悠然と辺りを見回し、シェイティは立ち止まる。ちょうどよい具合に岩があった。この影にいれば、獣に襲われることもないだろう。もっとも、結界を張るつもりでいるから、その心配はないのだが。
「シェイティ?」
「ほんとにもうちょっとでつくよ。ここからだったら、歩いてすぐ」
「じゃあ、なんで止まるんだよ?」
 わずかな苛立ちを含んだ声が、本当に彼が姫を案じているのだと知らせる。焦らないわけではない、と言葉にしたことで露になってしまった真情が、シェイティの胸を痛ませた。
「ねぇ、あなた。どっちがいい? 寝込み襲うのと、寝起きを襲撃するの」
 いかにも楽しげに言われ、タイラントは一瞬、彼が何を言っているのか意味をとりそこなった。理解して、唖然とする。
「おい、シェイティ! 君は……魔術師を襲うつもりか!?」
「他になにしにきたの?」
 きょとんとしてシェイティは肩からタイラントを下ろした。目の前でまじまじとタイラントを見る。彼は心から呆れていた。
「なにしにきたって……もうちょっと穏便に、なんとか……」
「ねぇ。わかってる? あなたの敵は、あなたをそこまで追い込んだんだよ? 呪いをかけて、人間社会から放逐されるよう、仕組んだのはその魔術師だよ」
「それは、そうなんだけどさ」
 煮え切らない態度にシェイティは苛立った。自分ならば、決して相手を許しはしない。どのような手段を取ろうとも、二度と立ち上がることが出来ないまでに痛めつける。
 そう思うのだけれど、タイラントは違うのだろうか。そもそも、ならば彼はここまで来て何がしたいのだろうか。
「あなた、どうしたいの」
 今更な問いにシェイティは思わず笑ってしまった。それにタイラントが嫌な顔をする。馬鹿にされた、とでも思ったのだろう。
 違う、と言うことを言いたくて、だが言いかねてシェイティは彼を腕の中に抱きしめた。そのまま岩を背に腰を下ろす。どちらにしても行動を決めるまでは動けない。ならば座っていたほうが楽だった。
「私はさ、まず姫をあの魔術師のところから助けたいんだよ」
 きっと、嫌な思いをしているはずだから。そうタイラントは言う。シェイティは無言で答えなかった。
「だって、お姫様なんだよ、シェイティ。こんなところって言ったらなんだけどさ、山ん中じゃないか。つらいだろうなぁ」
 ぼんやりと言うものだから、どこまで本心だか知れたものではない。シェイティは半ばタイラントの言葉を聞き流していた。
 そしてシェイティの思いは、間違ってはいなかった。タイラントの言葉は、完全に本心、とは言いがたいものだった。
 助けたい、と思っているのは嘘ではない。だが、そこまで心配しているかとなれば、そうだとも言えない。
 タイラントは姫の姿を脳裏に思い浮かべる。王家の姫君らしく、穏やかで優しい笑顔。控えめな笑い声。
 幻が、耳に届いた気がした。ふ、と顔を上げれば木の葉を揺らす風の音。ここからさほど遠くはない場所に、姫はいるのか、と思う。自分で想像していたよりずっと、心は逸った。
「姫を助けて、それから人間に戻る。私が望んでるのはたぶん、それだけなんだ」
「魔術師はどうでもいいの」
「君だったらどうするんだ、シェイティ?」
「決まってるじゃない。殺すよ。当然だね」
「……まったく」
「ねぇ、あなた。酷いことされたんだよ。復讐しても誰も責めない。酷いことするんだったら、それ相応のことをし返されるくらい、覚悟の上ですればいい」
「君は……」
「それが、責任て言うものじゃない。違う?」
 シェイティの指先が、タイラントの顔をたどる。柔らかい言葉とは裏腹に、タイラントは切りつけられた気がした。
「まぁ、いま決めても仕方ないけどね」
「どういうことだよ?」
「あなた、普通の人間じゃない。ドラゴンだけど。だから、その場になって、魔術師を見てみないと、結局わからないかなって」
「シェイティ? なぁ、君には――」
「わかってることがいくらでもある。タイラント、忘れないで。僕はあなたを連れてきたくなかった」
「ついてきたのは、私だよ」
 自信ありげに言うタイラントに、シェイティは答えを返さなかった。その言葉が、いつまで持つのだろう。すぐさまにも撤回することは、目に見えている。
「シェイティ。カロリナも女の人だしさ、寝込み襲うのはやめようよ」
「じゃあ、寝起き? どっちもどっちだと思うけど」
 言われてタイラントは言葉に詰まる。いったい女性と言う生き物は、どちらのほうをより厭うのだろう。
 吟遊詩人などをしていれば、いくらでも仮初の恋はする。だからよけいなのかもしれない。タイラントには、女性が心の中で本当に考えていることがわからない。わかろうとしたこともたぶん、ない。
「まぁ、君に任せるよ。シェイティ」
