サール神殿に行くと思い込んでいるタイラントをシェイティは笑う。唖然としているらしい彼を首をかしげて見やれば、目を丸くしていた。
「だって……シェイティ……」
「あなた、メグの話し聞いてなかったの?」
「聞いてたよ! だから――」
 シェイティの傷を治してくれたメグは、確かサール神殿のほうに竜が飛んで行った、と言ったはず。タイラントは戸惑う。彼は、メグの言葉に従わないつもりだろうか。それとも別の情報を手に入れたのだろうか、と。
「聞いてないよ。メグはサール神殿のほうに飛んでいった、とは言ったけどね。もっと詳しいことも言ってた」
「え?」
 話していただろうか、そのようなことタイラントは覚えがない。
「あなた、ご飯食べてたからね」
「そんな!」
「あなたが食べてる間にもうちょっと詳しいことを聞いてたの」
「……ほんとに?」
「疑うわけ? 別にいいけど」
 いい、と言いつつむっとしているシェイティについタイラントは笑ってしまった。
「いいよ、君がわかってるなら、それでいいんだ。私は君についていくよ。まぁ、それしかないしね」
 軽く言ってタイラントはそっとシェイティの首に尻尾を絡ませた。それで信じているとわかってもらえるだろうか。
「ふうん、そう」
 シェイティが言ったのは、それだけ。だがタイラントはシェイティが少しでも信じてくれたのではないか、と思う。
 シェイティの指が伸びてきて、掠めるよう額を撫でて離れた。それだけのことが、哀しくて嬉しくてタイラントは彼の首筋に顔を埋めた。
「なに甘えてるのさ」
「……いいじゃん。ちょっとくらい」
「よくない」
 言いつつ、シェイティはやめろとは言わなかった。だから、タイラントはそのままでいる。彼の温かい肌の匂い。
 片目を開ければ、神殿が少しずつ遠くなっていく。寄りたいとは思わなかった。シェイティが進みたいのならば。
「タイラント」
「なに」
「寄りたかったの、神殿?」
「……別に。君が行きたくないなら、かまわない」
「ねぇ、あなた」
 歩きながらシェイティが体を揺らした。焦れたような仕種にタイラントは身をすくめる。
「あなた、自分の意思って物はないの。僕が行きたくなかったらなんだっていうの。行きたかったら行きたいって言いなよ」
「だから行きたくないって言ってるだろ!」
「本当に?」
「言ってる」
「だったら――」
 タイラントが何を落ち込んでいるのかがわからない。わからなくともどうと言うことはないはず。それなのに、気になる。
 それが苛立たしいのだが、シェイティはタイラントに言う気はなかった。
「……君が、メグと話したのを私は知らなかった。ちょっと……哀しい」
「なんだ」
 それだけのことだったのか、とほっとした。思わず胸を撫で下ろしそうになり、そんな自分が嫌になる。シェイティはタイラントに隠すよう、拳を握る。
「なんだってことはないだろ!」
「まぁね。僕が悪かったかもね」
「かもってなんだよ、かもって! 悪いのは君じゃんか!」
「わかった、わかった。僕が悪かったから。はい、偵察行ってきて」
「シェイティ!」
 怒鳴って、しかしタイラントはシェイティの肩から飛び立つ。疼いていた気持ちが嘘のよう、晴れている。
「気をつけて」
 ぶっきらぼうに言うシェイティの声を背に受け、タイラントは飛んだ。そして落ちそうになる。
「なにやってるの、あなた!」
 慌ててシェイティが駆け寄りそうになるのを、羽ばたいて宙に浮き、タイラントは止めた。ひらひらと尻尾を振って大丈夫だと知らせる。地上から呆れ声がした。
「シェイティ……」
 嫌々ながらも、案じてくれた。咄嗟に気づかなかった自分が忌々しい。シェイティのあの口調。決して忘れない、そう思う。
「ありがと」
 聞こえない彼に言い、タイラントは顔を上げる。遠くまでよく晴れた空。青々と茂る草がどこまでも続く。点々と白い雲が地上に浮かぶ。羊の姿にタイラントは目を細めた。
 今までにはなかったものが一つ。それほど遠くではない。山が見えていた。地上からも見えていたそれは、宙から見れば聳えるよう高い。
 くるりと反転し、シェイティの姿を探す。さほど遠くまで飛んだつもりはなかったけれど、彼の小さな体を空中から捜すのは容易ではなかった。
「あ、みっけ」
 それでもタイラントは難なく彼を見つける。たぶんそれは、シェイティだからだ。ゆるりと腕を上げた彼が、タイラントを差し招く。そこを目がけてタイラントは急降下した。翼を切る風が快い。
「危ないじゃない。僕に怪我させるつもり?」
「そんなことするわけないだろ! 私、飛ぶのは巧いんだからな」
「歌より巧かったりしてね」
「シェイティ!」
