傷が癒えた後、シェイティは王都に戻った。猥雑な人混みに立ち混じるのは好きではなかった。それでもタイラントはここにいる、そんな確信がある。 すでに幻影はあの小屋を発つときにかけなおしてある。自分を偽っているようで、これも好きではない。が、人前に出るならば致し方ないと諦めている。 ラクルーサならば、このようなことはなかった。師と共にいる間は、少なくとも完全に安全だ。元々過ごしていた場所では、シェイティの出自を誰もが知っている。 「だからと言って――」 好かれていたわけではなかったけれど。小声でシェイティは呟いた。単に、排斥されなかっただけのことだ。 それでも、幻影で偽る必要がない、と言うのは思ったよりずっと気楽なことだったのだと、この旅の間でシェイティは知った。 タイラントを思う。あそこまで嫌がらなくても、とかすかに不快だ。そして首を振る。あれが、当たり前の人間の反応だ、と。 人間なんか好きではない。軽蔑に値する種族。どこかでそう思っている。それなのに、シェイティは人間だった。 誰も、それを認めてはくれない。少なくとも、シェイティを嫌う人間は。師やその周りの人々は、シェイティをただのシェイティとして扱う。人間とも闇エルフの子とも言われない。 シェイティを知らない人間たちは、間違いなくシェイティを闇エルフの子としてしか見ない。 「ただの、人間なのにね」 呟きに苦さが混じる。確かに、闇エルフの父を持った。だが、シェイティは人間の定めに縛られ、人間として生きそして死ぬ。 傷を負えば痛むし、人より多少治りが早いのは大して珍しい特性でもない。人間にだとて、その程度の個体差はある。 何よりシェイティは、死ぬのだ。いつかは、必ず。それが、人間である何よりの証明だった。 町を行きかう人の群れをシェイティは見やる。この中にもしかしたら同じ闇エルフの子が混ざっているのかもしれない。半エルフの子すら、いる可能性がないとは言えない。 それなのに、仲間だとは思えない。普通の人間もやはり、仲間とは思えない。 「誰……」 呟きが耳に入ったのか、すれ違い様に訝しげな顔をした男が通り過ぎていった。 誰か、本当に仲間だと思うことができる人はいるのだろうか。師や、リオン以外に。それを求めて旅に出たはずだった。 むしろ、出されたと言ったほうが正しい。師は言った。 「弟子にしたいと思える誰かを見つけるまで帰ってくんな」 と。突き放すような、冷たい言いぶりだったけれど、本心から心配されているのが手に取るように伝わってくる。 いずれ、師も死ぬ。彼もまた人間だから。そのとき自分が一人でいるかもしれない。誰も信じられず、あたかも異種族の群れに放り込まれたよう、一人きりでいるかもしれない。それを彼は恐れていた。 意外と過保護だ、とシェイティは師の言動を思い出してはそっと微笑む。 弟子にしたいと思えるほど、誰かを信じてみろ。そう言いたいのは、わかっていた。 それが、こんな恐ろしいことだとはも思わなかった。他人を信じる。言葉にすれば簡単だ。が、その難しさ。 自分のすべてを相手に向けて放り出す。シェイティにはそのように思える。自分の心身のすべてを、賭けられるか、タイラントに。 「……無理かな」 きゅっと唇を噛みしめシェイティは立ち尽くす。通りの真ん中で立ち止まった彼を、人が邪魔そうによけていく。 自分の周りを通り過ぎていく人の群れが、急に言葉も意志も通じない、魔性の群れに見えた。ぞっとする。 「怖い」 心の中でだけ、言った。そのはずが、唇から音は漏れていた。肩を抱いてシェイティは首を巡らせる。 本当に、タイラントを見つけたいのだろうか、自分は。見つけたい、そう思っているはずだ。 それなのに、やはり彼の顔を見るのが怖くてたまらない。ゆっくりと息を吸う。 「僕が――」 細く吐き出す。吐きつくして、吸う。再び、吐く。 「――悪い」 苦いものを口にしたよう、シェイティの唇は歪んでいた。 タイラントに話しておけばよかった、といまは思っている。イザベラが、彼を陥れたことを話しておくべきだった。 そうすれば、タイラントは心の準備をすることができただろう。何もわからないうちに、混乱に叩き落としたのは、シェイティだった。 「見つけなきゃ」 タイラントを見つける。そして、謝らなくてはならない。過ちを詫びて、できれば許して欲しい。 そう思うことができたせいだろう、シェイティは再び歩き出す。先程よりずっと心は軽くなっていた。 本当は、簡単に許してくれるわけがないことくらい、わかっている。簡単でなくとも、許してもらえるかどうかわからない。 タイラントは怒っていた。心の底から怒っていた。シェイティが隠し事をしていたことを、怒っていた。 それほど、信じてもらっていたのだと、今更ながらシェイティは自分のしたことが恥ずかしくなる。 信頼を、手酷く裏切ったのは、自分だった。