口をつぐんだままのシェイティがタイラントを長椅子に下ろした瞬間、タイラントは体をすくませる。シャルマークの英雄がここに座ったのかもしれない、と思って。
 しかし長椅子の柔らかい感触にその懸念はなくなった。二百年以上も昔のものがこれほど柔らかいはずもない。
 シェイティは二人の肖像を見上げていた。ただ姿を映しただけの幻と、わかっているのに時折表情を変えたようにも見える。
 それは見る者の心の動きなのだ、とシェイティの知人たる半エルフは言っていた。ならばいま、彼らが久しぶりの訪問者に含羞んでいるよう見えるのは、自分の心が和んでいるせいなのか。
 そのようなはずはない、とシェイティは思う。和んでなどいない。きゅっと唇を噛んでシェイティはタイラントを振り返った。
「人間て、不思議だね」
 にこりと笑ってシェイティが言う。タイラントは背筋が凍る思いだった。笑っているのに、シェイティが怖い。
 半エルフを人間が恐怖する気持ちに、近いかもしれない。半エルフを間近に見たことのないタイラントは思う。
「言葉も通じない馬や牛は平気なくせ、同じ言葉を話し、人を愛し悲しむ半エルフが怖い」
 反論など、タイラントにできようはずもなかった。それは、事実だ。
 シェイティからの伝聞でしかない。だが、タイラントは彼を信じる。半エルフに会ったことはなくとも、同じこの世界で暮らす生き物ではないか、と。
 牛馬とて、同じ生き物。人間がそれを恐れないならば、なぜ半エルフが恐れられる。不思議などと言うものではなかった。
 シェイティは正にこう言っている。人間は愚かしい、と。人間であるタイラントは、それが否定できなかった。
「怖がるなら、怖がってればいい。黙って逃げればいい、それなのに」
 英雄たちの肖像を振り返ったシェイティの顔がタイラントには見えなかった。見なくてよかった、と思う。
「怖がって、人間はどうしたと思う?」
「え……。わからない、な……」
「そう……」
 戸惑うタイラントを尻目に、シェイティは言葉を切ったままだった。
 半エルフ、などと言う漠然としたものではなかった。タイラントの腹の中が冷える。シェイティはいま、半エルフの話にかこつけて、自分の話をしているのではないだろうか。
 どうしてもそんな気がして仕方ない。だが尋ねても彼は言葉を濁すだけだろう。
 シェイティの人とは違う何か。それはきっと自分のよう目の色が違うとか、その程度のものだと思っていたタイラントはなぜかぞっとする。
 もっと違うのだろう。人に忌まわしいと言われた覚えがあるのだろう。タイラントにも、ある。邪眼だと言われ、石持て村を追われたことなど数え切れない。
 それでも自分のほうがまだシェイティより恵まれていたのではないか、と疑ってしまう。タイラントはそっと首を振る。そのような優越感など、要らなかった。そして優越感だと、知ってしまった。
「人間はね、タイラント」
 唐突にシェイティが言葉を接いだ。目はいまだ肖像を見ている。
「半エルフを、苛めて苛めて、苛め抜いた――」
「苛める?」
「迫害するでも、襲い掛かるでもなんでもいいよ。とにかく自分たちに害なすものだと言って、世界から排除しようとした」
「そんな。だって、半エルフは――」
「なんにもしてなかったはずだよ。少なくとも、僕の知り合いはそう言ってる。元々人間に立ち混じって暮らすのが彼らは好きじゃない。ひっそりと、自分たちだけで暮らしてたんだ。そこに人間は襲い掛かった」
 タイラントには見えた。吟遊詩人の目には、その情景が見えた。密やかな村の穏やかな夕暮れ。立ち居の静かな半エルフが、笑みを交わし夕闇に混じるよう、通り過ぎていく。
 そこに上がる喚声。手に手に武器を持った人間の醜悪さ。穏やかな村は一変する。半エルフもむざむざと殺されはしなかっただろう。人間と半エルフの死体が燻る。村はいつの間にか火に飲まれた。
「……そうだね、そんなことがあったかもね」
 シェイティの言葉に、タイラントは知らず瞑っていた目を開ける。小首を傾げれば、こちらを向いたシェイティが少し、笑った。
「あなたいま、歌ってたよ。気がつかなかったの?」
「全然。おかしいな、塔の雰囲気に飲まれたかな」
「かもね。それくらいのことがあっても、不思議じゃない気が僕もする」
 ゆっくり言って、シェイティはようやく長椅子に腰を下ろした。タイラントの体が、隣にかけたシェイティの重みで傾ぐ。無造作な手が伸びてきて、タイラントの体を支えた。
「ありがと、シェイティ。なぁ、それで。半エルフは……」
 聞けば、シェイティが悲しいのではないか、とも思う。だが、すでに彼は話してしまっている。ならばいっそ最後まで聞いてやりたかった。それくらいしか、できないのだから。
「苛められた半エルフ?」
「うん」
「どうなると思う? わからないだろうね。……半エルフは、誰かを愛しく思うことができるんだよ。だったら」
「憎むこともできる?」
「当然だよね。表裏なんだから、その感情は。でも、半エルフは人間を憎まなかったよ」
「そうなの?」
「憎まない、とも違うんだろうね。ある意味ではすごく憎んだ。強い心を持っていた半エルフは、最後の旅に出た。逃げたって言ってもいい」
