どこまで上がったのだろうか。頂上かもしれないし、途中で曲がったのかもしれない。これがシェイティの言う、魔法空間と言うことなのだろう、とタイラントは見当をつける。あながち間違ってはいなかった。 「シェイティ」 「うん?」 「さっき言ってた正に伝説って、どういうことさ?」 思わせぶりなシェイティの態度に苛ついたわけではなかったけれど、不安は去らない。だからこそシェイティはいまだ自分を抱きかかえてくれているのだろう。 シェイティが時折示す優しさにタイラントは戸惑わないでもない。これほど優しくされると、特に。 「ここ、どこだと思う?」 シェイティの面白そうな声がタイラントの夢想を破る。はっとして見上げれば、やはり楽しそうな顔をしていた。 いつになくくつろいだ顔。メグに見せていたより、ずっと。不意に気づいた。シェイティにとってこの場所ははじめてではないのだ、と。 「わからないから聞いてるんだってばー」 拗ねた口調で問うタイラントにシェイティは穏やかな眼差しを向けた。思わずタイラントが息を飲むほどに。 「ここはね、タイラント」 ためらうことなくシェイティが一つの扉を開ける。無造作に、どこにでもある扉にように。 「シャルマークの最後の英雄。半エルフの魔術師、リィ・サイファの塔」 するり、扉の中へと体を滑り込ませれば、そこはとても見るとは思っていなかった部屋だった。決して広くはない。だが優雅な設えの部屋だ。 「ここは、リィ・サイファの居間」 シェイティは言葉もないタイラントを抱えたまま、室内を歩き出す。あちらに本が、こちらには飾り棚が。とても伝説の魔術師が住み暮らしたとは思えない当たり前の居間だった。 長椅子の背に手をかけ、シェイティは微笑んでそれを撫でた。まるで大切なものを慈しむかの手つきにタイラントは知らず心が波立つのを覚える。 「シャルマークの、英雄が……ここに……」 「そう。リィ・サイファとカルム王子はここに住んでた。王子はウルフって愛称で呼ばれるほうを好んだそうだけどね」 「いまは――」 問うて、タイラントは愚かなことを言ったものだと思う。シェイティを見上げるまでもない。いまここに住むものはいない。 「リィ・サイファはとっくに旅に出たよ。半エルフの最後の旅に」 「それは」 「ウルフを失ったからじゃない」 きっぱりとシェイティは言った。まるで見てきたかのような言い様に、タイラントは驚く。その視線を感じたのだろう。シェイティは薄く笑った。 「僕の知り合いが、知ってるの」 「知ってる!?」 「そう。半エルフだからね。当時のことも覚えてるよ。彼らにとってはそれほど昔のことじゃない」 「君って、すごい知り合いがたくさんいるな」 半ば呆れ声。半エルフを易々と知り合いと呼ぶ人間がいるとは思ったことも考えたこともない。タイラントはそれが普通の人間だと思う。 「それってどういう意味さ?」 「……別に」 貶めたわけではないのだが、シェイティの機嫌を損ねてしまったらしい。タイラントは言い訳もできず視線をさまよわせる。 が、思ったほどシェイティは怒ってはいないようだった。何気ない素振りで歩き、長椅子の前に置いてあった水盤の前で足を止めた。 「うわ、なんだこれ!」 今更ながら気づいたタイラントは大声を上げる。それをシェイティが煩わしそうに見たけれど、気づきもせずに身を乗り出した。 「シェイティ! すごいよ、水が流れてるのにこぼれない! どうなってるんだ、これ……」 「もうちょっと頭のいい言い方はできないの。魔法に決まってるじゃない」 「そんなこと言われたって不思議なもんは不思議。しょうがないだろ!」 「じゃあ、もっと不思議なものを見せてあげる」 見上げればにんまりとしたシェイティ。どうやら自分の反応などとっくに見抜かれていたらしい。悔しいと思うよりどこか嬉しい。 「なにするの」 問いに答えるより先、シェイティの手が水盤に触れた。タイラントは息を飲む。今度こそ本当に言葉を失った。 何が起こっているのか、わからない。魔法の一種だということはわかっている。だが、何がなんだか、見当もつかない。 そこに、二人の人の姿が現れていた。水盤の上に浮かんでいるように見えるのだから、現実ではない。幻だろう。それにしては現実感がある姿だった。 「見ればわかると思うけど、こっちが半エルフの魔術師、リィ・サイファ。隣の赤毛が、カルム王子ことウルフ」 長身の、英雄とは思えないようなどことなく頼りない赤毛の男が、半エルフに寄り添っていた。言われるまでもない。半エルフの姿だけは、見ればわかる。 人間ではありえない美貌。このような幻めいた肖像でも窺える異種族の気配。長く伸ばした黒髪に王子が触れているのを少し嫌そうにしているのだけが唯一「人間」らしかった。 