シェイティは、一冊の書物を繰っていた。ようやくに見つけた書物は、この書庫にあるものとは思えないほどに新しい。
 それも当然だった。書物は、シェイティの師の手になるものだった。懐かしい、と言うほど離れてはいないはずなのに、彼の手蹟を見ればやはり、懐かしい。
「当然か」
 ぽつり、シェイティは呟く。魔法を習い始めて以来、離れていたことはあまりない。離れたときには、最悪の事態が起こっていた。
「自業自得だけど」
 言って一人シェイティは笑った。過去のことになっているはず。はずなのに、やはり忸怩たる物がある。
 一つ首を振って思いを振り払う。済んでしまったことをいつまでも考えているのは、嫌だった。あのとき自分は前に進む、と誓った。
「……無理かも」
 思いはタイラントへと向く。前に進むとはいったいなんだろうか。
 決して後悔をしない生き方をする。償いを済ませ、誇りある生き方をする。そう、あのときは誓ったはず。
 それでもタイラントに出会ったいま、誓いは脆くも崩れそうになっている。
 シェイティは、怖かった。人間を信じる気持ちになりたいと思ったいま、信じることが怖かった。
「あの人も……」
 師も、同じだったのだろうか。よく似た生き方をしてきた自分たちは、通る道もまた似ているのかもしれない。
 師が、自分と言う弟子を迎え入れるとき、いったい何を考えていたのだろうとシェイティは思う。やはり、恐れていただろうか。
 鍵語魔法の習得は、神聖魔法のそれとは違う。師弟の間に強い信頼関係を結ばなくては、習得は覚束ない。
 神聖魔法はいい。教える者と習う者の間には、常に信仰がある。神への尊崇がそこにある限り、人と人との関係など、二の次だ。
「僕は」
 タイラントとそのような関係を結べるのだろうか。結びたい、とこちらが思っていたとしても向こうはどうだか知れたものではない。
「信じられないよね、やっぱり」
 皮肉に笑い、シェイティは止まってしまった手を動かした。師の手蹟は彼と言う人を思えば信じがたいほど優美だ。なだらかで、ほっそりとした、それでいて一本芯の通った筆跡。
「ねぇ」
 いま、どうしているだろうと思う。きっと苛々として、周り中の人々は彼を遠巻きにしていることだろう。
 早く、帰りたかった。帰ってもう一度、彼にきちんと様々なことを教えてもらいたかった。
「そのためには、やっぱり」
 タイラントが必要だった。彼を得て、はじめてシェイティは師の元に戻ることができる。それが最初からの、師との約束だった。
 シェイティが、弟子にしたいと思えるような相手を見つけてくること。それがこの旅の目的だ。弟子を得て、はじめてシェイティは師の名を許され独立することができる。
 魔術師としてはかなり、変則的なやり方だった。それもこれもシェイティの過去が関わっている。だからこそ、シェイティはそれをタイラントに告げることができない。
 告げることができないのを、ほっとしている自分をシェイティはすでに見つけていた。忌々しいと言うよりは、戸惑いのほうが強い。
「言いたいのかな?」
 自分のことなど案外、よくわからないものだとシェイティは思う。言ってしまいたいと思う反面、決して知られたくないとも思う。
「いずれ」
 すべて過去のことを話さなければならないだろう。自分の素性も、何もかも。そのときタイラントが去っていく確信が、シェイティにはあった。
「……言えないよね」
 ほっと溜息をつく。シェイティは気づかなかった。言えない、と悩むだけ、タイラントを信じたいと願っている自分には。
 書物を繰っていた手が止まる。やっと、目的の箇所を見つけた。とりとめのない思いから解放され、シェイティは安堵の思いで集中する。
「あぁ……やっぱり」
 思ったとおりのことが記してあった。単なる確認とは言え、確かめておかなければ先には進めない。目先の目標ができた今、シェイティはタイラントを先送りにする。
「それしか、できないものね」
 今すぐどうするかなど、決められなかった。勢いよく書物を閉じ、元の場所へと収めたとき、シェイティは耳をすませる。
「あ……」
 透き通る声が聞こえていた。先ほどからずっと、聞こえていたのかもれない。
「――タイラント」
 彼の歌声が、聞こえる。渡した歌集を、読みつつ声に出しているのだろうか。覚えようとして、歌っているのだろうか。
「それにしては、綺麗」
 はじめて歌う歌とは思えないほど、その歌声には確かな情感がこめられていた。シェイティはちらり、と書架を振り返りその場を後にする。
 ゆるり、と歌声を追った。そのようなことをしなくとも、タイラントを置いてきた場所に戻ることは容易い。
 それでも今は、そうしたかった。タイラントの歌声に、呼び寄せられるよう、足を進めてみたかった。
