目が覚めたとき、タイラントは膝の上で丸くなっていた。猫のようだ、とシェイティは小さく笑う。辺りはすでに明るさを帯びている。静かに息を吐き出して、シェイティはタイラントを揺すった。
「ん……」
「朝だよ。ご飯食べていくよ」
「あぁ……」
「寝惚けないで。寝起きを襲いに行くほうがぼんやりしててどうするの」
「うるさいなぁ。わかってるってばー」
 言ってタイラントはようやく体を起こした。シェイティは彼の顔をじっと見る。思ったとおりだった。タイラントは、寝惚けてなどいなかった。
 自分と同じなのかもしれない、とシェイティは思う。最後のこのときを、タイラントは名残惜しんでいるのかもしれない、と。
 シェイティは内心で首を振った。タイラントにはわからない。本当に、もうすぐ最後なのだとは。
「朝ご飯、なに?」
「干し肉」
「えー」
「干し果物」
「……飽きた」
「同感だね」
 言って互いに顔を見合わせてそっと笑った。実際、飽きたと言うほど食べてはいないはずだ。シェイティは狩りをしたし、塔には温かい食べ物もあった。
 それはだから、お互いに感じている名残惜しさに他ならない。本当は、違うことを感じていたとしても。
 体を起こしてもまだタイラントは膝の上にいた。その口許に、シェイティは猫の子にするよう、ちぎった干し肉を運ぶ。
 合間合間に自分の口にも運びながら、水まで飲ませる。リオンが見たなら笑うことだろう。師が見れば卒倒することだろう。思えば、シェイティの目許にも笑みが浮かぶ。
「シェイティ?」
「なんでもない。思い出し笑い」
「そっか」
 聞けばいいのに、何も聞かないタイラント。よけいなことばかり言って、尋ねるべきことを自分から控えてしまうタイラント。
 竜だからだろうか。それとも、タイラントと言う人間は、こういう男なのだろうか。シェイティにはわからなかった。
 むしろ、信じたくないといったほうがずっと正しいだろう。おそらく、タイラントはこういう人間なのだと思ってはいる。それを信じることがどうしてもできない。
「……あなたなんか、嫌い」
 呟くよう言った声に、タイラントが顔を上げた。
「シェイティ」
 意外に厳しい声が、シェイティを現実に引き戻す。目をそらすことなく、タイラントを見やった。
「そういうこと言うなよ」
「なにが」
「嫌いだって、言われたらさ。すごく悲しい」
「だから?」
 突き放すように、シェイティは言った。わざとだった。タイラントがどんな反応をするのだろうか。最後が近いいま、試してみたくなったのかもしれない。
「シェイティ」
 名を呼んで、タイラントが伸び上がる。何をするのか、と思う間に彼はシェイティの肩に前脚をかけ、目の中を覗く。
「君、本気で言ってるんだな?」
 答えを待たず、タイラントは一人でうなずく。それから目を細めたかと思えば、首筋に軽く牙を立てた。
「痛い」
「当たり前だ! シェイティ。君は体が痛いって言ったな? 私はとっても心が痛い。君に言われるたんびに、すごく痛い。とっても痛い!」
「……わかったから」
「わかってない!」
 目の前で喚くタイラントを、シェイティは抱きしめる。タイラントが、身をよじって逃れようとするのをきつく抱いた。
「わかったけど。謝らないから」
「だろうな」
「……その代わり。もう言わない。ほんとに嫌いになるまでは」
「それ、真面目に言ってるから怖いよな」
 呆れ声でタイラントは言い、体の力を抜いた。シェイティは、そのことになぜか無性に安堵している自分を知る。非常に、不快だった。
「いいよ、君はそういうやつだし」
 ふっと息を吐き、タイラントは首を伸ばして頬ずりをした。竜の柔らかくはない肌が、頬をこすっていく感触が、シェイティは嫌いではない。これももうすぐ、失うものの一つだった。
「さて、行く?」
 シェイティが決心するより先、タイラントは言った。うなずいてシェイティは立ち上がる。自分より先に彼が言ったのは、きっと事態を理解していないからだ。
「よし、さっさと行って、片付けちゃおうよ」
「妙に明るいね、あなた」
「だってさ、早く片付ければ、それだけ早く君に魔法教えてもらえるだろ。また、こうやって一緒にいるのって、いいじゃないか」
「……楽天的。あなた、馬鹿? なんか、カルム王子の面倒見てたリィ・サイファが、どんだけ偉大な人か身に染みてわかる気がしてきたよ」
「それって、褒めてるのか?」
「そんなわけないでしょ。行くよ、タイラント」
 疑いも露な目をしたタイラントが見上げてくるのに、シェイティはかすかに笑う。それに応えてぱっと彼の顔が明るくなる。
 竜の顔色を読むことができるようになるとは、前だったら思いもしなかったことだろう。今でも少し、不思議だ。
