ありえないものがタイラントの眼前に広がっていた。息を飲むでもなく、目を丸くするでもない。ただひたすらに呆然としていた。
「……なんだ、これは」
「書庫」
「あのなー!」
 ごく簡単に言うシェイティにタイラントは肩の上から怒鳴り声を上げる。だがあとの言葉が続かない。この光景を見て、一体何を続ければいいと言うのだろう。
「なに? 書庫以外にどう言えっていうのさ」
「そりゃ……そうだけど……でも!」
「広いよね。それは僕も思う」
「……そういう問題か?」
 広いなどと言うものではなかった。見渡す限り、否、視線が届くその先にまで空間が広がっている。タイラントは塔の姿を思い浮かべる。ほっそりとした優美と言っていい塔だった。
「ありえない……」
「広さが?」
「うん、まぁ」
「魔法空間だからね。魔術師にとっては珍しいものでもないんだけど」
「そうなのか!?」
「じゃなかったら魔術師の塔なんかすぐ物に埋まって住めなくなるし」
「住んでるの、誰か?」
「いまは住んでない」
「じゃあ、この本は……」
 言ってようやくタイラントの脳裏に空間を埋め尽くす書物の有様が認識された。背の高い書架に、みっしりと本が詰まっている。どこまでも、どこまでも。
「リィ・ウォーロックの蔵書と、リィ・サイファが集めた本。リィ・サイファの本は千年以上かかって集めてるしね。一番多いんじゃないかな。あとはいまの管理者の本」
「いまの、管理者?」
「住んでないからね。管理だけしてる」
 さらりと言ってシェイティはその先を続けるのを拒んだ。タイラントは直感する。それはおそらくシェイティの素性に関わる話なのだ。だから彼は、拒む。
 きゅっとタイラントは彼の肩を掴んだ。鉤爪が刺さらないよう注意して、それでも強く。拒まれているのは、自分のような、そんな気がした。
「タイラント?」
「……なんでもない。どこ見てようかなー。迷子になりそうだよ!」
 わざとらしい明るい声に、シェイティは眉を顰める。タイラントが考えていることくらい、わからないわけがない。これほどあからさまならば、なおさらに。
「ねぇ、あなた」
「んー、なにー?」
「言いたいことがあるなら、言えば?」
「……聞いても答えないことがわかってる。だから、聞かない」
 一転して静かなタイラントの声だった。シェイティは彼を肩から下ろし抱きかかえる。胸の中に抱いた竜の体は、温かかった。
「――僕は」
「いいよ、シェイティ。無理強いはしたくないしさ」
「あなたの魔法適性をかってる。あなたが欲しいと思ってる。だから、今は言いたくない」
 タイラントの言葉など聞いていないよう、シェイティは淡々と続けた。出逢ったころの、無表情な声だった。
 そのことにタイラントはぎょっとする。声音に、ではない。いつの間にかシェイティが感情を滲ませるようになっていた、その事実に。
「君は、つらいんだな」
 ぽつりと言ったタイラントにシェイティは答えない。代わりにタイラントの背中に顔を埋めた。それが何にもました答えだ、とタイラントは思う。
「シェイティ」
 腕の中、身をよじってタイラントはシェイティを見つめた。わずかに緩んだ腕から這い出し、肩に両の前脚をかけてシェイティを覗き込めば、目をそらされた。
 タイラントは、その目を追うことはできなかった。あまりにも、酷い目をしていた。いったい何を見続けたなら人間は、こんな目になるのだろう。
「私は、君が何に苦しんでるのか、知らないよ? でも、君と言う人を知ってる。知ってる、と思う。全部なんか知らないけど、でも私は君が――どんなやつかくらい、少しは、わかる」
 言いよどんだ言葉でも、シェイティに届くだろうか。本当に言いたいことは、別にある。あるけれど、言えない。
 言えば、いまの関係まで壊れてしまう気がした。だからタイラントは違うことを言う。感じていること、ほんの上澄みを。
「……知らないよ、全然」
 なんの感情もなく吐き出された言葉は、冷たくはなかった。ただそこに何もないだけ。タイラントはなす術なくシェイティに頬ずりをする。
「さぁ、調べ物をするから。少し待ってて」
 すとん、と床におろされた。タイラントは黙って彼の背中を見送った。何も言えなかった。励ます言葉もなく、慰める言葉もない。
 彼を知らない。彼が何に苦痛を感じているのか知らない。自分はこの両目だった。色違いの目、ただそれだけの事で排斥された。
 シェイティは、いったい。タイラントは真実、彼と言う人を知らないのだと今更ながらに思い知らされる。
 ぼんやりと、床の上にいるだけだった、タイラントは。これほど打ち沈んでいなければ、床が仄かに暖かいことも蝋燭も角灯もないのに柔らかな光が空間を満たしていることも、驚異の的だったはずなのに。
