グリフォンは吐いた。半ば嘲笑いながらも、姫は王都の屋敷に戻っている、と吐いた。タイラントは、それを言葉ではないもののように聞いていた。ただ、聞いていた。グリフォンの声が、断片的に耳に届く。曰く。
「イザベラ姫は、お前が厭わしい」
 曰く。狂ったよう、グリフォンが笑う。
「すべては姫の計画」
 曰く。手を振り回し、涙を流し笑う。
「姫の策略に自分は乗っただけ」
 曰く。曰く。曰く。
 脳裏に届く言葉の数々も、タイラントの心には届かない。何もかもを信じたくなかった。いまは、シェイティでさえ。
「シェイティ」
 はじめから、知っていたと言うのか。ある段階からは、悟っていたというのか。なぜ、自分に隠した。当事者に、隠して、いったい、彼は、何を。
 塔でシェイティが調べていたもの。グリフォンが身につけていた首飾りのことだろう。あれを追ってシェイティはここまで来た。
 あの時点ではない。首飾りを調べようと思ったのは、いつなのか。そのときにはシェイティは、イザベラが影にいることを、知っていたに違いない。
「君は――」
 彼は言った。自分をこの場に連れて来たくはない、と。リオンは言っていた。見せたくないものがあるはずだ、と。
 こんなものだとは、思わなかった。こんな酷いものだとは思わなかった。イザベラを愛しく感じていた時期もある。気のせいだったと、シェイティに会ってわかった。
 それでもタイラントは、彼女に友情を持ち続けてはいたのだ。イザベラは、タイラントの色違いの両目を厭わなかった初めての人。
 それなのに。違うのか。彼女は。自分を、それほど厭うていたのか。
 信じられなかった。信じたくなかった。世界が音を立てて崩れていく。
「タイラント」
 呼び声に、彼はぼんやりとシェイティを振り返った。宙に浮いたまま、シェイティを見やった視線に力がない。
「僕は、姫を追う。あなたはここに留まっていればいい。迎えに来る」
 淡々としたシェイティの声。何者にも揺るがず、彼は彼としてそこにある。
 不意に、壊したくなった。シェイティを、ではない。この世界のすべてを。
 湧き上がる破壊衝動。自分にはできるとの思い。タイラントは歯噛みする。タイラントの人間の心が、制止する。煩わしかった。
「君がかけた、魔法を解いて」
 ゆらり、タイラントはシェイティの眼前へと飛んできた。ふらふらと、頼りないくせに、ぞっとするような圧力をシェイティは感じる。
「どういうこと」
「わからない? 一緒に行く」
「タイラント――」
「いいから。私は、確かめたい。私のことなんだ!」
 突如としてタイラントが激した。床の上で蠢くグリフォンが、びくりと体をすくませる。二人ともが、意に介さない。睨みあうよう、視線をかわす。
「私のことなんだ! 君のことじゃない。私のことなんだ! 姫が、何を考えているのか、わからない。信じない。私は、自分で確かめる」
 タイラントは繰り返す。確かめる。そればかりを。時折、信じない、その言葉が混じる。シェイティは、かすかな溜息をつき、腕を伸ばした。
 シェイティの腕に、タイラントが止まる。今度は素直に従った。従ったつもりではないのだろう。無意識の動作だった。タイラントはいま惑乱し、彼を彼たらしめている何かが抜けている。
「あなた、わかって言ってるの。あなたが、見ないですむ――」
「だから言ってるだろ! これは、私のことなんだ!」
「……わかった」
 つ、とシェイティが腕を振り上げる。その動作に従って、タイラントが羽ばたく。軽々と、宙に浮いた。無造作にして優雅な動き。翼のきらめき。
 最後だ。シェイティはタイラントの柔らかく輝く白い竜の体を見やる。こうして彼を腕から飛ばすのも、小さな竜の姿を見るのも。ずきりとどこかが痛む。
 シェイティの目が、グリフォンを捉えた。それだけで魔術師は呻く。肉体的な苦痛でも与えられたかのように。
 シェイティの口許がほころんだ。
「ねぇ、タイラント。気晴らしをしようか」
 ちらりとグリフォンを見た視線に、タイラントも気づく。腹の中に凝り固まっていた何かが、かっと酒でも飲んだよう熱くなる。気づけばタイラントはうなずいていた。
 シェイティが薄く笑い、小声で何かを言った。竜の体を小さくしていた呪文を解除したのだ、とはグリフォンにはわからない。
 知る必要がなかった、タイラントは。身をもって、わかったのだから。
 どん、と山を揺るがすかのような音。グリフォンの悲鳴。崩れゆく山小屋。埃が静まった時、小さな竜は姿を消し、そこには一頭の巨大な氷竜。グリフォンの甲高い悲鳴が途切れた。
「少しは、いい気分じゃない?」
 原因の、一端たる魔術師の住処を破壊しつくした。その巨体で。タイラントは辺りを見回す。山小屋は原形をとどめていなかった。
「少し」