 もしかしたら、シェイティは思う。竜の顔色ではなく、タイラントの顔色だから、読めるのかもしれないと。想像しただけで、嫌な気持ちになった。
 結界を解き、シェイティは歩き出す。いつものようにタイラントは肩の上。竜の重みを感じないと言ったら嘘になる。確かに重たい。その重みが、心地いい。
 きゅっと拳を握ってシェイティは黙って歩く。口数が少ないのは、魔術師の居場所が近いせいだとでもタイラントは思うだろうか。
 シェイティは望んでいたけれど、タイラントはそうは思っていなかった。何かを思い悩んでいる。それを察知していた。
 言ってくれればいいと思う。自分が尋ねればいいのだとも思う。それでもシェイティの厳しい佇まいに圧倒されて、タイラントは口を開くことができなかった。
「シェイティ、偵察?」
「要らない。もう、見える。ほら」
「あ……」
 すっかり時宜を外した問いかけに、タイラントが恥じる間もなかった。建物が、木立の影に見え隠れしている。あれが、とタイラントは息を飲んだ。
「嘘だろ、シェイティ」
 とても、信じられない。彼が言ったのでなければ、ただの山小屋だと思うところだ。
「言ったじゃない。腕が悪いって」
「カロリナの? 言ってたよな、そういえば。それって、なんで君にわかるんだよ?」
「ろくな結界を張ってない。わざと隙を見せてるのかなとも思ったけど、これほど酷い結界なら、罠じゃなくて馬鹿」
「もうちょっとわかりやすく」
「魚を獲る網を想像して。網なんだから、破れてたら役に立たない。わかる? あの魔術師の網は、繋がってるところのほうが少ないくらいなの」
「わかるような、わからないような」
 肩の上でタイラントが首をかしげているのをシェイティは感じ、口許に笑みが浮かぶのを抑えきれない。
「そこから、あの敵が持ってる魔法具があるって言ったでしょ。その魔力の気配みたいなものがぼろぼろ漏れ出してるの」
「とにかく、君にはわかるってことだな。わかった。それでいい」
「だったら聞かないでよ、説明するの面倒」
「聞きたいことがあれば聞けって言ったのは、君だからな!」
「うるさい。喚くな。行くよ」
 まだ何かを言いたそうなタイラントを一喝し、シェイティは指を伸ばす。そっと額を撫でた。それにタイラントが甘え声を返してくる。これのどこが人間か、と思う。シェイティの喉が小さく笑い声を立てた。
 タイラントは驚いていた。魔術師になるには、音を立てずに歩くなどと言う技術も必要なのだろうか。シェイティは、まったくとは行かなかったものの、ほとんど音を立てずに山小屋に近づいていった。
「なんで、こんな……」
「山小屋かってこと?」
「あぁ。すごく、不思議だよ、シェイティ」
「だから、僕は」
 彼は言葉を切って続けなかった。だからタイラントにはわかってしまう、シェイティが続けたかった言葉が。
 タイラントをつれてきたくはなかった。見ればつらい思いをする何かがここにある。それをシェイティは悟っている。タイラントには、それがなぜなのか、わからない。シェイティは語ろうとしない。もどかしくて、喚きだしたくなってくる。
 山小屋は、すぐそこにあった。シェイティは、気配を抑えてはいなかった。物音を立てなかったのは獣を脅かしたくなかったせい。敵への用心ではない。
 扉の前に立つ。タイラントが肩の上で身じろぐ。緊張のせいだろう。ここに敵がいる、そのことへの。
 ふっと体の力を抜き、シェイティは生のままの魔力を放つ。魔法の形にする手間もかけない。高まった魔力が、辺りを圧した。気の小さい者ならばその場で失神しかねないほどの威圧感。
 小さく、タイラントが声を上げた気がした。恐れるならば、そうすればいい。シェイティは軽く唇を噛んだ自分に気づかない。
 その彼の頬にあたるもの。タイラントの額。こすり付けられて、温かかった。伸ばした手に、頭を摺り寄せてくるタイラント。シェイティの頬に笑みが浮かんだ。
 もう一段、魔力が高まる。これで気がつかなければ、相手はすでに生きてはいない。そう断言できる殺気まがいの気配だった。
 山小屋の中、音がする。うろたえた物音だった。シェイティは足を進める、無造作に。扉など、開けたとも見えない。自らシェイティを迎え入れるよう、開いたかと。
 すべての扉が、シェイティの前に開いていた。タイラントは目を丸くして彼のすることを見ていた。
 恐ろしいとは、思わなかった。ただひたすらに胸が高鳴る。シェイティの肩にしがみつき、目は彼だけを見ている。
 シェイティのすることなすことが、タイラントにはあたかも氷のきらめきをまとったかのよう、見えている。魔術師ではないタイラントにすら見えるほど、シェイティの魔力は高まっていた。




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