がつり、音がしてタイラントの手が痺れる。眼前で、シェイティの剣がタイラントのそれを受け止めていた。
「やめろ、タイラント」
 どこまでも冷静な声がタイラントを刺激する。ぎりぎりと歯を食いしばり、吼える。まるで、まだ竜のままのようだった。
「色違いの目なんて、狂ってるわ! 気持ち悪い――!」
 シェイティの背後に庇われたイザベラが吐き出すよう絶叫する。父親がなだめようと手を置いた腕を振り払った。
「あなたなんか、死ねばいい。そんな気持ちの悪い、忌まわしい――」
 イザベラの、声が止まった。タイラントはシェイティの剣を押し戻しつつ、彼女を窺う。その目に苦悩があった。
 シェイティは、片手でタイラントと渡り合っていた。剣など持ったこともない吟遊詩人相手ならば、いまのシェイティには容易いこと。
 あいた片手が、魔法を放つ。父親共々イザベラが息を飲む。あたかもそのまま呼吸が止まったような、そんな気がした。
 恐慌状態に襲われるのを救ったのもまた、シェイティ。イザベラの呼気を奪ったのを確認した後、すぐさま魔法を解除する。
「殺されたくなければ、黙れ」
「なんですって!?」
「言葉が通じないのか。死にたくなかったら黙れと言っている。タイラントだけじゃない。僕もあなたを殺したくなってきた」
 剣を喉に突きつけられた気がした。だがその剣はいまだタイラントと絡み合ったまま。イザベラははじめて殺気を身を持って知った。
「こんな、出来損ない。どうして――」
 それでもイザベラは言った。シェイティを、そしてタイラントなどを恐れたくはない、その気持ちが言わせたのかもしれない。あるいは、単に愚かなのかもしれない。
 すっと、タイラントが息を吸い、体の力を抜く。無意識の行動だった。そのせいだろう、咄嗟にシェイティの動きが遅れたのは。
 絡んだ剣が一瞬にして外れ、タイラントの剣はイザベラに突きつけられる。ひっと、小さく悲鳴が聞こえた。
「よせ、タイラント――!」
 突きつけた剣を振り下ろす間際、シェイティは彼と彼女の隙間に体を滑り込ませる。何も考えていなかった。タイラントの手を血に染めたくない。ただそれだけだった。
「あ――」
 息の抜けた声がする。イザベラは父の顔を見た。彼の声だった。そしてその視線を追う。目の前に、血が飛び散っていた。
「見た目がなんだって言うの」
 肩口をざっくりと割られたシェイティが淡々と言う。目はひたすらにタイラントだけを見ていた。イザベラを庇ったなど、微塵も思っていないに違いない。
「僕はあなたを知っている。僕はあなたがどんな心を持っているか、知っている。見た目が、なんだって言うの」
 タイラントは歯軋りをしてシェイティを見ていた。否、シェイティではない。何も見ていない、そう言ったほうが正しいのだろう。
 この、知った風な口をきく青年を殺してしまいたい。そればかりを考えていた。そのあと、イザベラを。それから、この場の人々を。そしてミルテシアの、大陸の。
「君に、君なんかに、何がわかる――!」
 口から零れたのは紛れもない憎悪。シェイティはわずかに顔を顰めた。タイラントの声音にと言うより、激しい痛みのせいだった。
「わかる、と言ったら?」
「わかるものか!」
「……そう」
 するり、とタイラントの剣を肩から外した、シェイティは。いまのいままで剣はシェイティの肩をえぐり続けていたのだ。
 それに誰もが気づかなかった。父と娘は当然、タイラントでさえ。外された拍子に、がくりと腕が下がったことでそれを知る。だからなんだ、そう思った。
 シェイティが、目を細めていた。剣呑で、近づきたくはない目だ。それでもタイラントは下がらない。剣は新たに獲物を探すよう、ひくりひくりと動いている。
 そのときだった、シェイティの姿がぼやけたのは。薄れたのかもしれない。目の惑いなのかもしれない。いずれとも判別がつかない。
 シェイティの姿から、まるで薄い氷が解けるよう何かが零れて落ちていく。遠く、グリフォンの悲鳴が聞こえた。
「幻影――!」
 それは、魔術師と仮にも名乗るものならば、羨んでも羨み尽くせない、強力な幻影だった。グリフォンですら、わかったほどの。
 シェイティの姿が変わっていく。姿形は、大差はなかった。それでもいま現れつつあるものが彼本来の姿だと心の奥底でわかる。
 幻影が解けたとき、そこに立つのは誰もが知らないシェイティだった。
 浅黒いくせになぜか柔らかく光るかの肌。陶器のような滑らかな質感は思わず触れてみたくなるほど。触れるのみならず貪りつくしたい。舌で、肌で、体中で味わいたい。長い睫毛が頬に翳りさえ落とす様すら清楚ではなく蠱惑的。黒褐色だった髪は今はこれこそを黒と呼ぶとでも言うべき漆黒。瞳も同じ黒ながらより深さを増していた。
 人間とはとても思えないその、美貌。かすかに笑みを含んだ唇に淡く刷く翳り。背筋を這い登る美貌の忌まわしさ。
「見ろ。これが、僕だ」
