あれほど最初は怖いと思っていたはずの塔だった。タイラントは肩の上から振り返る。
「なんだか、寂しいな」
 振り仰いだ塔は静かに佇んで、人の気配が絶えていた。まるで何世紀も前に廃墟になってしまったかのように。
「変なこと言うね」
「だってさー。なんか、寂しくない?」
「別に。二度とこないわけじゃないし。調べ物なんかでよくくるしね、僕は」
 さらりと言われて、シェイティが魔術師であるのを強く感じた。タイラントにとってこの塔は、伝説そのものだった。
「いつか、また私もこれるかな?」
「魔法の勉強するなら、くることもあるんじゃない?」
「そっか」
 歩き出したシェイティの肩から、タイラントは塔が遠くに見えなくなるまでずっと、それを眺めていた。
 物寂しいとは違う。堅固に建っているものに対して使う言葉ではないだろう。だがタイラントが感じていたのは、儚さだった。
「なぁ、シェイティ」
「なに」
「どこに行くのさ」
 道がくねり、角を曲がり。ついに塔は見えなくなってしまった。名残惜しくてタイラントはもう一度振り返る。それをシェイティがかすかに笑った。ようやく機嫌は直ったらしい。
「とりあえず山」
「はいー?」
 思わずシェイティの顔を覗き込んでしまった。途端に嫌な顔をした彼が目に入る。つい仰け反ってしまいそうなほど、厳しい顔をしていた。
「山ってさー。もうちょっと他に言いようがないわけ?」
「あったら言ってるよ。山としか言いようがない。僕だって行ったことないし」
「ちょっと待て、シェイティ」
「なにさ」
「行ったことないって!」
 愕然としてタイラントは飛び上がる。いったい彼はどこに行こうとしているのだろうか。シェイティの目の前で浮けば、彼は呆れたよう肩をすくめて見せた。
「仕方ないじゃない。行ったこと、ほんとにないんだもの」
「だーかーらー。どこって言うか、なんのためにって言うか……。あ、いや。なんのためかは、わかってるから……叩くな!」
 飛んできた手をかわし、タイラントは胸を張る。飛んでいる限り、タイラントのほうが早かった。
「遅いよ」
 と、思ったのは勘違いだったのだろうか。かわした、と思ったはずのシェイティの手が伸びてきてはタイラントを捕まえる。
「うわ!」
 ぎゅっと掴まれて、痛いほどだった。シェイティのくすくす笑いが頭上から聞こえる。器用に翼をよけて掴むシェイティの手。何をされるか、と身構えたタイラントを笑うよう、シェイティは高く放り投げる。
「シェイティ!」
 上げた悲鳴は半ば以上、嘘だった。落ちたその場は、シェイティの肩。元の場所に戻されただけだった。ほっと息をついてシェイティを覗けば、満足そうな笑顔。
「カロリナを、探してるんだよな?」
「探してるわけじゃない。居場所は、わかってるの。そこがどこだか、確かなことがわからないだけで」
「それって、わかってないって言わないか?」
 言えば、瞬間のうちに手が伸びてきた。体を硬くしたタイラントの背をするりと撫でて、それだけで手はなくなる。ぎょっとするほどの優しさだった。
「ねぇ、酷いことされないほうが、怖くない?」
「いま、ひしひしとそれを感じてるところ」
「だろうと思った」
 言ってシェイティが喉を鳴らした。心底楽しんでいるらしい。同時にタイラントは気づく。シェイティもまた、苛立っているのだと。
 場所がわかっているのに、わからない。これは腹立たしいものだろう、とタイラントは想像した。もっとも、あまりよくは理解できなかったが。
「なにか、私にできることってない?」
「特にない」
「……そっか」
 タイラントが肩を落としたのをシェイティは感じている。実際タイラントにできることはない。それでももう少し別の言い方があっただろうか、と思う程度には気にかけていなくもない。
 遠くを見やり、シェイティは息を吐く。シャルマークの風景は、ミルテシアともラクルーサとも違った。まだほんの入り口だと言うのに。
 ミルテシアの草原ばかりを見慣れてしまったせいだろうか。酷く荒涼とした景色に見える。それでもよくよく目を凝らせば、小さな草が這うように生えていたりもする。
 不意に身をかがめ、シェイティは草をちぎった。ぷん、と青い匂いが鼻をつく。
「あ、いいな」
 それをタイラントが喜んだ。首を伸ばして手元を見ている。つい、とシェイティの指が彼の口許へと伸びた。
「なに? シェイティ――」
 みなまで言わせず、タイラントの口の中へ放り込む。呻くような声がしたけれど、シェイティは気にしなかった。
「おいしいでしょ」
 肩の上で喚く声が聞こえた。それが突然に止まる。シェイティがくっと笑った。
