タイラントは我を失っていた。シェイティの首に体中でしがみつく。苦しいと文句を言われたような気もしたけれど、まるで聞こえていなかった。 だからシェイティが何を言っていたのかなど、わからない。きっと呪文なのだろうとあとになって思う。あのときのよう、短い言葉ではなかった。もっとずっと長い呟くような声。それが恐怖を増す。 目の前が暗くなった。タイラントの喉から短い悲鳴が絞り出され、けれどそれだけだった。 「はい、到着」 茶化したようなシェイティの声がようやく聞こえて、タイラントは体の力を抜く。力を入れすぎた節々が軋むように痛んだ。 「シェイティ……」 力ない声とも言えないような声だった。それが己のものだとわかるまでに時間がかかるほどに。吟遊詩人の誇りが、粉々に砕け散る心地がする。 「なに? 平気だったでしょ。ちゃんとついたじゃない」 不満そうな彼の言葉にタイラントはぐったりとうなずいた。何事もなかった。確かにその通りなのだが、問題はそこではないのだと言ってもきっとシェイティにはわからないだろう。 「……伝説の中に入っちゃった気分だよ」 「ふうん。そんな風に感じるんだ。便利なのにね」 「君にとってはそうだろうけどさー」 「でもあなた、平気だよね? 具合が悪くもなってないし、気持ちも悪くないでしょ。普通は最初の転移の時には吐くんだけど」 「そう言うことは先に言えよ!」 「言ってどうなるの。言ったらよけい緊張するだけじゃない」 シェイティの言うことは間違ってはいないのだが、魔法と言うものに馴染みのないミルテシア人だと言うことを彼は忘れているのではなかろうか、とタイラントは疑う。 「魔法、習う気があるんでしょ、いまは。だったら慣れなよ」 タイラントの訝しげな視線を感じでもしたよう、シェイティは渋々とそう言った。その口調に、タイラントはようやくほっと息をつく。 「ここは――?」 見回せば、柔らかい草の生える長閑な土地。背後に山脈があるだけならば、ミルテシアの王都のほうを向いているだけだと思えたことだろう。 だが、見慣れないものがあった。目にするだけで、畏れが沸きあがってくるかの建物。聳え立つ、塔。 「だからシャルマーク。と言っても入り口だけどね。あの山脈の向こう側がサール神殿。わかる?」 さらりと言われてはそのようなものかと信じたくなってしまう。が、信じがたかった。先ほどまではあの高い山の向こうにいたのだ。一つ息をする間に飛び越えたのだと言われても易々と信じられはしない。 それでも塔はここにあり、神殿は形もない。タイラントはゆっくりとシェイティの首に巻きつけた尻尾をほどき、彼の顔を覗き込む。 「ほんと?」 「こんなことで嘘ついて僕になんの得があるの。あなたみたいに信じ易いお人よしが、どうしてこれを疑うわけ。わけわかんない」 「怒るなよ!」 「別に怒ってない」 言いつつシェイティがそっぽを向いた。やはり、怒っている、とタイラントは思う。あまりにも普通で当たり前の日常だ。 それに少しばかりの眩暈を覚えはしたけれど、タイラントは悟った。これが、シェイティの日常なのだ、と。 彼と共に過ごしたい。わずかでもそう思っているのならば、自分が慣れるべきなのだと感じる。シェイティは、無理強いはしないだろう、その代わり、見捨てる。それをありありと感じた。 「……それで、シェイティ。これからどうするの。私、この先のことなんにも聞いてないんだけど」 溜息まじりの声をどう聞いたのか、シェイティは首をかしげて塔を見上げた。つられてタイラントの視線も塔へと向く。 「高いねぇ」 言わずもがなのことを呟けば、シェイティが冷たい目をした気がした。 「当たり前じゃない」 凍りつくような声に、やはりそうだったのか、とタイラントは肩を落としたくなってくる。 「どこがどう当たり前なんだか、ちゃんと説明してよ。私には全然普通じゃないんだよ、シェイティ」 「僕には普通だけどね」 「君と私とじゃ常識が違うんだよ!」 タイラントの抗議に、何がおかしかったのかシェイティが明るい笑い声を上げた。よけいにタイラントは不安になる。 この先、また何か叩き落されるようなことが待っているに違いない。 「常識、ね……。まぁ、そうかもね。さぁ、あなたの常識をぶち壊しに行こうか?」 「ちょっと待て! シェイティ、何しにどこに行くんだ、私にわかるように言ってくれ!」 悲鳴まじりの声にシェイティはくすくすと笑った。からわれているのに間違いはないのだが、不思議と嫌な気はしない。 いつものシェイティだ。そう思った瞬間にタイラントの心が決まる。彼が彼であり続けるならば、それで大丈夫だ、とわけもなく信じる。 「ほら、お人よし」 くすり、笑ってシェイティが額を撫でてきた。