 ――闇エルフの、子。あまりの恐怖とおぞましさに、親子は声一つ立てられず立ちすくむ。タイラントもまた、目を見開いて彼を見ていた。そこに立つ、見るからに呪われた闇エルフの子を。
 シェイティの、傷つきやすい果実のような頬が皮肉に歪んだ。ちらりと自らの体を見下ろす。旅に出るまでは、見慣れた自分の体だった。いまは少し、違和感がある。
 こんな形で明かしたくなかった。いずれ、遠くはない未来、タイラントには話すつもりだった。彼が魔法を習いたいと思っているのならば。
 できれば、もう少し穏やかな形で、こんな時ではなく。タイラントが己を見失うほど動揺している、いまでなければいつでもよかったのかもしれない。シェイティの顔が再び歪んだ。
「忌まわ……しい……ッ」
 決して聞きたくはなかったその一言がシェイティの耳を打つ。普通の人間の当たり前の反応。父たる闇エルフよりなお厭われるその子。タイラントの声でそれを言われてはじめてシェイティは、どれほど自分が衝撃を受けているのかを知る。
 シェイティの体がぐらりと傾ぎかけ、そして耐え切る。剣が、シェイティを襲っていた。かわせば、後ろの人間にあたってしまう。だからシェイティは受けるしかない、自分の体か、その剣で。
「死ね! 醜い、なりそこない……!」
 色違いの目のタイラントが、シェイティに叫ぶ。がつりと噛合った剣すら、厭わしいとでも言うよう、タイラントは剣を引く。
「なんで、化け物が生きている! 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね」
 狂ったよう叫びながらタイラントはシェイティに向かっていた。事実、このときタイラントは狂っていたのかもしれない。
 共に過ごした時間すら、忌々しい。あのシェイティが、闇エルフの子だったとは。半エルフすらその目で見たことのないタイラントでさえ、闇エルフの子はわかる。
 正しく見ればわかるとしか言いようがない。闇エルフの子は、それほど異彩を放つ。人間と同じ姿形でありながら、まったくの異質。髪を逆撫でされるより気持ちが悪い。
 シェイティの剣が、タイラントのそれを弾き飛ばした。
 ちらり、飛んでいった剣を見やりタイラントはシェイティを見る。睨み据える、と言ったほうが正しかった。
「騙したな……」
 シェイティは、無言。体から、濃い色の衣服をきていてさえわかるだけの血を流しながら。
「おぞましい、あいの子」
 それなのに、タイラントのほうが血を吐くようだった。シェイティは、黙ってそんなタイラントを見ている。
「何も知らない私を、騙したな――」
 我と我が手で髪をかきむしる。自分の体を痛めつければ、いっそ苦痛が早く去るとでも言いたげだった。
「楽しかったか、あいの子。無知を笑って、人間をなぶって」
 ぞっとするような目でタイラントはシェイティを見上げた。シェイティは下がらない。ただいつもどおりの目で彼を見ていた。
 たとえ姿が変わろうとも、そこにいるのはシェイティだった。それを理解しているのはただ一人、本人のみ。深い溜息をそっとつく。
「化け物の手を借りたのかと思えば、死にたくなってくる――!」
「あなたは死なせない」
「知った風な口をきくな、あいの子め!」
「……あなたも、それを言うんだね」
「なに――」
 シェイティの目がわずかに伏せられた。それだけで印象ががらりと変わる。弱々しくはない。それでも痛めつけられた青年の姿に見えた、人間の。
 タイラントは激しく頭を振る。そのような見た目になど騙されるものかと思う。そこに立つのは、闇エルフの子だ。人間ではない、化け物だ。
「あなたは、本当の僕を知っても、驚かないでいてくれるかもしれない。少しだけ、期待してたのにね」
 言外の意味が滲んでタイラントは息を飲む。同じだから。同じよう、自分ではどうにもならない生まれつきの体。同じよう、人間から排斥される身。
「……一緒にするな」
 吐き出してタイラントはシェイティを睨んだ。不意に胸を突かれた。いまだかつて見たことのない顔をした彼がそこにいる。
「そうだね」
 その一言が、二人には違った意味を持った。シェイティは、哀しみをこめてそう言った。自分でも予想しなかったほど、体が痛い。
 タイラントは、それを侮辱ととった。闇エルフの子ごときに、同情されるなど、人間が許せるはずはない。
「……殺してやる」
 タイラントの低い呟きに、なぜかシェイティはうなずいた。かっとタイラントが激高する。それすらも見越していたように。
「できるの」
 かすかに滲ませた真実。吟遊詩人の身に、この魔術師を討つことができようか。タイラントは歯を噛み割りそうなほど食いしばり、シェイティに背を向けた。魔術師に怯えた自分ごと顔をそむけた。




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