 伸び上がって、彼を見た。タイラントの目に映るのは、夕闇に翳ったシェイティだった。ありふれた人間の青年に見える。黙っていれば、どこにでもいる青年だった。
 それがこんなにもタイラントを惹きつける。あるいは自分は、おかしいのではないだろうか、と思うほどに。
 視線に気づいたシェイティが、タイラントの目を捉えた。タイラントは、彼の目の中のものを読み取りたい。いつも、できない。
 表情の変化くらいは、読めるようになった。けれど彼の心の奥までは、どうしても読みきれない。これほど知りたいと思った相手は間違いなくはじめてだった。
 シェイティは何を思うのだろう。小声で何かを呟いたけれどタイラントには何を言っているのかがわからない。おそらくは結界を張ったのだろう、と言うことだけが習慣として理解できる。
「やっぱり、寝起き?」
 留まるつもりならば、それでいい。あるいは夜遅くに発つつもりなのだろうか。
「寝起き。僕だって、残念だし」
「シェイティ?」
 尋ねれば、ゆるりと膝の上に抱えられた。先ほどまでのよう胸に抱かれていると少しばかり落ち着かないタイラントは、ほっとする。
「自分で言ってるじゃない、あなた」
 わずかに呆れ声の中、笑いが含まれていてシェイティの機嫌がいいことを知らせた。それでもタイラントは機嫌のよさの中、かすかに別のものも聞き取る。
「人間に戻るんでしょ。僕はそれが残念」
「え、だって。その……そりゃ、さ……」
「僕、ドラゴンのあなた、大好きだったのにな。もうこの体じゃなくなっちゃうなんて、とても残念。二度と見られないしね」
 淡々と言って、シェイティはぬいぐるみでも抱くよう、タイラントを抱きしめた。抱かれたタイラントは言葉もない。
 胸が詰まって、言葉など出てこなかった。理解はしている。頭では、わかっている。シェイティが好きだと言ったのは、この竜の姿だ。それ以上でも以下でもない
 それでも、シェイティが好きだと言った。そればかりが心のうちを駆け巡る。どうしようもない思いに駆られ、タイラントは彼にしがみつくことしかできなかった。
「二度とって、さ。シェイティ。君、魔法教えてくれるって言ったじゃないか。変化の魔法もあるって、言ってたよな。そりゃ、ずっとドラゴンってのは無理だって、言ってたけど。でも、二度となんて、言うなよ」
 この体を、シェイティが好んでいるのならば。決心が鈍りそうだった。人間に戻るより、シェイティをとってしまいたくなる。
「二度と、だよ。タイラント、僕は嘘は言わない」
「だって!」
「あなたのいまの姿は、下手な呪いにあなたが抵抗して出来上がったもの。そう、言ったよね? 物凄い偶然なの。再現するのはまず無理だよ」
「そんな……」
 当たり前のことだったのだろうシェイティにとっては。だが、タイラントは思ってもみなかった。いつか魔法の修行をして、もう一度、そう思っていたのに。
「あなた、気に入ってたの?」
 ほんの少し、シェイティが微笑んだ気がした。胸に抱きしめられたタイラントには、見えなかったが。
「……ちょっとね」
「そう」
「君だって」
「可愛いじゃない。手乗りで」
「小さくしたのは君だろ! っていうか、手乗りって言うな!」
 シェイティに痛みを与えないよう心がけつつ、タイラントは鉤爪で彼を引っかく。喉の奥でシェイティが笑った。
「前脚で悪戯しない」
「だーかーらー! 前脚って言うなよ!」
「いいじゃない。前脚だし。可愛いし。ほんと、残念」
 言って、シェイティはタイラントの前脚を手に取った。ぷに、と指先で潰せば、猫の爪のよう鉤爪が伸びる。それに彼は目を細めていた。
「遊ぶなよ、人の体で」
「人の体じゃない。ドラゴンの体」
「屁理屈って言うんだ!」
 声を荒らげれば、シェイティが密やかに笑う。タイラントの口許を片手で覆って、大声を立てるな、と小さく叱った。
 それでタイラントはカロリナの住処が近いことを思い出す。感傷に囚われている場合ではない、と心を入れ替える。
「それはそれとして、シェイティ」
「なに?」
「物凄く、苦しいんですけど。もうちょっと、容赦してくれない?」
 口許を覆った手で、呼吸がしにくくてたまらない。息ができない、と言うほどではないのだが、苦しいことに違いはない。
「あぁ、苦しかった?」
 このあと続く言葉は普通ならば、謝罪だ。だがタイラントは彼を見上げ、ゆっくりと腹の底に力を入れた。
「やっぱりね」
 苦しくしたのだから、当然だと嘯く。謝りもしない、悪いなど微塵も思っていない。そんなシェイティに、タイラントは寄り添って満足そう、甘えて鳴いた。




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