 言葉少なに言って、頭を振りかぶる。グリフォンが、逃げようと地を這っていた。軽く前脚を伸ばす。鋭い鉤爪が、魔術師の衣を押さえ、破れる。
「逃げるな」
 竜が、牙をむく。シェイティは、黙ってそれを眺めていた。
 これが、あのタイラントだろうか。ぼんやりとしたお人よし。誰でもすぐに信じる、あのタイラントだろうか。
「やめろ! やめてくれ……ッ。お前、やめさせてくれッ」
 グリフォンの必死の嘆願をシェイティは聞き流す。このままここで殺されては困るけれど、生きているならばどうでもいい。
「あんたみたいな魔術師がいるから――」
 タイラントの言葉にならない悲鳴が口から漏れる。まるで、呪いだ。タイラントの体にかかっているギアスより、ずっと正確な呪いだ。
 シェイティの口許に淡い笑みが浮かんでは消えた。タイラントはいい魔術師になるだろうに。
 おそらく、すべてがこれで終わりだ。シェイティがついた溜息は、誰にも聞こえなかった。
「ねぇ、殺さないでよ。僕はそれに用事があるんだ」
「……君が、探してたのって、こいつ?」
「違う。でも用がある」
「……君が、言ってたことが少し、わかった」
 脈絡のない言葉にシェイティは無言でこくりとうなずいた。
 タイラントが何を思っているか、手に取るようにわかる。いま彼は、グリフォンをずたずたにしたい。二度と立ち上がれないよう、痛めつけたい。そう、思っている。
 わかりたくなどなかった、シェイティは。彼を理解したくなどなかった。彼と言う人間を、知れば知るほど、この先がつらい。
 シェイティは、タイラントにこれを見せたくなかったのではない。それがなかったとは言わない。彼を苦しめたくなかったのは、一面の事実だ。
 だが、シェイティは、少しでも先送りにしたかっただけだと、自分で自分を知っている。卑怯で、臆病な自分だった。あのときから何も変わらない、心のうちで自嘲した。
 もう少しだけ。あの、小さな、氷竜と。共に。
 脳裏に浮かんだ言葉を、否定する。無駄を悟りつつ、否定する。目は、タイラントを見ていた。言葉を消し去ってもだめならば、目をそらしはしない。これが、自分だ。進みたくて進めなくて、進む方法を見失ってしまった、自分だ。まるでタイラントのよう、シェイティは歯噛みする。
「これから、どうするの」
 問うた。答えは、わかっていたような気がする。タイラントが、竜の体にもかかわらず、薄く笑った気がした。
「王都へ」
 やはり。その思いにシェイティはうなずく。グリフォンは、タイラントの鉤爪に首を押さえられて声も上げられずにいた。少しでも動けば、ちぎられるだろう。
「タイラント」
 軽く腕を伸ばす。いまはずっと高い位置になってしまったタイラントの額へ。なんとも言いがたい顔をして、タイラントが首を下げた。
「ちょっと落ち着きなよ。死にたいの」
 目の前に、大きな顔がある。ぎらぎらと尖った牙がある。シェイティは、恐れ気もなく竜の顔に頬を寄せる。ふわりと竜の頭を抱く。
 ぎちり、耳許で歯軋りが聞こえた。無言の声。落ち着けるかとの叫び。苦痛の絶叫。シェイティは、知っていた。苦痛も極まれば、声などでないことを。己の、経験として、知っていた。
 シェイティは、ゆっくりと、確実にタイラントの目を覗きこむ。色違いの両目を。自分は変わらずここにいる、それを教えたい気がした。そして。
「……シェイティ」
 呆然としたタイラントの声が聞こえた。シェイティの唇が、額にある。小さく柔らかいそれを、感じ取れたのがタイラントは不思議だった。竜の巨体と、人間の青年。背伸びをしたシェイティが少し、笑った。
「落ち着いた?」
 喉を鳴らしてくすりと笑う。そこにいるのは、いつものシェイティ。恐ろしい魔術師でもなく、タイラントの知らない何かを画策する誰かでもなく。だが、それでいて背筋がぞくりとする。
 それでもシェイティは、タイラントがわけもなく信じきった、一人の青年。いまなお、それからこの後もずっと。たぶん、いつまでも。そして、はじめて愛した。
 タイラントの喉がごくりと鳴った。
「シェイティ」
 呼んだ自分の声が、掠れていた。途端に湧き上がる羞恥。目をそらしたくとも、シェイティに吸い寄せられて離せない。黙ってうなずいた。
「そう。よかった」
 シェイティの目が、和んでいる。作り物のようだった。タイラントは訝しさに目を細めた。
「さぁ、用事は手早く片付けるに限る。さっさと済ませるよ、タイラント」
 今後のことを期待させる声をしていた。タイラントは思う。すべてが終わったら、彼と共に。そう約束した。
 だが、シェイティは、何を思うのか。こんなにわかりやすい青年だったか。これほど理解しやすい形で優しさを表現するような男だったか。
 シェイティは、無言で笑みを浮かべているだけだった。




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