咄嗟のことだった、シェイティが暗がりに身を隠したのは。元々明るい場所に座っていたのではない。それが功を奏した。
「歌い手だ。――かまわないか?」
 店の主に尋ねる男の目に留まることはなかった。シェイティは密かに息を飲む。
 タイラントだった。だが、一度彼の人間の姿を見ていなかったならば、もしかしたら見分けがつかなかったかもしれない。
 彼は全身黒一色に装っていた。単に、手に入った衣服がそれだけだったのだろう。だが、いまのタイラント雰囲気にはなんと似つかわしいことか。
 客を求めようと言うのか、店の中に視線を巡らせる。黒い粗末な布を斜めに掛け渡して左目を覆っていた。振り返った拍子に、髪がなびく。銀の長い髪は無造作に革紐でくくられていた。それだけのことが、精悍な男の匂いを振りまく。
 酷薄な青い目が、店内を巡る。ざらりと客がざわめいた気がした。
「あんた、何が歌えんだ」
 勇気ある男がジョッキ片手に言う。その拍子に中身が飛び出す。男は手が濡れたのも気づかないようだった。
「なんでも」
 肩をすくめたタイラント。本当に、これがあのタイラントだろうか、とシェイティは背筋が凍る。
 共に過ごしていたときの屈託のない快活さなど欠片もない。鋭く研がれた刃のよう。視線を向けられるだけで、客たちは一様に目を伏せる。
「だったら、女の歌だ!」
 先ほどの男が叫んだ。自棄のよう、ジョッキをあおる。タイラントはひとつうなずき、椅子に腰を下ろす。
「あんた、座って歌うのかよ?」
「悪いか」
「……いや、悪かぁねぇよ」
「そうか」
 完全に、客は気圧されていた。シェイティは暗がりからタイラントを見ていた。彼の歌を聴きたかった。
 いまタイラントは、いったいどんな歌を歌うのだろうか。あの塔で歌っていた彼の声を思い出す。柔らかで、熱心な声をしていた。
 タイラントは軽く膝で調子をとり、歌いだす。恐る恐る彼を見ていた客たちが、驚いて歌い手を見た。どこから、このような声が出るのだろうか、と。
 シェイティは唇を噛みしめる。嗚咽が漏れぬよう、固く口を結ぶ。
 変わっていた。あの時の歌声ではない。彼の心が変わっていた。それでいて、声はまるで変わっていない。
 旅の間に聞いた歌声が、穢れていく気がして、たまらなくなる。それでもこれもまた、タイラントの歌だった。
「――他には」
 ゆっくりと歌い収め、タイラントは目を上げる。いままで伏せていたことに誰も気づいてはいなかった。
「その前に、親父! エールだ、エール!」
 熱狂的な客の騒ぎが辺りを圧する。タイラントの歌をはじめて聞くものにとっては、素晴らしい歌だったのだろう。
 シェイティは、いたたまれない。いますぐここを発ちたい。やっと見つけたタイラント。それなのに、顔をあわせることができそうにない。
 彼の歌から、澄んだ響きを奪ってしまったのは自分だ。シェイティはそう思う。彼の歌に、薄く滲む残酷さを与えてしまったのは、自分だと。
 だが、そっと席を立つことはできそうになかった。客が、そこかしこで立ち上がり、タイラントに群がっている。
 紛れてしまおうかとも思ったけれど、それをすれば反って目立ちそうで、できない。
「お客さん、追加は?」
 座り込んだままのシェイティに、店の主が声をかけてくる。とんでもない歌い手の出現に、ほくほく顔をしていた。
「要らない――。いや、やっぱりもらう」
 まだ座ってなければならないのならば、何も手にしていないより、ジョッキを持っていたほうが目立たない。そう思ってのことだった。程なく主が追加を持って現れる。
「歌は、頼まないのかい? 見かけない顔の歌い手だけど、いい歌だったねぇ」
 一人合点でうなずく主に、シェイティは答えられなかった。いい歌などというものではなかった。もっとタイラントの歌は良かった。もっと、ずっと。
 主に何かを言えば、叫びだしてしまいそうで、シェイティは黙るしかない。むっつりとジョッキを空ける若い男に主は関心を失ったのだろう、また別の客の元へと歩き出す。
 タイラントが歌っていた。客の要望に応えて、今度は英雄詩を語るよう歌っている。シェイティはそっと彼を盗み見た。
 わかっていて、やっているのではないかと疑ってしまいたくなる。いまここに、自分がいると知っていて、わざとそうしているのではないかと。
 タイラントが語る英雄詩は、以前自分が教えたものではない。ミルテシアに伝統的に伝わるものだった。シャルマークの、三英雄の詩。
 だからよけい、シェイティは悲しくなる。わかっている。巷間に伝わっていない四英雄の歌など、怪訝な顔をされるだけ。商売にはならないだろう。
 それでも、タイラントがそれを歌う。やりきれなくなってきたシェイティは、目立たないよう席を立つ。
 客は、みなが一心に歌を聞いていた。タイラントも気を入れて歌っているように見える。いまならば、あるいは。