「なんだ、これ! 甘いよ、シェイティ。なんかすごく甘い」
「ほんと驚いたときのあなたって頭悪そうだね」
「うるさいなー。なぁ、これってなに?」
「知り合いの半エルフは飴蓬って言ってたよ。半エルフの子供がおやつにするって。リィ・サイファが冗談でこの辺に植えたらしいってさ。それが広がったんじゃない?」
「へぇ、これがおやつねぇ」
 口の中にはまだ甘さが広がっていた。香りは、間違いのない草の物。それなのにこれほど甘いとは。信じられない思いでいっぱいだった。
 草を噛みしめタイラントは突如として頭を上げる。
「もしかして、前に君が言ってた菓子作りが得意なのって……」
「そうだよ、その知り合い。半エルフって甘いもの好きみたいだよ」
「……なんだか世界が音を立てて崩れていく気分だ」
「そう?」
 シェイティは首をかしげたけれど、タイラントにとってはありえないものばかりを見聞きしているのだ。
 音楽が好き。菓子が好き。泣いたり笑ったり。半エルフとはなんだろうか。人間とさほど変わらない、いまはそれが納得できていた。
 シェイティの足は、ミルテシア方面には向かわなかった。山に行く、と言っていたのだから当然だろう。
 どちらにいくのか、とタイラントが思っているうち、彼が向かっているのが左腕山脈だとわかる。
「ちょっとほっとした」
「なにが?」
「右腕山脈だと遠いよなーって、思ってたからさ」
「それだったらいくらなんでも転移してる」
 呆れたよう、シェイティは言った。タイラントは思わずうなずきかけ、自分も慣れてしまったものだと内心で苦笑する。
「そっか。それだと楽だし早いもんな」
 半年前には、よもや自分がそのようなことを言うことになるとは思ってもみなかった、とタイラントは心の中で笑う。
「あなた、慣れるの早いね」
 少しばかり笑ったシェイティもまた、同じことを考えていた。適応力の高さ、好奇心の強さ。いずれも魔術師として相応しい。
 問題は、この自分がタイラントを教え導くことができるか、だった。シェイティはそうしたいと思っている。だが、タイラントは。
「シェイティ?」
 知らず首を振ってしまったのにタイラントが訝しそうな顔をしていた。
「なんでもない」
 覗き込んできた竜の額をそっと撫でれば心地よさそうな顔をする。ずっとこのままならばいいのに、と詮無いことを思う。
「シェイティ」
「なに」
「山歩きって、したことあるの、君」
「ないけど、なんとかなるんじゃない?」
 タイラントは、絶句した。肩の上で体を強張らせる。なんと言っても、左腕山脈なのだ、行き先は。
「シェイティ、おい。ちょっと……」
「僕を信用しなよ」
「こればっかりはできるか! 私をあてにするなよ。私は吟遊詩人だぞ。人のいないところなんか行ったことないんだからな!」
「そんなこと言われなくてもわかってるよ」
 嫌そうに言うシェイティに、タイラントはもう一度怒鳴るところだった。それを抑えたのはまさしくシェイティの手。軽く背を押さえているだけなのに、声が出なかった。
「タイラント。今度はなにが怖いの」
 知らずタイラントの息が詰まる。言われてはじめて、気がついた。いまもまた、恐れていた。
 情けない、とでも言うよううなだれる竜の体をシェイティは肩から下ろして抱えた。胸の中でうずくまるタイラントが、わけもなく嬉しい。
「だってさ。山だよ? 怖くないの、君は」
「なんともないとは言わないけど。でも行き先がそっちだし」
「魔物とかも、いるんじゃないの」
「いるだろうね」
 なんでもないことのよう言われタイラントは彼を見上げた。本気で大したことではない、と彼の目が語っている。
 身の内が、震えた。タイラントの目がじっとシェイティを、シェイティだけを見つめる。彼の足が街道を外れ、脇道に入ったのにも気づかなかった。
 いまだ平坦な道。だが幅は狭い。ふとシェイティの顔が翳る。顔色ではなかった。日が、影になる。頭上を見上げ、タイラントは木漏れ日を見た。
「あ……綺麗だ……」
 緑の光が、シェイティを染めていた。葉を透かした輝かしい色。金の木漏れ日が彼の髪に射しては光る。
「ほらね」
「え?」
「そんなに、怖くないでしょ」
 言われてようやくタイラントは辺りを見回す。そこはすでに人の住む場所ではなくなっていた。反射的に身をすくめる。
 それからタイラントはゆっくりと息をした。強く香る青い匂い。そして濃密な土の匂い。いずれもタイラントには馴染みのないものだった。




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