信じられなかった。今更、何を信じていいのかわからなかった、タイラントは。シェイティを見る。敢然と彼は立っていた。何物にも揺るがず、一人きりで、そこに。タイラントははっとする。再びシェイティを見る。
「……君は、嘘をついている」
 表れてはいけないものが滲み出すかのような声だった。このような吟遊詩人の声を聞いたことはない、愕然と姫は竜を見やった。
「シェイティ、君は、嘘をついている」
 竜が咆哮する。恐ろしいというよりは、哀しく。それでも音の響きに押し潰されたよう、親子は知らず下がっていた。
「何を」
 淡々としたシェイティの声に、タイラントは惑乱した。彼は、今でもまだしらを切りとおすつもりなのか。自分をこれほどの目にあわせたいまでも。かっと腹の中が熱くなる。
「君の師は、男性だ。リオン総司教様も、君もそう言っていた」
 言葉にシェイティが薄く笑った気がした。タイラントは瞬く。見間違いかと思った。が、彼は確かに笑みを浮かべていた。
 シェイティの視線がうずくまったままのグリフォンへと向く。
「グリフォン」
 呼び声だけで、彼は体をすくめた。逃げ出そうとするも、逃げ場などどこにもない。姫を見る。視線をそらされた。
「自分で変化の呪文は、使えるか」
「つ、使えない」
「幻影は」
「それなら、できる。巧くは、ないが」
「かまわない。あなたがその身にまとったカロリナの幻影を呼ぶといい」
 要請だった、言葉の上は。だがそれは紛れもない命令。グリフォンはごくりと唾を飲み、おろおろと視線を走らせる。助けるものはどこにもいなかった。憎々しげに姫を見やり、そしてグリフォンはシェイティに従った。
 不意に淡いものが現れる。目を凝らすうち、それは人の形となった。
 漆黒のローブをまとった、美しい魔術師。肩の上に鮮やかな金髪が零れる。緑の目が蠱惑的に輝いていた。
「これだ!」
 タイラントが声を張り上げる。これこそが、彼が見た女魔術師カロリナの姿だった。そしてタイラントはグリフォンを見る。
 この男が、この姿を知っている。それならば、やはり自分は惑わされていたのか。
 イザベラに向けた視線は、捉えられることはなく、あたかもいないもののよう扱われ、タイラントの心は沈んでいく。
「イザベラ姫。これが、あなたの知ってるカロリナの姿だ。間違いはない? 下手な幻影だけど」
 無言でイザベラはうなずいた。隣には、父がいる。迂闊な嘘はつけなかった。とても、カロリナなど知らない、とは。
 姫の同意を得たシェイティはどうしたか。彼は、笑った。大きく笑い声を上げた。その場の誰もが愕然として彼を見る。狂ったか、とまでタイラントは思った。
「ここがラクルーサだったならば、こんなことは起きなかった。あれから二十年も経ってるっていうのにね――」
 最後の一言は呟きのよう。タイラントは誰にも聞かせるつもりのない言葉だと聞く。
「あなた方はみな、騙されたんだ。カロリナに」
「どういうことか、説明しろよ! 私にもわかるように、ちゃんと。笑ってる場合かよ!」
「そうだね。簡単なことなんだ。カロリナは……男だ」
「……まさか」
 唖然としたタイラントの声に、誰もがうなずきそうだった。それをさせなかったのはシェイティの、視線。
「カロリナの女名に、たいていの人は誤解する。ましてあの顔だしね」
「なら、姿は……」
「だいたいあってる。男だという以外にはね」
 タイラントは薄れはじめた幻覚を見やる。メロール・カロリナ。あれが、男だというのか。幻覚の特性か、それともグリフォンの腕のせいか。とても、男には見えなかった。
「だから、僕は嘘をついてはいない」
 きっと、シェイティはタイラントを見た。疑われるのが心外だとでも言いたげに。二人の視線が絡み合う。まるで、戦ってでもいるようだった。
「なんでも、隠したくせに。私を放り出して、君一人で――!」
「そうだね」
「どうしてだ、シェイティ! はじめから知ってたなら、どうして!」
 問いつつも、タイラントの中の一部はすでに答えを得ていた。
 自分を苦しめないため。嫌なものを見ずにすむように。ずっと、シェイティは努めていた。
 タイラントはそれを知っている。少なくとも、彼の一部は。だが、なんの慰めにもならなかった。いまここに、イザベラがいる。憎々しげな目を自分に向けて。
「シェイティ!」
 竜が、吼えた。それに機会を得たよう、辺りがざわめく。ようやく、衛兵が駆けつけてきたらしい。イザベラの父が、うろたえていた。
「殿下! いかがいたしましたか、何事が!」
 ざわめきの中、ひときわ高い声が通る。父親は、娘に目を向け、次いでシェイティを見る。救いを求める目だった。
 こくり、シェイティがうなずいた。次の瞬間だった。破壊された中庭といわず、庭園すべてに氷の柱が立ち上がったのは。
「な――」