 タイラントの心は動かない。何を見ても歌にしたいと言う意欲が湧かない。あたかも小さな竜の彫像が、そこに静止しているのをどこか遠くで自分が見てでもいるような、そんな心地だった。
「タイラント」
 不意に声がしてタイラントは瞬きをする。どこから呼ばれているのだろう。少しもわからなかったけれどタイラントは一直線に羽ばたく。
「こっち」
 遠くでシェイティの声がした。遠くから聞こえるはずなのに、近い。距離が意味をなさない。シェイティが呼んでいる。そこにいく。考えているのはただ一つ。
「いま行くよ!」
 その言葉が実現したかのよう、シェイティがそこにいた。書架を曲がった覚えもない。彼が影から出てきたわけでもない。
「うわ! びっくりするじゃないか!」
「あなた……ほんとに」
 驚くタイラントにシェイティは珍しく目を瞬き、そして笑みを浮かべた。
「シェイティ? もしかして、褒めてる?」
「褒めてる、まではいかない。驚いた、くらいかな」
「なんでさ?」
「よく真っ直ぐきたな、と思って」
「君が呼んでたから」
 誇らしく言ってタイラントはシェイティの肩に止まった。首を伸ばし、胸を張って、精一杯に。
「……そう」
 それだけで、シェイティは言葉を止めた。ゆるりと彼の指が頭を撫でてくる。タイラントには、それで充分だった、いまは。
「調べ物、済んだの?」
「済むわけないじゃない。あなた、馬鹿? やっと本がどこにあるか目処がついたところ。ほら、これでも読んでなよ」
 言ってシェイティは歩き出し、かと思えばそこにテーブルがある。いまのいままで何もなかったはずの場所に。
 目を丸くするタイラントの気配を感じたのだろう、シェイティがくすりと笑った。唖然としたままのタイラントを肩から下ろしテーブルの上へと置く。
「行儀悪いけど、仕方ないよね」
「椅子に座って本読むのは、無理」
「でしょ。だから、そこにいて。僕は用事があるから」
「シェイティ!」
「なに?」
「どこに……いくの」
「なにあなた、怖いの?」
 からかうよう言われても、本心は誤魔化せなかった。ひたすらに本だけがある場所に、それもただの書庫とはとても思えない場所に取り残されるのかと思えばぞっとする。
「さっきは平気だったじゃない」
 言われても、それがなぜかなどとても言えなかった。タイラントは黙って彼を睨みあげ、不満を表す。ふ、とシェイティが笑った。
「いまは、僕がこの空間を、と言うよりは塔自体を操ってる。僕を信用するんだね」
「君が!?」
「仕方ないじゃない。この塔にいる魔術師は僕だけなんだから」
「そう言う問題かよ!」
「じゃあ、どういう問題なの。何が怖くて、どうしたらいいの。改善策があるなら言ってみなよ」
「畳み掛けるな!」
 言いつつタイラントは心が温まっていくのを感じた。シェイティは問うた、何が怖いのか、と。自分はどうしたらいいのか、と。
 シェイティの、あからさまと言ってもいい気遣いに、タイラントの緊張がほぐれていく。ゆっくりと大きく息を吸い、シェイティを見る。
「……わかった。信じる。いつも、君のことは信じてるけどね」
「塔に入ってからずっと怯えてるくせに」
「私は普通の人間なんだ! 魔法を見たら怖いもんなんだってば」
「習う気でいるくせに?」
「……それは、そうだけど。いや、そうだよねー。うん。そうか、私も魔術師になるのかー」
「怖がってて、なれるの?」
「なれると思う?」
「適性があるからと言ってなれるわけじゃないし。本人がなりたくないんだったら、無理じゃない?」
「なりたいよ!」
「だったら怖がるのをやめれば? 力は力。魔法は別に恐ろしいものじゃない。怖いのは、扱う人だよ。人間と半エルフ、闇エルフを問わずね」
 言葉を残し、シェイティは背中を向けた。タイラントは彼の言葉を噛みしめる。
 何が、怖いのかを改めて考えていた。魔法は怖いものだ、と教えられているに過ぎなかったことにようやく思い至る。
 生まれてこの方ずっと、魔法とは敬して遠ざけるもの。魔術師とは関わらないに越したことがないもの。そう教えられてきた。
「魔術師。シェイティ」
 タイラントは呟く。視線は、いなくなった彼を追う。すっと、意識を凝らせば浮かび上がるシェイティの姿。影も形もないシェイティが、どこにいるのかわかる気がした。
「いつか私も魔術師に――」
 そのときには、シェイティの隣に。新しい魔法理論のための協力者としてでもいい。いつの間にか伏せていた顔を上げれば、そこに広がるのは朗らかな、笑み。




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