タイラントは、都市に暮らす吟遊詩人だった。ミルテシアの村を巡ることはあっても、辺境を旅したことはない。まして山など。 「こんなの、見たことなかったよ」 見慣れない、異質なものなのに、こんなにも美しい。タイラントはシェイティの腕に抱かれたままうっとりと辺りを見回す。 村に生える植物とは違う草。シェイティが踏むたびに強い香りを放つ。かと思えばふわりと風に乗って花々が香る。 「なんだか、私にとっては半エルフみたいだ」 「どういうこと?」 「ちょっと怖い。でもすごく綺麗」 悪戯をするよう、タイラントは言った。それに応ずるよう、シェイティがくすりと笑う。 「君にさ、半エルフの話を聞いてさ、なんだかちょっと親近感が湧いてきたよ」 「そう?」 「うん。歌が好きとか、恋人がいるとかさ、考えたこともなかったし。人間の恋人がいることもあるんだろ」 タイラントの脳裏には、リィ・サイファの塔のあの肖像があった。寄り添うよう立っていた半エルフと人間の姿。ある種の理想のよう、タイラントには思えた。 「なにが聞きたいの」 「んー。そうだなぁ。半エルフって男しかいないんだろ。じゃあ、やっぱり人間を好きになるときもそうなのかなって」 「そうでもないよ」 言ってシェイティは遠くを見た。はっとしてタイラントも視線を追う。何か危険が、と思ったけれど、シェイティはただどこでもない場所を見ているだけだった。 「ただ、人間の女を好きになったときは大変だよね。男よりも」 「どうして?」 「男はいいんだよ、一人でも生きていかれるし、人間社会から外れても、剣なり魔法なりの腕を売って生きていくことができる。でも、女の人はそうでもないじゃない。人間から、同族から排斥されて、たった一人伴侶だけを相手に暮らしていくのは、難しいんじゃない」 まるで見てきたようなことを言う、とタイラントは不意に訝しい思いに駆られた。あるいは、シェイティは。そう思ったけれど問うことはできなかった。代わりに尋ねたのは、別のこと。 「なぁ。闇エルフって、どうなの?」 「どうって?」 「やっぱり、人間を――」 ひくり、シェイティの腕が強張った。タイラントは何事もなかった顔をして彼を見上げる。シェイティは、気づかれたくないはずだと咄嗟に悟っていた。気づいてもいいものならば、とっくに彼は罵言を吐いている。 「闇エルフと、人間の関係が健全だったことは一度もない。忘れたの。闇エルフは、殺されたいんだよ、タイラント。だから、暴虐をする。僕はそう解釈している。たぶん、間違ってない」 「だったら」 「人間の男と闇エルフが関わったとき、関係は一つしかない。殺しあうだけ。人間の女と関わったとき、生まれた子供は幸福な生まれ方をすることは間違ってもない」 叩きつけると言うには、悲しい声だった。タイラントは言葉を接ぐことができない。黙って伸び上がってはシェイティに頬ずりをした。 「哀しいね、すごく」 人間が悲しいのか。それとも闇エルフのあり方が哀しいのか。タイラントは言わなかった。言うまでもないことだったのかもしれない。あるいは、タイラントにもわからなかったのかもしれない。それでも言葉は真情だった。 「あんまり考えてると、憂鬱になるよ。どうせ、思い煩ったって仕方ないことだし」 「そんなこと言うなよ、シェイティ」 「だったら僕にどうしろって言うの」 「なんかさ、もうちょっとよくなる方法とかさ、ないのかな?」 半ばわざとらしく目をきらきらとさせているタイラントを見下ろし、シェイティは唇を歪めた。 「ねぇ、あなた。知らないだろうから教えてあげる。シャルマークの英雄のうち、三人の人間が大穴を塞いだあとに何を考えてたのか」 あまりにも皮肉な声だった。タイラントはその先を聞きたくなくて顔を伏せる。ぷん、と鼻をつく草の香りまで煩わしかった。 「彼らはみんなこう思ったそうだよ、大穴なんか塞ぐんじゃなかったって」 「どうして!」 「大穴が塞がって、人間には、住み易い世界になった、多少はね。でも、半エルフは前よりいっそう怖がられたんだ。自分の友達が、とても怖がられるようになった。嫌だっただろうね、すごく」 そうしていつしか闇エルフが生まれた、とシェイティは言うのか。続けはしなかったけれど、無言のうちにシェイティはそれを語っていた。 タイラントは顔を伏せたまま、震えていた。人間が醜悪で、恐ろしい。見たこともない闇エルフより、人間のほうがずっと忌まわしくも思えてしまう。 「人間は……私は、とても……」 「僕にとって人間は、軽蔑すべき種族だ」 「君だって……! 人間じゃないか……」 力なく続け、タイラントは自嘲する。自分もそうだ。いまは竜の体だけれど、人間だ。そして自分を信じられなくなりそうだった。 人間であることの恐怖。