タイラントは、宙からそれを見ていた。呆然とする。シェイティの剣さばきは、信じがたいほどだった。
 わずかに獣が歩いたような踏み分け道を歩いていたときのことだった。突如として現れた魔物に襲われたのは。
「シェイティ!」
 驚く間もない。声を上げたときにはタイラントはすでに宙へと投げ上げられていた。
 空中で、タイラントは歯を食いしばる。このような時、何もできない無力な自分がとても悔しくてならない。
 本当だったら、共に戦いたかった。何ができると思っているわけではない。それでも何かができると思いたい。
 タイラントには牙がある。鋭い鉤爪がある。宙を自在に駆け巡り、相手を撹乱することもできるはず。それでもシェイティは決してタイラントを戦わせようとはしなかった。
「凍え震え凝れ大気、リゼー<血氷剣>」
 瞬間のうち、シェイティの手に氷の剣が出現する。生命そのもののよう、鮮やかな血が剣を走った。氷に通う血の筋は、禍々しくはない。むしろ美しい。
 するり、剣で薙いだかと思うとそこに魔物の死体がある。タイラントはそれを見た。
 シェイティの剣が、魔物の血に汚れる。同じようにできたなら。宙でタイラントは歯噛みする。
 正しくシェイティが避けているのはそれだった。タイラントを血で汚さないこと。彼の牙を血で染めることだけは、しない。
「戻りにくくなるからね」
 魔物にではなく呟いて、シェイティは薄く笑む。魔物が咆哮した。嘲笑われた、とでも感じたのだろう。
 シェイティは意に介しもせず再び剣を振るう。いまはリオンに感謝した。彼と知り合うより先から、この剣を使っていた。だが、リオンに稽古をつけてもらうようになって以来、速さも鋭さも遥かに増している。
「いいよ、おいで」
 そう言ってシェイティが腕を伸ばす。タイラントを投げ上げてから、さほど時が経ってはいなかった。
「大丈夫?」
 魔物の死体が転がる中、シェイティは静かに立っていた。息一つ乱していない。魔術師とは、このようなものだろうか、とタイラントは首をかしげたくなってくる。
 タイラントが知る歌の中で、魔術師は魔法に優れこそすれ、体力は劣る。だがシェイティは。あるいはこれが彼の属する一門のあり方なのかもしれない。よくは、わからなかった。
「別に。たいしたことなかったし」
 軽く首をかしげるシェイティは、やはり疲れてなどいなかった。足場の悪い山の小道で戦ったとは、とても思えないほどに。
 あたかも平地を旅するよう、シェイティは歩き出す。戦った痕跡など、その足取りからは窺えなかった。
「君って、すごいね」
「そう? 師匠のほうがすごいけど」
「それは当然ってやつじゃない?」
 弟子のほうが優れていれば、それはそれで師の誉れだろう。だが、たいていの場合は師のほうが優れているものだ。ましてシェイティはいまだ弟子の身分、独り立ちを許されてはいないと言っていた。
「まぁね」
 肩をすくめてシェイティは手を振った。すう、と剣が大気に溶けていく。もったいないような、美しさだった。
「綺麗だよなぁ」
 思わず見惚れたタイラントにシェイティは微笑んだ。すでに彼は肩にいて、その笑顔を見ることはなかったけれど。
「あなた、この剣好きだよね」
「うん。とても綺麗だ」
「変な人」
 くすり笑ってシェイティは言う。どこが変なのか、タイラントにはちっともわからず、首を伸ばしてはシェイティを窺う。
「血の通った氷の剣って、気持ち悪いんじゃない? 忌まわしいって言ったやつもいたし。あれ? 言ってはいないか。でも顔に出てたからね」
「あー。それってもしかして」
「リオンだよ」
 憎まれ口を軽く言う辺り、シェイティも根に持ってはいないのだろう。それでもタイラントはわずかに不快だった。
「すごく、綺麗なのに。なんでそんなこと言うかな。総司教様らしくないって言うか、酷くない?」
 くるりと尻尾を彼の首に巻きつけた。シェイティの指が、巻きついた尻尾を柔らかく撫でている。
「事情が事情だったからね。仕方ないとは思うけど。僕はそれであいつが嫌いになった」
「事情?」
「内緒」
 一言の元に拒絶された。言い方は、優しかった。そのぶん、絶対にシェイティが口を割らないことがタイラントには感じられる。
「……そっか」
 落胆を露にしないよう、できるだけ軽やかに言ったつもりだったけれど、声音に苦いものが滲んだ。
「色々あるんだよ、僕にも事情ってやつがね」
「別に話せなんて言ってないだろ!」
「だから話さないよって言ってるの」
「うるさいな。わかってるよ、そんなこと」
 シェイティの言い様に、少しタイラントの気が軽くなる。たいしたことではない、それでもいまは言えない。そんな気配が漂っていた。
「別のこと、聞いていい?」
「聞くのは勝手。答えるかどうかは聞いてから決めるよ」
