タイラントが、ここに泊っているのは、わかっていた。シェイティはひっそりと息を詰めるようにして一晩を過ごす。 翌朝は、早くに発った。朝食は宿で食べず、近くの屋台でパンを買う。 「おまけだよ、持ってきな」 屋台の主はそう言ってシェイティに腸詰を放ってよこした。 「いいの」 パンより、腸詰のほうが値が張るだろう。人の好意を素直に受けるには、シェイティはいま荒みすぎている。 「やるよ。なに、ちょいと傷みかけててな」 男はそう言って肩をすくめた。礼を言ってシェイティは受け取ったけれど、やはり自分はいま施しを受けるほど酷い顔をしているのだと思う。 傷みかけの腸詰でも食べれば元気が出るだろう。男にそう思われたのは確かだった。 シェイティは皮肉に唇を歪めながら、朝食にかぶりつく。少し、驚いた。腸詰は、傷んでいる様子などどこにもなかった。 ちらり、と屋台を振り返る。ばつの悪そうな顔をして、男がこちらを見ていた。 咄嗟に視線をそむける。男が、何を考えているかわかった気がした。 「安く見られたもんだね」 ぽつりと呟いて、シェイティは急に飲み込みにくくなってしまった朝食を片付けた。 その間も、宿の入り口から目は離していない。あからさまに見ているわけではなかった。そのようなことをすれば、出てきた途端タイラントに気づかれてしまう。 遠目で窺ううち、こちらは宿で食事を済ませたのだろう、ゆっくりとタイラントが姿を現した。 朝の光の元で見てもタイラントは荒れていた。煩わしいのだろう、青い片目をすがめて町並みを見ている。 程なくどこへともなく歩き出す。シェイティは無論、つかず離れず彼を追った。興味があった、いったいタイラントが何をしようとしているのか。 彼は、どこに向かうのだろう。どうやって、この一月ばかり暮らしていたのだろう。王宮に、向かうとは思っていなかった。 彼は王宮に伺候したこともあると言っていた。あの歌ならば、当然だとシェイティも思う。だがいまのタイラントの有様では、とても衛兵が通すとは思えない。 まるで吟遊詩人と言うより、暗殺者だ、とシェイティは人混みの中、タイラントの背中を見ている。あのぼんやりとしたタイラントと同じ人間とは思えないほど、今の彼の足運びは油断がない。 「それほど、酷いとこにいたってことかな……」 ほんの一ヶ月。だが、人の態度を変えるには充分な時間だった。離れていた時間に、何があったのかいつか聞きたいと思う。 そう思ってシェイティはこっそりと首を振った。話してもらえる機会があるのだろうか。そもそももし、姿を現したならば、口をきいてもらえるのだろうか。 いまはまだ、会話になるとは思えなかった。タイラントは大通りを避けるよう、歩いている。どちらかといえば、程度のよくない通りばかりを選んでいるらしい。 いつしか完全に危険、と言い得る場所に入り込んでいた。ミルテシアの王都にも、このような場所があるのだな、とシェイティは慣れた仕種で辺りを窺う。 万が一タイラントがシェイティの存在に気づいていて、追い払おうとしているのであったら、無駄なことだった。シェイティはぬくぬくとした生活しか知らない魔術師ではない。 もちろん、タイラントはシェイティの事になど気づいていなかったから、それは杞憂と言うものだった。 狭い通りには、人があふれている。そのほとんどが、これから眠ろうとする人々だった。けだるい顔をした女が窓に寄りかかって通りを見ている。使い走りの小汚い少年が、ちらりとシェイティを見やっては何事もなかったよう駆けていく。 つまりここは、そういう場所だった。シェイティは、思い出したくないことを思い出しそうで嫌な気分になってくる。 このようなところに、いったいタイラントはなんの用事があるというのか。すぐに、わかった。タイラントが、物慣れた様子で一つの扉をくぐる。 「ねぐら、か……」 口にしてみて、どこかがずきりとした。単なるねぐらであればいい。あの扉の向こう、タイラントが一人であればいい。 「僕――」 何を考えているのか、自分は。知らずシェイティの視線はタイラントが消えた扉を凝視している。訝しげな目をそこかしこで感じたけれど、今のシェイティは気づきもしなかった。 「な、あんた」 不意に声をかけられて、シェイティは飛び上がりそうなほど驚いた。そしてそれほど注意力が散漫になっていた自分が腹立たしい。 「なに」 振り返ったところに、少年が立っていた。先ほど駆けていったのと、同じ少年だと思いはするものの、確信が持てない。汚れ方が、いっそう芸術的になっている。 「あんた、あの歌い手に用? なんだったら、取り次いでやろうか。取り次ぐとかって言うと、なーんかえらそーだよな?」 「要らない」 「まぁ、そう言うなって。