 師が聞けは、渋い顔と共に罵声が飛んでくるだろう。それを思えば少し、楽しくなってくる。シェイティは自分を元手にしていた。 「いやだな……」 連想が、妙な方向に行きかけて、顔を顰める。シェイティが売っていたのは、芸だった。通りで人を集めて手品をする。種も仕掛けもない、手品だった。本当のところはと言えば、魔法に他ならない。 どこから湧いて出てきたのかと思うほどわらわらと集まった子供たちの視線を浴びているのは、これで案外楽しかった。はじめは遠巻きにしていた大人たちが、少しずつ近づいて子供同様に目をきらきらさせるのを見るのも、楽しかった。 悪くない生き方だ、と思う。もっとも、本職の手品師には悪いことをした、と思ってはいる。ふらりと現れて稼ぎを奪ってしまったのだから、睨まれるぐらいは仕方ないだろう。 歌が、やんだ。シェイティはそれとなくジョッキを干して立ち上がる。胡散臭げな目で店主に見られたけれど、気にもしないで店を出た。 まっすぐには、戻らない。今夜のタイラントはどうするのだろうか。ねぐらに帰るのか、それとも。 この十日間で、彼がねぐらに一人でいるのはわかっていた。どこか、ほっとしている自分からシェイティは目をそらさない。 「カロル……」 けれど夜の暗い裏路地で、シェイティは違う名を呟く。目が、星一つない夜空を見上げた。 「あなたなら、どうするの」 いったいどんな気持ちで彼はリオンを信じたのだろう。リオンに向かって足を踏み出したときの、その気持ちが聞きたい。 「できないか。そんな恥ずかしいこと」 くっと笑ってシェイティは足を進める。笑っているくせ、目は凍ったままだった。 どうしたらよいのか、少しもわからない。タイラントに姿を見せるべきか、それともまだ遠くから見つめているべきか。 「見せたい?」 自分はどうしたいのだろう。タイラントに会いたい。会って、話をしたい。それがシェイティの、いまの真実だ。 「見せたくない?」 だがしかし、タイラントはどうなのだろうか。シェイティに会いたいと思ってくれるか。話をきく気になってくれるか。 「無理だよね――」 シェイティは、だからためらい続けている。ためらって、ためらって、すでに十日だ。埒があかなくて、我ながら苛々する。 こんなに優柔不断だっただろうか、自分は。もっときっぱりとした性格だったと、自分では思っていたのだが。 「変わったね、僕」 変わったと、言われてもよくはわからない。それでも少し、変わったような気がする。リオンもそう言っていたらしいけれど。 「タイラント……」 思い出してしまった。リオンが変わった、と言っていたと告げたのは、タイラント。いまここにいない、小さな竜。 いつの間にかシェイティは自らの首を撫でさすっていた。いつもそこにあった、竜の尻尾。二度と帰ってこない、温もり。 「鈍いね、僕も」 夜気に、シェイティの溜息が溶けていく。このままずっとここにあればいい、そう思っていたときには自分の気持ちなど、まるでわかっていなかった。 失うと、はじめからわかっていたものだった、竜の姿は。それでも取り戻した人間のタイラントは、話せばわかると思いたかった。 失いたくない。失うはず。人間にとって、闇エルフの子はおぞましい化け物だ。話して、わかってもらえると本気で思っていたわけではない。 「わかって、欲しかったよ――」 重たい溜息が、足にまつわりつくようだった。あのような形でなければ。はじめから告げていれば。もしも。あるいは。万が一。 考えてもどうにもならない過去ばかり、浮かんでは消え、消えては浮かび、シェイティの心を重く染めていく。 いつものねぐらに、帰ってきたのはだからシェイティのほうが、遅かったようだ。彼のねぐらから、歌が聞こえる。 いつの間にかここはシェイティの場所、と暗黙の了解ができたのだろう。この廃屋には彼しかいない。壊れた窓に腰掛けて、シェイティはタイラントのねぐらを見やる。 酒場で歌う歌とは違っていた。それもこの十日、変わらない。 「あれじゃ、金にはならないね」 タイラントが一人で歌う歌。それは彼の真実の心だろう、いまの。恋歌を歌おうと、英雄詩を語ろうと、残酷さが滲み出てはあふれてとまらない。 夜のタイラントは、いっそう酷薄さが強く出る。朝は、まだそれほどでもないのだ。だがいまは夜。聞いているだけで背筋がそそけ立つような気すらする。 「タイラント」 いっそ、いまから彼の元に行こうか。タイラントの気が済むならば、この自分をどうとにでもすればいい。そんな詮無いことをシェイティは思う。 「殺されてあげてもいいけど」 それでタイラントが救われるならば。だが、シェイティの知るタイラントは、いつか自らを取り戻したとき、この命を奪ったことを悔いるだろう。 「させられないね……」 後悔は、させたくない。こんな、自分のことで。シェイティはそっと首を振る。 生きていたいと思って生きてきたわけではなかった。生まれてしまったからには、死にたくない、それだけだった。 前を向き、顔を上げて進む。そう決めた日のことをシェイティはほろ苦く思い出す。少しも、進めていない。 漫然と、生きているだけ。ならばいっそ、死んでしまってもいいような気がする。 欲望が、ないわけではない。新しい魔法理論を構築したい。それを心から望んでいる。けれど、そのために生き続けられるか、と問われれば首をかしげてしまう。 「僕は、生きてるのかな」 本当の意味で、生きているのだろうか。ただここに、動いて喋る体があるだけ。そんな気がしてならない。ほう、と大きく溜息をついた。いつの間にか歌がやんでいたのにも、気づかなかった。 「――殺してやろうか」 愕然とシェイティは振り返る。人がいるとは、思ってもみなかった。この自分が気づかないなどとは。ましてそこに。 「……タイラント」 声が、掠れた。名を呼ぶだけのことが、こんなにも苦しいものだったとは。窓枠に腰掛けたまま、シェイティはタイラントを見る。 「死にたいか? だったら殺してやるさ。せっかくあのとき見逃してやったのに」 薄く笑みを浮かべていた。どこからともなく射し込む明りだけの、人影すら定かではない闇の中。それなのにタイラントの口許だけが淡く見える。 「させない」 シェイティの答えをどうとったのだろう。タイラントは笑みを深めた。ぐっとシェイティは唇を噛みしめる。 無造作に、近づいてきた。何をするのか、考える間もない。シェイティは悲鳴をこらえてタイラントを見上げる。 「化け物め――」 髪を鷲掴みにされたまま、頭を強く揺さぶられた。酷い、眩暈がする。行為より、言葉の刃に。 「できないと思ってるなら、ずいぶん舐められたものだな」 タイラントが顔を近づけてシェイティを覗き込む。嘲笑も露な目にさらされるのが、耐え難い。シェイティの鼻先に、きつい酒の匂いがした。 「飲んでるんだ」 「だからなんだ? 化け物に指図される覚えはない」 「やめて」 顔を、そむけた。これはタイラントではない。正気を失った人間の男だ。そう思うのは、簡単だった。 それでもこれはタイラントだった。酒に濁った青い目がシェイティを見据える。彼の手を振り払おうと腕を上げたその拍子、タイラントの片目を覆っていた布がずれて飛んだ。 見なければよかった。シェイティは心から思う。色違いの彼の目は、どちらも憎悪に血走っていた。 |