どこをどう通ったものか、結局タイラントにはわからなかった。注意していたにもかかわらず、気づけば居間の扉をシェイティが開くところだった。
 先ほど食堂にいったときもそうだった。普通に歩いているはずなのに、道がわからなくなる。
 腹の中が落ち着かない気分なのは、もしかしたらシェイティが振る舞ってくれた手料理――には違いないものの若干、料理とは言いかねる何か、のせいかもしれないが。ついでだから休憩すると言って連れ込まれた客間と思しき部屋で休んでいる間も腹がごろごろとしていた。
「不思議だよなぁ」
「なにが?」
「この場所。どうなってるのか、さっぱりだよ」
「でもあなた、平気じゃない?」
「平気って言われてもなぁ。けっこう怖いよ、まだ?」
 シェイティの肩の上でタイラントが肩をすくめる。同じよう、彼もまた肩をすくめた。
「そうじゃないの。気持ち悪くなったりしないでしょ」
「あぁ、まぁね」
 どうやらシェイティは、この魔法空間のことを言っているらしい。普通の人間は体の平衡を崩して気分が悪くなるのだ、ともちらりと言っていた。
「適性が高いって言うより、ただの馬鹿かも」
「シェイティ!」
「馬鹿はないか。そうだね、鈍いって言ったほうがいいかも」
 そう、くすりと彼が笑う。タイラントは怒鳴る気力もなくしてシェイティが楽しんでいるらしい笑い声を聞いていた。
「それで、シェイティ。このあとどうするの。調べ物は終わったんだろ」
「これから追跡。さっきそう言わなかった?」
 言ったけれど、その意味を尋ねているのだ、とタイラントは口の中で呟く。もごもごとしているところを、シェイティに軽く撫でるよう、叩かれた。
「痛い!」
 大袈裟に喚いてタイラントは首を伸ばしてシェイティの顔色を窺った。やはり彼は、笑っているくせに、いまは楽しんではいなかった。
「どうする。そこで見てる?」
「なにするの」
「魔法」
 それだけを言ってシェイティは先ほど肖像を浮かべた水盤の前に歩いていく。タイラントは彼の肩にしっかりと掴まることでここにいる、と知らせた。
「はじめるよ」
 こくり、うなずいたシェイティが言い、タイラントがうなずき返すより先、水盤に手をかざす。ふわり、水が輝きを帯びた。
「あ――」
 驚きの声を上げたタイラントは、咄嗟に己の前脚で口許を押さえる。静寂を、破ってはいけないような気がした。
 シェイティが何かを言っていた。それをタイラントは自分に対するものではない、と見極めて水盤だけを見ていた。
 ぞっとするほど美しかった。何かが映っている、と気づいたのはしばらく後のこと。それまでただひたすらに水盤が映すものに見惚れていた。
 魔法は恐ろしいものではない、とはじめて心から納得できた思いだった。水盤は、アルハイド大陸の景色を映している。
 それは現実の風景より遥かに美しかった。タイラントは思う、シェイティが映し出したものだから、そう思うのかもしれない、と。
「おかしいな……」
 ぽつりと言ってシェイティが首をひねった。タイラントは彼が何を訝しがっているのか、と水盤に目を凝らす。
 景色が、ぶれていた。二重写しになったそれが、タイラントの目を眩ませる。
 ただ重なっているだけではなかった。どこか違う場所が二箇所、重なって映っている。酷く気分が悪くなるようなものだった。
「シェイティ?」
「僕は、あなたをそんな風にしたカロリナって魔術師を探してるの」
「それが、調べ物の結果?」
「結果じゃない。カロリナの居場所を探すための鍵を見つけてたの。それが何かは、言わない。ただ、これで居場所がわかるのは、間違いないんだけど――。参ったね、これは」
 固く唇を引き結んでシェイティは、腕を組む。事態は面白くない方向へと向かっている。シェイティは、自分の想像があたっていることを、嫌々ながらも認めた。
「シェイティ、それって……」
「居場所は、わかった。たぶん、正解はこっちだと、わかってる。ねぇ、タイラント」
 するり伸びてきたシェイティの腕に抱きとられ、タイラントは彼の顔の前に抱えられた。じっと見つめてくるシェイティの目。
「シェイティ!」
 彼が何かを言い出すより先に、とタイラントは身をよじって腕から逃れた。彼の眼前で宙に浮き、シェイティを睨み据える。
「私は君についていくからな!」
「まだ……なにも言ってないじゃない」
「言うつもりだっただろ! 私を置いていくつもりだったら、ここにおいて行けよ。いいな、私はついていくからな!」
「あなた、わかって言ってるの。僕がいなくなったあと、塔に残されたらあなた、死ぬかもよ?」
「そうじゃないかって気はしてたよ。勘だけどな」
 タイラントは胸を張って言い、内心でぞっとしていた。魔術師の塔。それほど恐ろしいものだとはすでに思わなくなりつつあるけれど、そのようなことがあるのだろうか、取り残されれば死ぬなど。
「本当に、危ないよ。塔は、魔力で維持してる。本来の管理人がいるからいいけど、それでも誰もいない間に魔法空間を現実に維持しておく必要もない。だから、タイラント――」