「……綺麗な人だね」 「はっきり言っていいよ」 「なにがだよ」 「怖いでしょ」 「……正直言うとね」 タイラントの言葉にシェイティがうなずく。それは悲しさを伴っていた。あわててタイラントは大袈裟なほどに首を振る。 「無理しなくていい」 「そうじゃないんだってば! 人の話しは最後まで聞けよ! 正直言って、怖いだろうと思ってた。半エルフって、やっぱりなんか怖いって思ってた。でも……呆れるほどに怖くない。王子が、側にいるせいかな……。なんか、普通。すごく綺麗なんだけど、美男美女の肖像って感じ。あ、美男美男か」 軽く笑い飛ばして言ったのは、照れたせいだとわかってもらえるだろうか。吟遊詩人のくせに、タイラントはリィ・サイファを表現する言葉を持たなかった。このように美しいものを見たことがない。 ただ美しいだけではない。幻のくせ、押し潰されそうな迫力がある。生身の半エルフに出会ったならば、それに恐怖を感じることもあるだろう。タイラントはそれを隠すつもりはない。だが、いまは少しも怖いとは思わなかった。 「そうだね、きっと隣に大事な人がいるせいだろうね」 「シェイティ?」 彼は、肖像を見ていながら、どこか遠くをも同時に見ていた。首を伸ばしてタイラントはシェイティに頬ずりをする。困った顔をした彼が、真正面で目を細めていた。 「死なない半エルフが、定命の人間を愛した――」 シェイティの視線がはっきりと二人の姿を捉える。タイラントはそんな彼を見ていたけれど、やはりなにを言っていいかわからなかった。 「リィ・サイファの話じゃなくて、僕の知り合いの話だけどね。半エルフだって、人間と同じだって。親しい人に死なれれば、同じように悲しい。それなのに、半エルフは死なないんだよ? どんなに親しくなった人間でも、ほんの瞬きの間に土に還ってしまう。……そう言ってた」 最後をぽつりと締めたシェイティが、まるで半エルフのようだった。タイラントの目には、そう見えた。 半エルフを悲しいと言うならば、シェイティはその身の内に同じような悲しみを秘めている、そう思えて仕方ない。 「リィ・サイファは、ウルフを失いたくなかった。他のすべてをなくしても、彼だけは失いたくなかった。だから、リィ・サイファは旅に出たんだ」 「……王子と一緒に?」 「彼を置いていってどうするの。人間世界のすべてを捨てて、二人はどこかに行ってしまった。もう、二百年以上前の話だけどね」 「ついたんだろうか……」 「辿り着いてるといいな、とは思うよ。でも僕の知り合いにもそれはわからないって。人間と半エルフが、一緒に暮らせる世界があるのかなんて、誰にもわからない」 「あればいいのに。本当に」 シェイティは答えなかった。タイラントの言葉にうなずきもしなかった。そのぶん、タイラントには伝わる。他の誰よりシェイティがそれを望んでいることが。 なぜかはわからない。どこか平安の地を求める気持ちが彼にはあるのかもしれない。彼が抱える何か。それを話してもらえないことをこれほど悔やんだ事はなかった。 「住みにくいよね、この世界は」 「あなたも?」 「当然だろ。私は自分のせいじゃないことで迫害されてるんだぞ」 言ってタイラントは左右色違いの目でシェイティを悪戯に睨んだ。ふっと彼の口許がほころぶ。タイラントは、気づかないふりをした。シェイティは言った、あなたも、と。 「とても綺麗だよね。どうしてこんなに綺麗なのに……」 タイラントは目をそらし、二人の肖像を見やる。微笑んでいるような、照れているような二人の顔。頼りない、と見えた王子の顔が不意に逞しく見えた。 この人は、とタイラントは思う。人間でありながら半エルフを愛した。この世のすべてを敵にまわす行為だったはずだ。 それでも互いを求め合った。どんな気持ちだろうと思う。お互いしかいないというのは。悲しいのか、それとも例えようもない充足か。 「綺麗だから、怖い。それが人間」 「シェイティ?」 「人間は、自分とは違うものが怖い。馬鹿馬鹿しいよね。人間にだって、美人はいるし、家柄の金持ちのって色々あるじゃない」 「……同じ、かな?」 「同じだよ。ちょっと違うだけじゃないか。家柄と一緒だよ。親がちょっと違っただけ。それだけなのに」 シェイティは、会話を求めてはいない。それがタイラントにはわかる。彼は口に出して独り言を言っているだけだ。 あるいはシェイティの人と違う何か、はそのようなことなのかもしれない。詮索するつもりはない。問い詰めれば、嫌な気分にさせてしまう。 せめて、自分といるときは、とタイラントは彼を見た。普通の人間とは少し違う何かを持った人間同士、労わるでも傷を舐めあうでもない。そこにいることに慰められればいい。そう思う。 |