あんた、どっかのお貴族様かなんかの使い? あいつ、うまくやったよなー。新入りのくせにさ。顔がいいと違うね」 「失せろ」 聞いていると、吐き気がしてきた。少年にではない。このようなところにいるタイラントにでもない。ここに、あまりにも馴染みやすい自分と言う存在に。 「なんだよ、それ。人が親切にしてやってるうちが花だぜー?」 粋がった少年が、手を上げるのをシェイティは待たなかった。するりと身をかわし、通りを抜ける。少年と、その仲間が追ってきたけれど、そのときにはすでに別の幻影をその身にまとっていた。 「あんた! ここ誰か通んなかったかい?」 「さて。私もいまこの道に入ったところだから……」 「んなこたァ、見りゃわかんだよ、見りゃ。だから、あんたと誰か、すれ違わなかったかい?」 「すれ違ってないねぇ」 ちっと舌打ちをして、少年たちは踵を返し駆けていく。シェイティは、時間を置いてから、老人の幻影を解いた。 「迂闊だったな……」 あの少年が、タイラントに今日のことを告げるかもしれない。知ればタイラントは別のところに移ってしまうだろう。 「幻影、かけておくんだった」 いまのシェイティは、タイラントが知るシェイティの顔をしている。素顔で出歩けば、要らぬ騒ぎを起こすことが目に見えているからこそ、幻影をかけているのだが、だったらいっそ、彼が知らない顔にすればよかった、そう思う。 「だめか……」 思っただけで、その気が失せる。いまの顔は、必要最低限の、いわばシェイティにとって衣服のようなものだ。 容貌も、激変してはいない。闇エルフの血を引く特徴を少し、緩和しているに過ぎない。それだけでシェイティは人間に見える。 だが、別の幻影となると話しは違う。それでまるで変装してあとをつけまわしているようではないか。卑怯だ、と思う。 「変質者にはなりたくないしね」 小さく笑ってシェイティはその場を後にした。あの少年がまだいるかもしれないことを警戒して、別の通りを選ぶ。 宿のときのよう、簡単にはいかなかった。遠目にタイラントのねぐららしい家を窺うことのできる場所を見つけたのは、午後になってからだった。 「タイラント……」 彼のねぐらの、ちょうど裏手にある家をシェイティは見つけていた。家、と言っても廃屋が裸足で逃げ出すような代物だ。いたるところに吐瀉物のあとがある。汚さのせいとは思えなかったけれど、いまのシェイティにとって幸いなことに、使っている人間もいないらしい。 座る気には、なれなかった。自分の体が汚れそうな気がする。壊れた窓枠に腰を下ろした途端、木材が粉々になった。 「壊れかけてたって言うべきだったか」 完全に破壊された窓を悲しげに見やり、シェイティは少し笑った。今度は慎重に窓に手をかけ、そのあと強く揺さぶる。壊れないと見て、腰掛けてはほっとする。 「なんか、いやだな」 こんなところで日常を感じている自分が、嫌だった。まだ笑える自分が、嫌だった。 そのときだった、聞こえてきたのは。シェイティは窓枠に腰を下ろしたまま凍りつく。ぴくりとも動かず、耳を澄ませていた。 「タイラント」 彼の歌声が聞こえる。練習しているのだろう、まだ声の出がよくない。それでもタイラントの声だった。 聞きなれた、あの頃の声ではない。昨日の晩、酒場で聞いた声。 「変だね、僕は」 喉が詰まる。思わず首元に手をやりかけ、意志の力で無理やりおろす。 昨日聞いたばかりのタイラントの声。それのにこんなにも懐かしい。いま仮に師の声を聞いたとしても、懐かしく思うかどうかわからないほどに。 別の歌が聞こえだした。華やかな恋歌だ。早くに目覚めたらしい娼婦が、窓から首を出してはタイラントを囃している。 彼は、答えたのだろうか。きっと応じたのだとシェイティは思う。歌の調子が、いっそう華やいだ。 「タイラント」 どんな顔をして歌っているのだろう。どんな言葉で娼婦に答えたのだろう。シェイティは、自らの拳をきつく握っていることに気づかなかった。 風が変わったのだろう、歌詞がシェイティの耳にも届いた。男の不実をなじる女の歌。それを男のタイラントが歌う。倒錯的、と言うよりは内容があまりにも自虐的だ。 いまここで、彼が何を考えて歌っているか知る者はいない、そのせいだろう。歌には彼の真実がこもっている、シェイティの耳には確かにそう聞こえた。 「……ごめん」 謝って許してもらえるわけではない。わかっていながらシェイティはそう呟くしかできなかった。手に痛みを覚えいつのまにか掌に爪を立てていたのを知る。 「あ……」 爪が破った皮膚からは、血が滲んでいた。シェイティは泣き笑いの顔で傷を見やる。否、傷口を。そこから滲み出す血を。 赤い血は、人間と同じ色をしていた。 |