幻のよう、あの明るい声が聞こえる。もう一度、聞きたかった、あの呼び声を。 シェイティ、と言う師の側に迎えられたばかりの頃の呼び名に、いい思い出はない。師との度重なる喧嘩を思い出す。昔の話をするたび、リオンは言ったものだ。 「それはとても喧嘩とは言えませんねぇ。むしろ、殺し合いと言ったほうが正しいのでは?」 そう言っては、首をかしげて笑っていた。当時は嫌なことを言う、と思ったものだけれど、あながち間違ってもいないのだ。 自分は本気で師を殺そうとしていたし、師は師で確実に叩き潰すつもりでいた。無論、そうしなければ自分の生命が危ういと思ったからこそ、師は徹底して叩いたのだとわかっている。それほど、互いに本気だった。 シェイティの名は、そのころの侮蔑表現が元だった。師を信頼することを覚えてからは、度々からかうよう、その名で呼ばれるようになった。 子供をからかう言葉で、互いが傷つくことはない、それをお互い理解していた。 不意にシェイティは懐かしくなる。師の、流れるような罵詈雑言をずいぶんと聞いていない。聞いている間は鬱陶しいものだったけれど、なくなると寂しくなる。 「帰ろうかな」 無駄に口にしてみて、己の心に湧きあがってくる思いを確かめた。帰りたいとは、思わなかった。 シェイティは一つうなずいて、目についた酒場に足を向けた。また時間は早い。夕方になればもっと人出は増えるだろう。 だが、タイラントに手持ちの金はさほどないはず。ならば、早いうちから店に出て稼いでいることは充分に考えられた。 「歌ってるはず」 シェイティはそう思っている。彼にいまあるもの。生まれついての美貌と、そして歌。美貌のほうを金に変えていないとは言いきれなかったけれど、不思議とそちらはしていないだろう、と考えていた。 だから、シェイティはタイラントがどこかの酒場で歌っているはずだと思っている。決して悪い声はしていなかった。 むしろ、シェイティは気に入っている。それが万人好みなのかはわからなかった。一つ目の酒場では、吟遊詩人の影すらない。 諦めてシェイティは別の酒場を探しにいく。そう思ってあたりを見れば、さすが王都と言うべきだろう。 「驚くね」 酒場の看板が、視界の中にいくらでもある。猪亭に、英雄亭。黄金の獅子亭。ちらりと目をやった小道の奥には、花の彩り亭などと言うものもあった。こちらは、健全な酒場ではないだろう。 これを虱潰しにしていくのかと思えば気が重い。人に聞けばいいものだったけれど、シェイティはタイラントの名を出すのを恐れた。 誰かに尋ねる。それを思った途端、咄嗟に考えた。自分の風体。タイラントの心の中。自分が探していると知れば、彼は逃げるだろう。 だから、シェイティは一人でタイラントを探した。吟遊詩人の歌声が聞こえる場所ならば、酒場ではなくとも足を向けた。 楽器を持っていないだろう見当はつけている。いまの彼にそれほど金があるはずはない。楽器は、それなりに高価だ。 だからこそ、早く探さねばならなかった。タイラントが金を溜めてしまったならば。まず彼は楽器を手に入れるだろう。そして楽器を手に、王都から出てしまうだろう。 そのあとの足取りを追うのは、簡単ではない。楽器を持った吟遊詩人など、数が多すぎて情報の得ようがない。たとえ誰かに聞くことができたとしても。 王都に戻ってから、三日が過ぎていた。シェイティの顔色は冴えない。人混みが、徐々につらくなってきている。 人気の多い場所が苦手なのは、わかっている。なにしろ自分のことだ。それにしても、多すぎた。なにか、祭りでもあるのではないかと疑ってしまうほどだ。 「なにか、あるの?」 四日目も、収穫は何もない。もしかしたらタイラントはすでに王都を出ているのではないか。そんな疑問が首をもたげる。 疲れを隠せず、シェイティは酒場に腰を下ろしていた。今夜の宿に決めたのは、場末と呼ぶのが最大の賛辞ででもあるような、倒壊寸前のくたびれた酒場だった。二階に宿泊用の個室があることのほうが、いっそ不思議に思えてしまうほど、酷い。 シェイティは、誤算を悟っている。これほどのところならば人も少ないだろう、と思ったはずがこの人出だ。 「あんだって?」 隣に腰を下ろした赤ら顔の男ががくりと首をこちらにかしげる。咄嗟によけたシェイティに、男はけたけたと笑った。すでに、出来上がっているらしい。 「人。多いから。なんかあるのかと思って聞いたの」 「あん? なんもないよ、なぁんも。いつもこんなもんさぁ。なぁ?」 尋ねた相手が間違っていた。男は辺りの様子など、まるで気にかけていない。彼が気になっているのは、ジョッキの中身があとどれくらい残っているか、そして次を頼むだけの金があるかどうか、それだけだった。 シェイティが溜息をつく。そのときだった、酒場の扉が開いたのは。風が流れ込み、淀んだ空気が払われる。 |