無言で歩き去るタイラントをシェイティはじっと見ていた。氷の壁の前、彼が振り返る。ぞっとするような眼差しだった。
 シェイティの唇がかすかに歪む。彼もまた無言でタイラントが通れるだけ、壁を解除した。途端に聞こえてくる無粋な声。衛兵の騒ぎを締め出したくて、シェイティは再び壁を閉じる。
 何を考えてしたことでもなかった。タイラントが去っていった。いまのシェイティに理解できるのはただそれだけだった。
 目はずっと、すでに塞いでしまった壁を見ている。いまのタイラントは混乱している。知りたくなかったことを一度にたくさん知らされて、わけがわからなくなっている。
 だからだ、とシェイティは思う。だからタイラントはあのようなことを言う。きっと。落ち着けば、きっと。
 そう思って愕然とした。この自分が、誰かを信じたいと思っている。そのことに。
 震えがくるほど、恐ろしかった。誰かを信じるとは、こんなに怖いものなのかと思う。拒絶されるかもしれない、そう思うことはこんなにも怖いことなのかと思う。
 がさり、と音がしてようやくシェイティは振り返る。その目には何も映ってはいなかった。
 シェイティは、その後何をしたのか実のところよく覚えていない。グリフォンを拘束し、イザベラ親子を脅しつけ、二度とこんなことはしないと確約をとり、内密に済ませるつもりだ、と脅迫した上で、屋敷を去ったはずなのだ。
 いったいあの親子がどんな反応をしたかなど、少しも覚えてはいなかった。自分が闇エルフの子だと知った以上、メロール・カロリナの弟子であることを疑われても致し方ないとは思う。
 冷静になったいまは、そう思うのだ。が、そのときはそんなことにはまるで思い至らなかった。いずれにせよ、ラクルーサに通報が行くはずだ。そのときになれば、自分の言ったことがすべて真実だとわかるはず。だからシェイティにとって、彼らのことは終わったことだった。
 タイラントを捜したかった。追いかけて、彼を見つけたかった。あれ以来、タイラントの行方はわからない。
 ミルテシアの王都は広い。捜すと言っても、あてはない。それより先に、傷を治さなければ身動きがとれなかった。
「思い切りよく……」
 切ってくれたものだ、とシェイティは苦笑する。ばっさりと、右肩が割られてしまっている。非力な吟遊詩人に、これほどの怪我をさせられるとは思っていなかった。
「舐めてたかな?」
 呟いてみて、首を振る。そうではなかった。それほどタイラントは激高していた。
 あれから半月。傷は癒えない。よくぞ自力で歩いてあの屋敷から出てこれたものだと我ながら感心する。
 いまシェイティは、王都を離れている。怪我した体で移動するのはつらかったけれど、これほど負傷した身で王都の宿屋などに泊まっていたら、それこそ身が危なくてかなわない。不審人物として通報されるのはごめんだった。
 羊飼いの小屋だろう。ただ、半壊して使っているものはいないらしい。そこがシェイティの隠れ家だった。
「いっそ――」
 帰ってしまおうか。言いかけて強く唇を噛む。
「できない」
 師との約束を果たす前に帰るなど、とてもできない。
「帰りたくない」
 それ以上に、タイラントをもう一度見つけるまでは、帰りたくない。
 きっと今頃は落ち着いているはず。冷静に話せば、わかるはず。姿形が変わろうと、自分はシェイティに違いはないと、理解してもらえるはず。
「馬鹿だね、僕」
 期待ばかりでなんら確証のないことをしようとしている。瞼の裏に、あのタイラントの目が浮かぶ。これ以上ない、嫌悪の顔。
「――タイラント」
 再びあの目を向けられたら、どうするのだろう、自分は。考えてもわかることではなかった。ゆっくり息を吐き、肩の包帯を交換する。外した包帯には、まだじっとりと血が滲んでいた。
 吐き出した息が溜息になる。治りが遅いわけではない。むしろ、早すぎる。それすらも、闇エルフの血のせいだ。
 感謝する気には、なれなかった。自分をこの世に生み出した闇エルフを父とは思わない。思ったこともない。思えるはずもない。
 ただ、憎むことは少なくなった。闇エルフと言う種族の苦痛を知って以来、彼らを憎む無意味をも知った。
 何度も首を振り、シェイティは目を閉じる。タイラントのことを考えたくなくて、していることだった。
 他の事ならば、なんでもいい。闇エルフのことでも、あの親子のことでも。
 他のことならば、何を考えていても動揺はしない。それなのに。
「タイラント……」
 彼のことだけが、だめだった。思い出すだけで、体が強張る。恐怖に震える。無論、タイラントを恐れているのではなかった。
「もう一度」