 衛兵の驚愕が聞こえる。シェイティはかまわず柱を育てた。それはすでに柱、とは言えない。巨大な氷にその場のすべてが包まれたかのようだった。
「内密に、済ませたほうがいい。あなたは賢明だ」
 父親に向かってシェイティは言い、衛兵を遮断する。遠い声がまだ聞こえていた。
「何事もない。魔術師の余興が過ぎただけのこと。すぐに済む。下がってよい」
 彼は大きく声を張り上げ、衛兵に命ずる。それで、信じるものだろうか。タイラントは訝しい思いでいたけれど、殿下の命令には、従うらしい。いまだ声は聞こえ続けてはいたけれど渋々と下がっていく気配もあった。
「内密で、済むかな?」
「済ませるのが、あなたの役目だ。ラクルーサと、戦争を起こしたくないのならば」
「誰が起こしたいものか!」
 父親の絶叫めいた言葉にイザベラは驚く。そのような態度を取る人だったか、と。まるではじめて会う男のような気がした。青ざめて、震える父など、見たことがない。
「僕もできるならば、避けたい」
「できるのか」
 お前などのような者に。あからさまに裏の意味が滲む。シェイティはうっすらと笑ってうなずいた。
「できるから、きている」
「方法は」
「単純なこと。返してくれればそれでいい。後は、もっと上で話し合うことだから。僕にできるのは、それだけだ」
 もっと上、と聞いた瞬間、父がさらに青ざめるのをイザベラは見た。このようなことになるなど、思ったことなどない。
 ただ、不愉快なものを遠ざけたかっただけ。それがなぜ、戦争にまで。ちらりとタイラントを見やり、吐きそうな顔をして目をそらす。
「姫……」
 その表情に、タイラントが気づいた。上ずった、涙をこらえたような声。シェイティは、立ち尽くすしかできなかった。戦争を回避できても、彼を慰める言葉がない。
「あなたなんか、いなければよかったのに……」
 ぽつりと呟いたはずのイザベラの言葉に、みなが凍りつく。シェイティすら例外ではなく。
「そのまま、返そう」
 シェイティの手の中、剣がある。凍りついた視線で、イザベラを見る。悲鳴を上げたのは誰だったか。掠れてわからなかった。
「あなたの愚かさが、この事態を招いた」
 反省もしないのか。シェイティは言ったけれど、彼女に理解できるとは思ってもいない。
 シェイティの言葉は、その父親に向けられたものだった。ぐっと、父親が唇を噛みしめる。羞恥に見えた。
「さぁ、指輪を返してもらおうか。力ずくで、取られたくなければ」
 抜き身の剣に、イザベラは憤りを感じた。自分は、ミルテシア王家の王女だ。たかが魔術師の弟子ごときが、何を偉そうに。喉元まで迫上がってきた言葉は声にはならず、なぜか足が後ろへと下がる。屈辱を覚え、それは恐れへと代わっていた。
 気づけばシェイティが、目の前にいた。下賎な、魔術師の弟子が、すぐ手の届く場所に。あまりのことに声を上げたくなる。ぐっとこらえたイザベラの手から、シェイティは指輪を抜き取った。
「タイラント!」
 振り向きもせず、彼は叫ぶ。声を聞くまでもなかった。タイラントはすでに感じている。体に圧し掛かるような、圧倒的な力を。
 竜の咆哮に、親子がへたり込みそうになる体を支えあっていた。シェイティはタイラントを振り返り、じっと彼を見つめる。真摯に、気遣わしげに。何もできない自分をもどかしく感じながら。
 竜の姿が薄れはじめていた。息を飲む王家の人々の前で竜が姿を変えていく。よじれ、ねじれ、たわみ。
 そしてそこには力尽きたよう、膝をつく一人の男が。腰まで覆う長い銀の髪は、あの竜の翼の色。うつむいた顔を上げれば、色違いの目。端正な美貌が、苦痛に歪む。
「生きてる?」
「……あぁ」
 答えた声は、タイラントのものだった。シェイティは彼を見る。人間として初めて見た、よく知るタイラントを。
「あなたなんか、消えればいい。忌まわしい、邪眼! どうして生きてるの。死になさいよ、早く!」
 シェイティが何を言う間もなかった。イザベラの声が静かな氷の広間に響き渡る。みながぴたりと動きを止めた。
 はじめて彼女を見たのは、シェイティ。だが、動いたのはタイラントが先だった。
「信じてたのに! あなただけは、私を嫌いにならないって、信じてたのに!」
 見開いた両目に光があたる。色の違いが際立った。きつい言葉を返そうと息を吸った姫の前、タイラントが走り込む。その手には、どこから拾ったのか剣が。
「やめろ、タイラント!」
「忌まわしい邪眼! こないで、こないで、こないで――! 片目を抉り出せば、多少は見た目もよくなるでしょうに。どうしてあなたは生きてるの!」
 イザベラの絶叫。立ち尽くす彼女の父。立ちはだかるシェイティ。憎しみをその両目に宿したタイラントは、剣を振りかぶった。




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