「それでいいけどさ。いま、なんで剣で戦ったの。君、魔術師だろ。どうして魔法で一網打尽とか、しなかったの。前は、したよな?」
 シェイティが、わざと剣で戦ったようにタイラントには見えていた。魔術師が、手間をかけて、面倒な方法をとったように。
「いい目をしてるね、あなた」
 緩やかな指先が、タイラントの額を掠めるよう撫でていった。タイラントの満足そうな吐息にシェイティはそっと微笑む。
「なんでか? そろそろあなたの敵の居場所が近いの。わざわざこっちの居場所を教えたくない。それほど腕がいいとは、思えないけどね」
「え!? 近いの? わかるの、君」
 さらりと告げられた言葉にタイラントは心底驚いた。まさかこれほど近いとは。否、どこにいるともタイラントには見当すらついていない。
 だがまさか、こんなに早く見つけられるとは思ってもいなかったのが、本音だった。
「あなた、僕を舐めてるの。わかるよ、それくらい」
「だって、転移もできないって言ってたじゃないか!」
「言ったよ。だから? 正確な居場所って言うのはね、タイラント、この目で見たように確かな場所ってこと。あなた、一番長く暮らしたのってどこ」
「そうだなぁ。やっぱ、姫のところかな」
「だったら、いまそこを頭の中に思い浮かべられる? どれくらいの大きさの部屋? どんな家具があるの。色は。形は。傷はどこかにある? 空気の匂いは?」
「畳み掛けるなってーの! そんなことが……。そっか、そういうことがわかってないと危ないんだ?」
「そういうこと。いま、僕にわかってるのは敵が近いってこと」
 理解の早さにシェイティはゆっくりと息を吐いた。いいものだった。このようにして、ずっとタイラントに教えを授けることができたならば。
 詮無いことを考えてシェイティは危ないところで溜息をこらえた。
「それってどうやってわかってるの?」
 好奇心一杯のタイラントが、首を伸ばして顔を窺ってきた。いまの顔を見られたくなくて、さりげなくシェイティは遠くを見やる。なんの危険もいまはなかった。
「調べ物をしたからね」
「塔で?」
 尋ねたものの、答えをもらえるとは思っていなかった。そもそもタイラントは彼がいったい何を調べていたのかも知らされてはいない。
「そう。あなたの敵が持っているものがあるの。僕はそれを調べてたんだ。あれだろうな、とは思ってたけど、確かめておかないとわからないしね。その痕跡を追ってる」
 だからシェイティが言い出したとき、タイラントは彼の肩で目を丸くしていた。同時にもっと早く聞けばよかった、とも思う。今までうじうじと考え込んでいたのが情けなくなってくる。
「痕跡って?」
 思えば、シェイティは以前から言っていた。聞きたいことがあるならば聞け、と。それは勝手にすればいいという意味のほかに、自分にはタイラントが何を聞きたいのかがわからない、そのような意味もあったのかもしれない。
「あなたの敵が持っているものの、魔法の痕跡。なんて言ったらいいのかな。例えば匂いのようなもの」
「……犬みたいだな」
「言い方は気に入らないけど、間違ってはいないね」
 無造作に肩をすくめたシェイティのせいで、体の平衡を失うことはなかった。上手に均衡を保っている。タイラントはそれを意識してはいない。慣れてしまっていた。
 そして慣れている、と言うことに気がついて、なんだかとても嬉しくなってくる。敵が近い、と言うことよりずっと。人間に戻ることができることより遥かに。友たる姫を救うなどより強く。
「持ってるものって、なにさ?」
「質問ばっかだね、あなた。どうしたの、急に」
「ようやく何が聞きたいのかがわかってきたかなーってさ。鬱陶しかったら言えよ」
「言われなくてもそうするよ。持ってるもの? 魔法のこめられた、道具」
 あまりにも何気なく言われてタイラントは知らず肩から滑り落ちそうになった。呆れたシェイティが、手を添えてくれなければ確実に落ちていた。
「なにやってるの」
「だって! そんな、伝説の道具みたいなもんだろ! あるのかよ、ほんとに!」
「あるよ。別に伝説じゃないし。僕だって作れるけど?」
 信じられないことをまた聞いた。シェイティと知り合って以来、いままで自分が知っていた世界はなんだったのだろうか、と思うこともしばしばだ。
 今回の話は極めつけと言えた。魔法のこめられた道具など、歌の中のことだとばかり、思っていたものを。
「君って、すごい魔術師だったんだな。それでまだ弟子って、どういう師匠だよ!? 君の師匠って、君以上ってことだよな。ありえない……」
 唖然としたタイラントが、続ける言葉を失って首を力なく振っている。肩の揺れでそれを感じたシェイティは、思わず忍び笑いを漏らしていた。




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