 彼を信じることができるのか。思ってシェイティは歯を食いしばる。その仕種が竜のタイラントに似ている、と思えば自らを嗤いたくなってくる。
「はじめて」
 もう一度ではない。はじめてタイラントを信じることができるのか、この自分は。
 いままで信じた人を思う。師、リオン、親しい半エルフたち。そしてごく少数の、人間。
「みんな、知ってたよね」
 はじめから、自分が闇エルフの子だと知っていた。ある日突然、知らされたのではない。タイラントの心境を思う。
「驚いたんだよね」
 それ以外ではない、と信じたい。自分に言い聞かせるよう、シェイティはうずくまる。膝を抱えて顔を伏せる。そんな姿は、まるで小さな子供のようだった。
 そっと肩の上に手をやった。いつも、竜のタイラントがいた場所。
「シェイティ」
 呼ぶ声が、聞こえた気がして苦笑する。そこまで、落ちぶれたくはなかったけれど、幻聴まで聞こえる。
 過去の声だと、シェイティにはわかっていた。聞き慣れた竜の声。いつまでもそこにあればいいと思っていた。
「わかってたのに」
 呟いた声は、苦い。こんな形ではなくとも、タイラントは怯えただろう。どんな形であれ、去っていくとわかっていたはずだ。
 それなのに、タイラントを追いかけたいと思っている。心はすでに追いかけている。
「どうして」
 それも、わかっている。タイラントが欲しい。あの魔法の才能だけではなく、タイラントが欲しい。シェイティはきつく左の肩を掴む。
 そこにはいないタイラントを掴むように。それだけの動作で激しく右肩が痛んだ。
「僕が――」
 傷みを抑えようと、静かに息を吐き出した。同時に右手の力も抜く。タイラントがいなくなったような心細さに襲われて、自嘲する。すでに彼はいない。
 もしも自分が闇エルフの子ではなかったならば。タイラントはいまもここにいただろうか。いた、と思う。
 少しは怒るだろう。なんで勝手にやってしまった、そう言って怒るだろう。
 それでも、嫌悪の眼差しを向けられることはなかったはずだ。はず、ではない。それはない、と断言できる。
 自分が闇エルフの子だから。人間とは違う生まれを持ったから。
 叫びだしたかった。好きで生まれたかったわけではない。好きこのんで親を選んだわけではない。
「同じだと思ってたのに」
 人間に厭われる身のタイラント。闇エルフの子の自分。
 違うと言ったときのタイラントの目つき。思い返しても、よくあそこで暴走しなかったものだとシェイティは思う。
 あの時の二の舞は嫌だった。また、師に手間をかけさせるわけにはいかない。今度はどんな理由であれ外的な言い訳はない。
 魔法であたり一面見える限りの生き物を凍らせても、よかった。それをしなかったのは、師に迷惑をかけたくないと思ったせいか。
「違うね」
 凍りついたのは、シェイティだった。あの目に、態度に、タイラントのすべてに。
「酷いのは、どっちだよ」
 何度も言っていたタイラントの言葉。あんなことを言う人間だとは思わなかった、そういうのは簡単だ。
「信じてたの、かな――?」
 すでに、信じていたのかもしれない。思った途端に首を振る。
 タイラントを信じていたならば、たぶん自分はすべてを明かして上で、タイラントに選ばせたはずだ。イザベラのことも、自分のことも。
 それをしなかった以上、できなかった以上、自分はやはり彼を信じきれていなかったのだとシェイティは思う。
「カロル……」
 遠い師を呼んでみる。いつかもこんなことをしたと嗤いながら。
 彼はいったい、どんな気持ちで一歩を踏み出したのだろう。こんなに恐ろしいものだったのだろうか、彼の最初の一歩も。
「できない」
 タイラントを追う。追いたい。心から、そう思っている。
 思っているのに、怖かった。ここでうずくまっていても、仕方ないとわかっているのに、動けない。
 傷を治す、体を癒す。それが自分に対しての言い訳だと、シェイティは知っている。
「行けば、よかったかな」
 傷も何も放り出して、タイラントを追いかけてしまえばよかったのかもしれない。時間が経つごとに、恐怖だけが増していく。
「行けない……」
 このままここで朽ち果ててしまえば。馬鹿な考えが浮かんでは消える。それくらいならば、頭を下げて師の元に戻ればいい。いい顔はしないだろうけれど、もう一度手元に置いてくれるはず。
「信じられるのにね」
 師のことは、信じられる。リオンですら、信じている。それなのに、信じたいタイラントだけが、信じられない。
「追いかけなきゃ」
 すべてはそこからはじまる。だから今は傷を治す。シェイティの、哀しさを置き去りにして。




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