イザベラ姫はその日、中庭で刺繍と午後のお茶を楽しんでいた。傍らにはお気に入りの吟遊詩人が侍っている。竪琴の物憂い音が時折響いた。
「あれを弾いて」
 イザベラは吟遊詩人に命ずる。刺繍は単なる手遊びだった。詩人はうなずき、新たに竪琴を奏でだした。
 新しい吟遊詩人は、イザベラの目にかなっていた。あの、タイラントのようではない。残念だ、と彼女は思う。
「……忌まわしい」
 小さく呟いた声に、吟遊詩人が軽く首をかしげる。姫はなんでもない、と首を振った。
 タイラントを気に入っていたのは、確かだった。あの日までは。はじめてタイラントの目の覆いを取らせた日を、姫は忘れていない。
 喉から絶叫がほとばしるかと思ったものだ。王家の姫として、そのようなはしたないまねだけはできない。教育が功を奏したか、イザベラはにっこりと笑って何事もなかったよう、過ごした。
 いまも時折は思い出す。どうしているか、と案じるのではない。とっくに死んだものだと思っている。そして、それはタイラントのためになったと信じて疑わない姫だった。
 あのような邪眼を抱えて生きるより、ずっとその方がいいに決まっている。姫は思い出してぞっとした。色違いの目。あれで見つめられたのかと思うだけで食べたものをすべて吐きたくなってくる。
「姫様、何か……」
 不意に吟遊詩人が言っては空を見上げた。何もない。わけのわからないことを言い出すとばかりイザベラは眉を顰める。
 が、その耳に確かに届いた。大きなものが風を切る音。吟遊詩人の目を追うよう、イザベラもまた空を見上げていた。
 息を飲む。白いもの。何か、得体の知れないものがこちらに向かっている。
「お父様!」
 屋敷に向かって声を上げた。瞬間、はしたない、と思う。だが、あれは。声を聞きつけた父親が、顔を顰めてイザベラの前に現れたとき、それは空を覆わんばかりに大きくなっていた。
「なに――」
 王女をたしなめようと声を出しかけていた父親は、暗くなった空を見上げる。イザベラ同様、息を飲んだ。
「イザベラ」
 張り上げたつもりの声は喉に詰まって大きくならない。それでも娘の手をとり引き寄せた。
 そのときだった、巨大なものが降りてきたのは。中庭であることなど、気づいてもいないよう、それは降りてくる、その場のものを破壊しながら。東屋が潰れたとき、それは咆哮を上げた。
「ドラゴン……」
 呆然と呟いたイザベラの前、竜が巨体を震わせる。がらがらと、残骸が体から零れた。そしてイザベラを見る、色違いの目で。
「あれは――」
「イザベラ。知っているのか、あれは」
「いいえ、知りません!」
 父親の問いにイザベラは強く首を振った。青ざめた顔が、それで隠せるとでも言うよう。竜が、彼女の前に何かを放り出す。イザベラの喉から、悲鳴は上がらなかった。
「それは、あなたが使った魔術師。まだ、慣れの果て、とは行かないけれど」
 するり、と何者かが竜の背から滑り降りた。いままでそこに人間がいることすら、イザベラたちは気づいていなかった。
「何者か!」
 イザベラの父王子の厳しい誰何の声に、青年は軽く一礼する。見下したような、目をしていた。
「イザベラ姫より、お返しいただきたいものがあってまいりました」
「なに――」
「姫。このドラゴンに見覚えは? あぁ、嘘はつかなくてけっこう。わかっています」
「なにを言うの! そんなものは、知らない!」
 竜の視線がひたと自分に据えられているのをイザベラは感じていた。見ないよう、見ないようと努めつつも、目の圧力から逃れられない。
 ぴしりと何かの音がした。残骸の下から、吟遊詩人が這い出す。竪琴の糸が、切れていた。
「ドラゴン……。なんて……」
 何を言おうとしたのだろうか。だが、彼の言葉は青年の視線に遮られる。吟遊詩人は、息が止まったよう、青年を見ていた。
「あなたが、新しい姫の吟遊詩人? 前の吟遊詩人がどうなったか、聞いてる?」
「前……?」
「そう。知らないんだ。あなたもお払い箱にされないよう、気をつけなね。呪われるよ、この――ドラゴンみたいにね」
 吟遊詩人が、呆けたよう口を開けて竜を見ている。青年の目が、父王子を見た。
「王女が、何をしたかご存知か」
 いつの間にか、青年は竜の側に立っていた。なだめるよう、軽く竜の体に手をかけている。それでも抑えかねる激情に、竜は体を震わせていた。
「知っていて、黙認したならば、あなたも同罪だ」
「なにを――」
「ミルテシアのイザベラ」
 彼はイザベラ姫に正式に呼びかけた。それだけで、姫は下がりたくなってくる。ぐっと唇を噛んで耐えた。
「あなたの下手なギアスで、この男はドラゴンの体に閉じ込められた」
「そんなことしていない!」
「嘘を言っても無駄だ」
「そんなこと――」
「そこにあるものに、気づかないと思うの」