「言わないよ!」
「もっと強い心を持ってた、人を信じることができた半エルフは、今でもこの世界にいる」
「それが、君の知り合い?」
「まぁね。あの人たちは運がいい。リィ・サイファやウルフの知り合いだってことは、アレクサンダー王やサイリル王子の知り合いだってことでもある」
 それが人間にどう影響しただろうか。タイラントは思う。シャルマークの英雄の知己であった半エルフ。
 それで人間世界での扱いがよくなったとは、人間のタイラントには思えない。そうすることができるならば、今現在シャルマークの英雄は四人、と伝えられているはずだ。
「人間世界での扱いなんかどうでもいいんだよ。人間の友達がいたってことが、大事」
 たどたどしい言葉で自分の思いを伝えたタイラントに、シェイティはそれだけを言う。
「友達、か」
「自分のことをちゃんとわかって、異種族だって知った上で、なんでもないことだって、一緒にいてくれる。それって、嬉しいと思うよ。僕には、わからないけどね」
「嬉しいことだろうなって、私も思う」
「ちょっとだけ違う。生まれが違うだけだって、それだけのことだって、言ったのはその僕の知り合い。知り合いに、それを言ったのは……アレクサンダー王だってさ」
「ラクルーサの、王様になったんだよね。大穴を塞いでからさ。すごいな、立派な人だったんだな」
「立派かどうかなんて僕は知らない。僕にはどうでもいいこと。知り合いが、懐かしそうに話す、そのことだけが、大事」
 タイラントは黙ってシェイティの顔を見ていた。師のことを話すときともまた違う顔。それでいて、師と同じように大切な人なのだとわかる。
 少し、溜息をつきたくなった。師と半エルフと、そしてリオンと。シェイティが大事にする人々の中に入っていく自信がなかった。
「半エルフの話だったね。人間のすることに堪えられなかった半エルフは――」
 わずかに言葉を切ったまま言いよどんだ。だからタイラントは気がつかなかったかもしれない、シェイティの目を見なければ。
 彼は今、無限の憎しみをこめてどこかを見ていた。
「――闇に堕ちたんだよ。人間のすることが悲しくて、つらくて、死にたいほどで」
 するり、と視線がタイラントを捉える。逃げたい、と咄嗟に思った。それでもタイラントは真正面から彼を見る。決して視線をそらさなかった。
 ふっとシェイティの目許が緩む。伸びてきた手が額を撫で、そのまま自分の膝の上へと抱き取った。
「ねぇ、あなた。死ねない半エルフが死にたいって、どんな気持ちだと思う?」
「……わからない。ごめん」
「いいよ、僕にもわからない。人間が言うよりずっと、悲しく聞こえると思わない?」
 答えなど、必要なかった。タイラントは全身で語っていたのだから。半エルフの悲しみが、塔に凝っているような気がしてしまう。囚われて、動けなくなってしまう気がする。
「闇に堕ちた半エルフは、わかるよね。そう、今は闇エルフって、呼ばれてるね。半エルフは、殺されたくて闇に堕ちるんだ。僕は、こんな悲しい存在を他には知らない」
 きゅっと、タイラントを抱く腕に力が入った。抱いているのではなく、あたかもしがみついてでもいるかのように。
「なぁ、シェイティ」
 返事などなくてもかまわなかった。彼が聞いていることは、わかっている。タイラントは無言で耳を傾ける彼に言った。
「私、人間に戻りたくなくなってきたよ」
 精一杯の慰めだった。半エルフの話をしていたはず。あるいはシェイティは我が身にひきつけて何かを話していたはず。
 だから見当違いかもしれない、慰めるなど。それでもタイラントは言わずにはいられなかった。しばしの後、見上げたシェイティは仄かに微笑っていた。
「だったら、このままでいる?」
「それでも、いいかなぁ、なんて、さ……」
「楽器、弾けないよ」
 ぴしり、と言った彼の声には、言葉の柔らかさに反して強い響きがある。タイラントは彼を見つめるしかできない。
「歌だって、人の前で歌えないよ。吟遊詩人は、聴衆がいるんでしょ。あなた、そう言ったよね。それは、冗談だったの」
「違うよ! それだって、本音だよ! でも……人間が、急に酷く醜いものに思えてきた」
 膝の上でうなだれるタイラントの背を撫で、シェイティはひっそりと微笑む。この美しく優しい生き物を、手放したいとは思っていなかった。
「これも、僕の知り合いが言った言葉だけどね」
 そうシェイティは前置きしてタイラントの顎先に指をかけて上向かせる。じっと見つめてくる眼差しに、タイラントは怯まない。
「人間は、とても美しくて、気高い心も持っている。特定の誰かのためではない、自分のためですらない。この世界に暮らすすべての人々のために大穴を塞いだ、シャルマークの英雄みたいな人たちだっているよ、ってね」
 そう言いつつ、シェイティの目は間違いなく、闇に堕ちた半エルフと同じことを語っていた。人間など、信じない。愚かで忌まわしい生き物だ、と。




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