ほっと息を吐いてタイラントはシェイティの首筋に顔を埋める。 「じゃあ、行くよ?」 「だーかーらー。どこへー。シェイティー」 「その情けない声、なんとかならないの? どこって決まってるじゃない。なんのためにここに転移したと思ってるの。あなたの頭の中につまってるのは、なに? 小麦粉でもつまってるんじゃないの。違うんだったらちょっと考えなよ、馬鹿?」 「だからまくし立てるなよ! 考えたくないから聞いてるんだろ!?」 「うるさい。わかってるなら聞くな」 ぴしりと言ってシェイティは塔の前へと足を進めた。タイラントは彼の肩で思い切り深くて長い溜息をつく。 聞こえているはずなのに、シェイティは聞こえたふりもしない。鉤爪でも立ててやろうか、と思ったときにはもう扉の前だった。 「聞いててもいいけど、たぶんなに言ってるかわからないと思う。僕は説明しないし、聞かれても一切答えない。いいね?」 「……わかった」 「いい子だね」 「うるさいなー」 これから何がはじまるのか、タイラントは恐ろしい。見るからに恐ろしげな塔に、シェイティはなんの用事があるのだろう。 タイラントは体を震わせ、そして説明しないと言いつつも、最低限のところは説明してくれたのだ、と気づいた。 何かが起こる。それはタイラントを恐れさせるような、何かだろう。それを説明しない、あるいは説明できない、シェイティは。 「……ありがと」 呟けば、わずかにシェイティが肩を揺すった。それから扉にするりと手をあてる。このまま肩にいてもいいものだろうか。思ったときにはシェイティの言葉がはじまっていた。 「――後継者。継ぐ者、銀――。正統。……許可。同行者、支配。……希望の名において」 途切れ途切れの言葉。シェイティの言葉どおり、何を言っているのかさっぱりタイラントにはわからない。 なぜか、少しずつ恐怖が静まっていく。シェイティの声音だろうか。タイラントはまじまじと彼の手を見る。 違う、と思った。シェイティの声より態度より、この場の雰囲気。畏れるべきものではあっても、忌まわしく恐ろしいものでは決してない。 タイラントがゆっくりと息を吸い込んだとき、吐くことを忘れた。 「なにしてるの」 ぽん、と背中を叩かれて、タイラントは呻き声を上げて息を吐く。扉が、開きつつあった。 「シェイティ、扉が。扉が……!」 「入るために開けたんだから、開かなかったら困るじゃない」 「入るの!?」 「入るの」 ひっと息を詰まらせたタイラントを、シェイティは肩から下ろす。そのまま胸の前で抱きかかえた。 「落ちると面倒だから」 呟いたのは、どういうわけか言い訳じみていた。タイラントは半ば怯えたままシェイティの衣服に爪を立てる。 「しがみつかないで、落とさないから」 「だって!」 「なに? 僕を信用してるんでしょ。だったら信じなよ。落とさないってば」 そういう問題ではない、と言おうとしたけれど、タイラントにはどうでもよくなってしまった。シェイティは常識を破壊すると言った。このくらいのことで驚いていては身が持たないかもしれない。 「そう、いい子だね。可愛い」 「うるさい! 怖いんだからな!」 「僕がいるのに?」 さも不思議そうな声に、タイラントは目を瞬く。シェイティが言うとは思ってもいなかった言葉のような、そんな気がして。 「……君がいても、怖いものは怖い。て言うか、ここはどこ。あぁ、いや。違う。どこでもいいよ、どうせ聞いてもわかんないし。どこって言うか、ここは、なに?」 「うん、いい質問」 見上げればにこりとシェイティが微笑んでいた。くつろいだ顔に、タイラントは真実恐れる必要はないのだと悟る。 「ここはね、タイラント。……さっきあなた、伝説の中に入ったみたいって言ってたね」 「うん、言ったけど?」 「正に伝説だね」 曖昧な言葉にタイラントは苛立って彼を見上げれば、シェイティは上を向いていた。彼の視線を追うよう、タイラントもまた上を見上げる。 どこまでも続いているように見える階段。知らずタイラントは目を瞬く。そのようなはずはない。外から見たときには、これほど長い階段があるとは思えなかった。 「シェイティ……」 彼が足を踏み出した。ぞわり、とタイラントの背筋に悪寒が走る。かといって、彼を止めたいと思っているわけでもない。何かが、普通とは違う。その違和感を覚えただけだった。 「へぇ。あなた、やっぱり平気なんだ。その体のせいかな?」 「だーかーらー。どういうこと?」 「ここはね、魔法空間で構築されてる。と言ってもわからないだろうね。現実に見えて現実ではない。それでいて完全に現実。そういうこと」 さっぱりわからなかった。少しずつ静まっていく怯えに、シェイティがゆるりと微笑んだ。 |