「うるさいよ。それで、何か見た?」
「山が近いね」
 地上と空中と、違うのはその程度のもの。魔物の姿も人間の姿も見えなかったのだから報告できることはそれくらいしかない。
「山だけ?」
「うん。左腕山脈だけ」
 シェイティが顔を顰めていた。シャルマークを取り巻く山脈の一方、ミルテシア側は左腕山脈だ。おそらくそれはシャルマークを抱くよう聳えているから名づけられたのだろう。
「あぁ……もう。面倒くさいな」
「シェイティ?」
「面倒くさくなった」
 溜息まじりに言ってシェイティは空を仰ぐ。タイラントはぞっとして彼を見ていた。ここまできて、見捨てられるとは、思っていなかった。突然に彼が言った言葉の真意が掴めないだけによりいっそう背筋が冷える。
 たまらない思いで彼を見たつもりだったのに、知らずすがりつくような目になっていた。それにシェイティが煩わしげな溜息を漏らす。タイラントは息をするのも忘れてシェイティを見つめていた。
「シェイティ……」
「別に捨てないから、おろおろしないで。歩くのが面倒になった。もうちょっと進むか……うーん」
「シェイティ」
「だから、ちょっと黙ってて。いい加減歩くの飽きたよ、もう」
 だからと言ってどうしようもない。貴族や裕福な商人は馬に乗る、と言うけれどシェイティはどうなのだろう、と不意に思った。
 タイラントは、実のところ人間の姿だったならば乗れなくはない。裕福でも貴族でもなかったけれど、貴族の館に伺候する機会も多い吟遊詩人は乗馬の機会もまた、多い。
 もっとも、だからと言っていまここに馬がいるわけでもない。野生馬くらいは探せばいるだろう。が、捕まえて人が乗ることができるよう調教するのは一苦労だ。
「決めた」
 晴れやかに言うシェイティに、タイラントは思わず腰が引ける。きらきらとした目。どこかで見た表情。
「なに?」
「場所はわかってるんだ。転移しよう」
「はいー?」
 見た場所がわかった。あの、魔法を使ったときの目だ。氷の彫像を一瞬にして出現させたシェイティ。魔法の技量のほどを疑ってはいない。が、転移となると話が違う。
「ちょっと待て、シェイティ! 転移魔法って、聞いたことがあるって言うか、私も歌ったことはある! でも、それって伝説の類だろ!? 実行できるなんて、そんなこと知らないぞ、私は!」
 慌ててシェイティの肩から飛び立ち、タイラントは彼の眼前で盛大な抗議をする。その程度で人の話を聞くとは、思っていなかったけれど。
「実行? できるけど。普通に」
 案の定シェイティはただそれだけを言う。ぐっと詰まりそうになるのをこらえ、タイラントは毒づく。
「どこが普通だよ!」
「少なくとも、僕の一門では普通」
 彼の一門、と言うと例の凄まじい師匠と、あのリオン総司教か。思ってタイラントはげんなりする。首をかしげてリオンもか、と無言で問えばシェイティはうなずく。
「だからリオンにあなたを預けようとしたの。手っ取り早く帰れるし」
 続けてシェイティはそう言い、肩をすくめた。本当に、なんでもないことのように。それはタイラントを安心させようとする姿ではなかった。本気で、転移魔法が使えるのは当たり前だと思っているのだ、彼は。
「……できるの」
「できるから言ってるんじゃない。とろとろ歩くの疲れたよ、僕は。あなたの不安もわからなくはない。場所がわからないんだったら、僕だって無茶はしない」
 いままでもしてこなかった、そうシェイティは言いたい。どうだとばかり、目の前のタイラントを見据える。
「シェイティ」
「なに」
「君は、どこに行きたいの」
 今更ながら、彼がどこに行く、と言っていなかったことを思い出す。シェイティは場所が分かるとばかり言っている。ならば、それはどこだ。
「あなた、シャルマーク見物ができるよ」
 にんまりとしてシェイティは言った。呆気にとられ、タイラントは言葉を失う。
「なに……」
 そのようなことは考えたこともなかった。確かにラクルーサ見物はしたい。それはこれから叶えられるだろう。だが、シャルマーク見物とは。
「行きたくないって言ったら?」
「さてね。置いてくかな。それこそサール神殿に預けていく?」
「嫌だ!」
「だったらごちゃごちゃ言わないでついてきなよ。別に殺しはしない」
 生きるの死ぬのという問題ではないのだ、とタイラントは言いたい。が、それならばいったい何が怖いのだと問い返されるのは目に見えている。だからタイラントは口をつぐんだ。タイラントは、魔法そのものが怖かった。彼から習いたいと思っているその、魔法が。




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