 静かに席を立ち、シェイティは密やかに二階へと上がっていった。喉が、痛い。こらえ切れなかった悲しみが、あふれ出てしまいそうだった。
「……タイラント」
 部屋に戻り、扉を閉めるなりシェイティは扉に背をつけたままうずくまる。ずるずると、床に座り込む。
「僕が」
 悪いのは、わかっている。彼を信じなかったこと。すべてを自分ひとりで片付けようとしたこと。
 その報いがこれだった。タイラントは、自分が追い求めてきたタイラントはどこに行ってしまったのだろうか。
 いまはとても思えなかった、詫びるなど。まして、許しを請うなど。請うても許してくれるとは、思えない。
 あの冷たい目を思い出す。いまもまだ歌っているのだろう、階下からは歓声が聞こえる。客たちには、どのように聞こえているのだろうか。言うまでもない、素晴らしい歌い手だと思っているに違いない。
「どうして――」
 あれほど変わってしまったのか。辺りを睥睨するよう、見回していたタイラント。客を、同じ人間だと思っているのか疑わしい視線。彼の目にはいま、客は金に見えているのではないか。
「タイラント」
 シェイティは、床を見やる。そこから階下を見通せればいいとでも言うように。
「タイラント」
 聞こえないはずの彼を呼ぶ。聞こえては困る彼を呼ぶ。うずくまったまま、膝を抱えて。
 こんなとき、師ならばどうしろと言ってくれるだろう、ぼんやりとシェイティは思う。
「馬鹿が立ち止まるな、かな……?」
 師の面影に、シェイティは力なく笑った。今になって、思いつく。酒場から、魔法で逃げてしまえばよかった。
 どうせ、ミルテシアだ。魔法が使われたことに気づくような人間がごろごろといるとは思いがたい。ならば、そうしてしまえば、あのむごい歌を聞かずに済んだ。
「違う。僕は――」
 聞かなくては、ならなかった。変わってしまったタイラントを見なくてはならなかった、この目で。ぎゅっと拳を握る。
 それが、自分のしてしまったことへの、責任だった。あれがタイラントの本性だとは思いたくない。それでも、タイラントの一部であるには、違いない。
 人は、自分の中にないものに変わることはできないのだから。残虐も、博愛も、元々持っているものでしかない。シェイティは、身をもってそれを知っている。
「逃げない」
 二度と、逃げない。言いつつ、何度逃げたことか。シェイティは苦く笑い、ずるりと這い上がった。それでも立ち上がる気力はなくて、寝台に腰を下ろす。
 硬い、安寝台だった。毛布など、汚れていて元の色がわからない。とても使う気にはなれない代物だ。それでもここは、誰からも隔離された場所だった。
 階下のざわめきは高まるばかりで静まりそうにない。タイラントのために喜ぶべきだろうか。しばし考えて、シェイティは首を振る。
「僕の知ってるタイラントは、もっと、ずっと――」
 気づけば、首の辺りを指が這っていた。ぎょっとしてシェイティは自らの指を眺める。
「あ……」
 不意に、気の抜けたような声。シェイティは笑っていた。今にも泣きそうな笑顔と言うものがあれば、これだった。
 指が触れていたもの。今はない、竜の尻尾。長くそこにあった、竜の影。肩は重みをなくして久しい。首は、息苦しさを感じなくなった。耳許で聞こえた呼吸も、柔らかく擦り付けてくる頭も。
「……タイラント」
 どうしてこんなにも彼を求めるのか。忘れてしまってもよかった。無責任かもしれない。それでも、生きていく場所が違うのならば、そっと別れるのも一つのあり方に違いはない。
 それが、シェイティにはできなかった。タイラントだけは、どうしても。
「どうして、僕が」
 タイラントならば、わかるのだ。シェイティの顔が皮肉に歪む。
 気づいていなかったはずがない。ずっと彼は自分の肩にいたのだ。わずかな動揺、仄かな感情。手に取るように伝わってきた。
「あなたじゃ、ないのに」
 また、指が尻尾を探していた。きゅっと掌に指先を握りこむ。
 タイラントが何を考えているか、シェイティは知っていた。思いを寄せられているらしいことに、気づいていた。
「無視したけど」
 それが、悪かったのか。だがタイラントもまた、隠そうとしていた。シェイティは、あのときどうするのが最も正しかったのかわからなくなる。
 自分では、最善だと思ってた。思っていたからこそ、全部自分で被る気になったのだ。
「自己満足」
 それがなかったとは言えない。悲劇ぶっていなかったとは、言いがたい。それでもタイラントを一番に考えていたからこそした決断であったことも、間違っていない。
「タイラント」
 やっと見つけたタイラント。捜し求めていた男を見つけたというのに、シェイティは自分が何をし、どうしたらよいのかわからなくなっていた。まったく。何一つとして。




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