「残念」
 すぐに、彼の姿が見えてきてしまった。もっと遠ければよかったのに、ちらりとそんなことを考えた自分にシェイティは苦笑し、そっと足音を忍ばせる。
 タイラントは一心に歌っていた。小さな竜の体を震わせて、軽く目を閉じ、歌っている。テーブルの上にいる竜ではなく、シェイティの目には朗々と胸を張る吟遊詩人の姿が見えるようだった。
 不意に拍手の音が聞こえ、タイラントは目を開ける。驚いて振り返れば、シェイティがいた。
「なんだよ! びっくりするじゃないか。聞いてるなら聞いてるで、こっちで聞けばいいじゃないか」
「そっちにいっても見えなかったくせに」
「なんでだよ!」
「目。閉じて歌ってた。吟遊詩人て、そうするものなの」
 どうやらシェイティは本気で聞いていたらしい、とタイラントは彼の顔をまじまじと見る。照れて怒鳴ったりしたのを、少しばかり後悔した。
「違うよ。歌詞、覚えたかったから」
「そうなんだ? やっぱり」
「なんだよ、なにが言いたいんだよ!」
「その歌、知ってるわけないのにと思って。どうして知ってるのかなと思ってたの」
「知ってるわけない?」
 シェイティの言うとおり、いま歌っていた歌をタイラントは知らない。シャルマークの英雄の歌だった。それなのに、知らないということはそれは秘められたかあえて忘れられたか。いずれにせよ、巷間に伝わっている歌ではなかった。
「リィ・サイファが出てくるでしょ。だから、人間は忘れることにしたみたいだね」
「……卑怯な」
 呟いたタイラントは、悔しそうに歯噛みをしていた。開いた書物に目を落とし、こんなに素晴らしい歌なのに、と誰に言うともなく囁く。
「人間は、そういうもの」
 言いつつシェイティは笑みを浮かべていた。それがタイラントには訝しい。まるで、人間のやり方を認めているかのようではないか。
「シェイティ」
 厳しい声にシェイティは目を瞬く。思わずタイラントを見つめ、それからふわりと微笑んだ。タイラントがぎょっとするほど、あまりにも普通の笑顔だった。
「師匠がね、そういうやり方は卑怯だって、怒ってた」
「君のお師匠様が?」
「そう。なんだか、少し――」
 言葉を止め、シェイティは首を振る。タイラントには、何を続けたいのかわからなかった。それでも、続けた言葉が、本当に続けたかったものとは違うことくらいは、わかってしまう。シェイティは言った。
「懐かしいな、と思って。懐かしいって言うほど、べったりした師弟でもなかったんだけどね。あの人の本を見てたせいかな。さっさと用事済ませて帰りたいよ、僕は」
「本! あったんだ! じゃあ、調べ物はすんだ?」
「すんだよ」
 こくりとうなずいたシェイティに、タイラントは思わず飛びかかる。ここから出て行くことができる、進むことができる。
 それを思ったのではなかった。このまま、留まりたいとすらタイラントは思った。歌の書物のせいではない。
 シェイティが隠しそこなった一瞬の表情。それは悲哀に見えた。
「もう、邪魔! いきなり飛んでこないでよ、鬱陶しいな」
「いいだろ!」
「何がいいのか、ちゃんと説明して。僕が納得できる説明をね」
 くっと笑ってシェイティはタイラントを腕に抱きとる。もう、いつものシェイティだった。ほんの少しタイラントはシェイティの顔をいつもより長く見つめた。
「なに?」
 さも嫌そうな彼の顔。あまりにも普段どおりで、反って疑わしいくらいの、シェイティ。タイラントは黙って笑い、首を振る。それしか、できなかった。
「なぁ、シェイティ。この本って、誰の本だったの」
「歌の本?」
「そう。なんで魔術師がこんな本、集めたりするんだよ?」
 タイラントは自分にできることを思いついてそう言った。興味が移ったふりをして、話をそらして彼に話題を提供すること。
 それならば、吟遊詩人の得手だった。もっとも、シェイティが本当に乗ってくるはずはないのも、わかってはいたことだが。
 彼の優しさを思う。乗ったふりをしてくれただけだ、と。当たり前の人間とは、優しさの規模が違う。人間としての大きさが違う。たまに示される普通の優しさが、異様に見えてしまうほどに。タイラントは内心で溜息をつく。
「それは、今の管理者が集めた本だね。半エルフって、音楽が好きだから」
 シェイティの気をそらそう、とばかり思っていたタイラントは一瞬何を言われているのかわからなかった。いかにも楽しげなシェイティの笑い声。
「音楽、好きなんだ……」
 呆然と呟く自分の声を、タイラントはあたかも他人事のように聞いていた。シェイティが失言したことにも気づかないほどに。




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