 つい、と青年の指がイザベラの指を指した。正確に、右手の中指を。彼女の顔が青ざめる。父が驚いたよう、姫を見ていた。
「誓約の指輪。たいしたものではないけれど、魔術師でなくとも使える」
「それを我が娘が使ったという証はあるのか! 王家の者に対して――」
「あるから、言っている。見れば、わかる、魔術師ならば」
 ならばこの青年は魔術師だと言うのか。まだ若い、少年の気配を残したような、この男が。青年が煩わしそうに首を振った。
「姫――。嘘だと言って。そんなことあなたの意思じゃなかったって、言って!」
 そのとき竜の声が響く。イザベラは立ち尽くしていた。驚愕に、父が一歩下がったのが視界の端に映る。イザベラは、それすらできなかった。
「タイラント……」
 思わず口から彼の名が零れる。はっとしたときには遅かった。父親の、厳しい視線を体中に感じた。
「イザベラ。それは、あのドラゴンの名か。それとも」
「イザベラ姫の、前の吟遊詩人の名を覚えておいでか? 姫が、その魔法の指輪で、彼を呪った。抵抗の末、彼はこの体だ。償いは、していただこう」
「待て!」
「待たない。僕には、僕の用事がある」
 すらりと切りつけでもしたかの視線が、竜に向けられた。親子はわけがわからない。込み上げてきたものを、飲み下すだけだった。それは、恐怖だった。
 ごう、と風を切る音。竜が羽ばたいた。青年は、体を押し流す強い風の中、一人静かに佇んだ。どこかで侍女の悲鳴が聞こえる。それでいて、屋敷は静謐に包まれていた。
「返していただこう、誓約の指輪を」
 青年が、竜から振り返りイザベラを見る。突如して、姫は悲鳴を上げたくなった。それなのに、喉は自分の言うことを聞かない。
「そなたに、なんの資格があってそれを言う!」
 父親が、ずいとイザベラの前に進み出る。娘を、それでも庇うように。いまは、彼も悟っていた。青年が言う言葉は、真実だと。知らないわけではなかったのだ、屋敷内で起きた出来事だ。ある程度は、耳に入る。それでも耳を閉ざしてきたのは、娘可愛さからだった。
「では、ご存知ではないということか。その指輪は盗まれたもの」
 青年の言葉に、誰もが息を飲んだ。竜すらも。問いかける竜の視線を、彼は無視する。
「そこの魔術師と名乗る男、グリフォンの手にあった変化の首飾り同様、我が師の元から盗まれたもの」
 すでに取り戻した首飾りを彼は掲げて見せる。姫には、嫌になるほど見覚えがあった。
「グリフォンは、女魔術師カロリナ、と名乗っていたそうだね。愚かなことだ……。とても、愚かなことだ」
 青年が笑みを浮かべる。こんなに冷たい笑顔を彼らは見たことがなかった。それだけで、背筋が凍る心地がする。
「カロリナ……」
 不意に父が呟いた。姫は彼を見やり、そして口をつぐむ。問いかけは、できなかった。
「カロリナの名を、知っているようだ。ならば、話は早い」
 薄く青年は笑った。何度か口を挟もうとしている竜を仕種ひとつで封じている。それが、彼の力の程を感じさせた。
「ラクルーサ有数の魔導師たる我が師、メロール・カロリナの名において、カロリナの弟子が師に代わって盗難品の返還を要求する」
 イザベラの父が、よろめいた。口からは、わけのわからない言葉が漏れあふれる。だが、それも圧せられた。竜の、咆哮に。
「シェイティ!」
「僕は――カロリナの弟子だ」
「そんな……。君は、カロリナの……。だからか! 彼女が関わっていないのを知っているって、そういう意味だったのか!」
「そう。我が師が関わっているはずがない。意地の悪い、最低な人だけど、こんなことはしない。まして、自分の魔法具が、こんなことに使われるのを許す人じゃない」
 半ば溜息交じりの息をつき、彼はイザベラの父を見た。
「あなたにならば、わかるはずだ。これがどういうことなのかを。さぁ、決めるがいい。あなたの決断が、ラクルーサとミルテシアに戦争をもたらすことにもなる」
 わずかに顎を上げ、彼は言う。傲岸で、猛々しい。それでいて、彼には憂愁の気配があった。あるいは、孤独。
「メロール・カロリナから、魔法具を盗んだ。それを悪用した。ミルテシアの、王家の者が。これが、どういう意味か、わからないのか。ラクルーサは、許さない。我らの手になるものが、悪しきことに利用されるなど、許さない」
「盗んでなんかいないわ!」
「同じことだ。盗難品と知っていたならば。知らなかったはずが、ない」
 ぴしりと決め付けられ、イザベラは言葉を接げない。事実、知っていた。ミルテシアのものではないのも、知っていた。
「なぜ、こんなことを……」
 呆然と呟く父親の声をイザベラは聞き流す。だが、それを聞きつけたものがいた。




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