「わかってる。だから、君が一人で行きたいなら、私をここに置いて行け」
 ぐっと歯を食いしばってタイラントは言い切った。賭けだった。自分の命ごとき、シェイティが気にかける保証はない。
 シェイティとタイラントが、睨みあう。互いに無言のまま、相手の心の内側まで見通そうとでもするように。
「わかった」
 折れたのは、シェイティだった。途端に気の抜けたタイラントは体がかしぐのを感じた。あっと思う間もない。
「なにやってるの」
 呆れ顔のシェイティが、受け止めてくれた。彼の腕の温もりを感じてタイラントはほっと息をつく。照れ笑いをすれば思い切り眉を顰められた。
「ほんと、こんなあなたを置いていったら、戻ったときには屑肉じゃない。いくら僕だって、寝覚めが悪い。いいよ、連れて行く。その代わり……」
 きゅっとシェイティが唇を噛んだ。言いたくないことを言うのだろうな、とだからタイラントは見当がつく。励ますよう、シェイティを見つめた。
「あなた、本当にいやなものを見ることになる」
 それだけで、シェイティはあとを続けなかった。何が嫌なのか、それも言えないほどのことだろうか。
「シェイティ、一つだけ」
「なに」
「……誰かが、もう死んでたりする?」
 タイラントの脳裏にあったのは、姫のことだった。旅の目的とは疾うに言えなくなっている姫のことではあったけれど、決して忘れてはいなかった。
 瞼の裏、彼女の笑顔が浮かんだ。王族とは名ばかりの姫ではあったけれど、吟遊詩人から比べれば雲の上の人。
 その彼女が、自分とはなんのこだわりもなく話をしてくれた。はじめて目の覆いをとった日のことを思い出す。少し驚いたけれど、無理をして姫は笑顔を浮かべた。
「僕は予言者じゃない。人の生き死になんか、知らないよ」
「そっか……」
「僕が言ってるのは、他人のことじゃない」
「あ。私?」
 きょとんとして問うたタイラントをシェイティが呆れ顔で見やった。それから諦めたよう、肩をすくめてタイラントを肩の上へと投げ上げる。
「あなたが知らなくていいことを、たぶん知ることになるだろうね。間違いなく」
 シェイティがちらり、と室内を振り返った。それから意を決して歩きはじめる。どこへ、とはタイラントは問わなかった。決まっている。外へ、そして魔術師を追う。
「……君、優しいんだな、ほんとに」
「なに馬鹿なこと言ってるの。僕のこと優しいとか思ってるようじゃあなた、人間として終わりだよ」
「自分で言うなよ!」
「自分のことだから、よくわかってるの」
「……リオン総司教様が言ってたんだよ」
 それをシェイティに言っていいのかどうか、わずかの間タイラントは迷った。だがリオンは言うな、とは言わなかったことを思い出す。
「なにを?」
 さもいやでたまらない、と言った声でシェイティが尋ねてきた。いまのタイラントにはわかる。シェイティが、口で言うよりリオンを嫌っていないことが。それを思って少し、気が楽になった。
「総司教様はさ、君が私に見せたくないものがあるから、だから総司教様に預けようとしたんだろうって言ってたよ」
 言い終えた途端、シェイティが舌打ちをした。彼がリオンを嫌っていないというのは間違いではなかっただろうか、そう思ってしまうほど激しい嫌悪が伝わってくる。
「あの告げ口屋! よけいなこと言って! お節介! あのクソ坊主、帰ったら絶対絞める!」
 わなわなと手を震わせ、あたかもリオンがその場にいるかのよう、シェイティは手を掲げた。タイラントはつい、目をそらしてしまう。シェイティの手の形は確実に、首を絞める形だった。
「あー、シェイティー」
「あなたもあなただ。どうしてあの馬鹿に言われたこと黙ってたの。なに、あいつと組んでるわけ?」
「ちょっと待てってば! シェイティ、よく考えろよ! 言えるか?」
「どうしてさ、なんで言えないの」
「だから考えろってばー」
 深い溜息をついてタイラントは彼の顔を覗き込む。シェイティの頬が赤くなっていた。照れて赤くなっているのだったら、どれほど目に嬉しいことだろう。怒り狂って赤くなっていたのでは、目の保養にもならなかった。
「君は私のことを気遣って総司教様に預けようとしてくれたんだね。――なんて言えるか!? 言ったら……って、シェイティ! 試しただけだろ! 殴るなよッ。こうなることがわかってたから、言わなかったんじゃないか!」
 思い切り叩かれた背中が痛い。シェイティは無言ですたすたと歩を進めている。本気で怒っているのだろうか。
「リオンなんか、大嫌い」
 言いつつ拳を振り上げ、あたかもリオンが目の前にいるかのよう、振り下ろす。
「あなたなんか、大嫌い」
 階段を下りつつ、シェイティは握った拳を震わせてそう言った。
「二人とも、大ッ嫌い!」
 とどめとばかり、シェイティが叫んだ。塔の階段に彼の声がこだまする。シェイティの肩の上、タイラントは嬉しさをこらえかねて顔を埋めていた。




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