いつか自分もまた謂われない差別をすることになる可能性。排斥されてきた身が、同じことを他者に繰り返す未来。まざまざと見えるようで、タイラントは歯を食いしばる。 「タイラント」 静かにシェイティが呼びかけては柔らかく抱きしめてきた。驚いて身をよじりかけ、タイラントはぎゅっと彼にしがみつく。抵抗など、形だけでもしたくなかった。 「あなたは、そうならなければいい。醜悪ではない人間に、なればいい」 心に、否、魂に染みとおるかのシェイティの声。うなずくこともできずタイラントは彼にしがみつく。鉤爪が、シェイティの服に突き刺さっていた。 「あ――」 「平気。痛くない」 「ごめん!」 慌てて爪を外した。痛くはない、と言ったシェイティだったけれど、薄く血が滲んでいる。それほど力を入れた覚えもないはずのに。 咄嗟のことだった。タイラントが傷口に顔を摺り寄せ、血を舐めとったのは。 「タイラント!」 驚いたよう、シェイティが体をもぎ離す。そうされたタイラントのほうこそが、驚く勢いだった。 「あ……ごめん。嫌だったよね、ごめん」 「違う……違くないかも。驚いたの、とても。あんまりびっくりさせないで」 危ないじゃない、言い添えてちらりとシェイティは足元に視線を飛ばした。つられて見やったタイラントの顔が引きつる。そこには深い裂け目があった。 「落ちたら、死ぬと思うんだけど。僕、あなたと心中なんか真っ平だからね」 「私だっていやだよ! こんなところで死にたくないよ! まだまだやりたいこと、いっぱいあるんだからな」 「あなた、僕が言ったこと聞いてる? 僕はあなたと死にたくないって言ってるの。別にここで死んでも僕はかまわないけど、心中なんか絶対にいや」 「死ぬなよ!」 「殺さないで。生きてるじゃない」 くっと笑ったシェイティの顔つきに、タイラントはからかわれていたのだと知る。呆れて溜息をつけば、珍しい朗らかな笑い声。 「ねぇ、ちょっと重い。肩に移って」 「そっか、ごめん! 飛ぶ?」 「いい、危ないから」 「……ありがと」 小声で言ってタイラントは彼の肩へと這い上がる。いつもの場所に辿り着き、尻尾を彼の首に巻きつければ、シェイティの穏やかな気配。 「あなたが突進して怪我したら、誰が治すの。また薬草で煮られたい? 僕はいいけど。あなたは?」 「嫌に決まってるだろ! 熱いんだからな、本気で!」 「僕は熱くない」 タイラントを言葉で蹴りつけ、シェイティは軽々と裂け目を飛び越えた。身の軽さがまるで少年のようだ、とタイラントは思う。 山の風になびく髪も、跳ねるよう生き生きとした体も、青年なのにどこかシェイティは少年のようだった。 「君って、どんな子供だったんだろうなぁ」 思わず呟いたタイラントの声が、聞こえているはずなのにシェイティは答えなかった。タイラントはうっかり言ってしまった言葉の何が彼の気を損ねたのかわからない。 謝ることもできず、タイラントは彼の肩に顔を埋める。シェイティが黙ってて伸ばして背を撫でたのは、裂け目をさらに二つ飛び越え、下草を掻き分けて道とは言えない道へと入り込んだあとのことだった。 「シェイティ……」 「なに」 「ここって、本当にあってるの」 「あってるよ」 妙に確信めいた言い方にタイラントは不審を覚える。それは彼が何によっているのかがわからないせいだろう。 「歩いて、疲れない?」 「疲れる」 「だったらさー、あれって無理?」 タイラントはこのまま彼の肩にいたかった。人間に戻らず、ずっと竜のまま肩に止まっていたいと思うほど、この場所がよかった。 それでもシェイティが歩き疲れてしまうのは嫌だった。いまのタイラントに、自分の身を守る力はない。ましてシェイティを守ることなどできない。 魔物に襲われたなら、とぞっとする。自分の安全を気にしたのではなかった。最初の一撃を、命を代償にそらすことはできるだろう。ただ、それをしてシェイティが喜ぶとは、とても思えなかった。むしろ、思いたかった。 「転移? 無理」 「そんな簡単に言うなよ。どうしてできないのさ」 「場所がわからないから」 言われてタイラントは愕然とする。シェイティは、どこに向かうかわかっている、と言わなかっただろうか。矛盾に頭の中が混乱した。 「転移魔法は、明確に場所がわからなきゃ行使しないほうがいい。運よく場所があってたとして、空中高くとか地の底とかに出現したらどうするの。危ないじゃない」 「危ないって言うか、それって死んでる」 「だから、やらないの。てくてくてくてく歩くしかないって、わかる?」 言い振りに、シェイティもまた楽しんで歩いているわけではないことを知った。酷く、申し訳ない気持ちになったタイラントの額を、シェイティは存外に優しく撫でていた。 |