遠く、純白に輝く建物が見えた。肩の上から乗り出してタイラントは見晴るかす。思わず胸いっぱいに息を吸い込んだ。 「シェイティ! 見えたよ、サール神殿だ!」 「うるさいな。怒鳴らないでよ、耳許で。見えてるよ、僕にも」 「だって、すごく綺麗だ!」 二人は泉の側を発ち、急ぐでもなく歩いてきていた。タイラントは相変わらずシェイティの肩にいる。自分で飛べ、と言われないことが不思議で、何より嬉しい。 その上、昨日は気を失ってそのままだったのだから、と言ってシェイティは肩に乗せたまま食べ物をちぎって口に運んでくれた。 なんとなく、面映い。同時にこのまま竜でいてもいい、そんなことをタイラントは強く思う。シェイティがこの姿を好んでいるのならば、なぜ人間に戻る必要があるのかとまで思ってしまう。 「残念だね」 「なにがー?」 「あなた、馬鹿? 神殿はあなたの上得意じゃないの」 「え……」 言われてみるまで思い出しもしなかった。タイラントは、このミルテシア辺境にあるサール神殿を訪れたことはなかった。 だが、王宮や神殿は、シェイティが言うとおり吟遊詩人の訪れを好む。新しい情報を得るためでもあったし、なにより娯楽の少ない世界だ。歌や音楽をもたらすものはどこに行っても歓迎される。 ことに神殿の奥に住まう神官たちは町の住人ほど外の人間との付き合いがないせいで、吟遊詩人を歓迎するのが常だった。 「シェイティ――」 「なに」 「それって、私が歌えなくって残念って意味?」 「他になにがあるの。別の意味が聞こえたんだったら僕のほうが教えて欲しいくらいだけど?」 そっけなく言ってシェイティは足を進めた。よもや彼がこのようなことを言うとは。タイラントは肩の上で目を丸くする。 「……僕は、あなたがどう思ってるか知らないけど。あなたの歌はいいと思う。楽器のほうは聴いたことがないから吟遊詩人としてどの程度なのか判断はできないけどね」 それで充分だ、とタイラントは言うことができなかった。聞いたこともないものを憶測で褒められるよりもずっと嬉しい。 「……聞きたいと、思ってくれる?」 彼がそう言うのならば、人間に戻りたい。タイラントはシェイティを覗き込んで彼の目を見た。 「別に?」 がらり、と心の中の何かが崩れた。そんな気がしてタイラントは自らを嘲笑う。シェイティの答えなど、わかっていたはず。 「あなたが人間に戻りたいって言うから、協力してるんだけど? 違うんだったら捨てるよ」 「シェイティ!」 「……捨てなくてもいいか。珍しいドラゴンだし、飼ってもいいな。あなたがそのつもりだったらリオンのところにでも送り出すけど?」 「そうじゃない!」 「だったら、なに?」 「……君は、私の、考えてることが」 もしもわかるのだったら、心の中が読めてしまうのだったら。思った途端に血の気が下がる。ぞっとしてタイラントは体の均衡を崩しそうになった。 「なにやってるんだか」 呆れた声音でシェイティが受け止めた。そうしなかったならば、地面に落ちていたところだった。 「――ごめん」 震える息を吸い込んで、タイラントはよろよろと肩に這い上がる。その体をシェイティがそっと支えていた。 「質問の答え。考えてることがわかる魔法はないし、そんな特殊能力は持ち合わせていない。精神を繋ぐことは可能だけどやってない。面倒くさいし。だからただ、なんとなくそうじゃないかなと思っただけ」 「……そっか」 「僕も質問があるんだけど?」 「なに? ああ、わかった。姫のことだろ。わかってるよ、私は人間に戻る。君がどうのじゃない。私は私の意思で人間に戻る決心をした。歌いたいし、楽器も奏でたい。それに友達を見捨てるつもりはない」 「……そう」 精一杯の意思の表明に、シェイティは気のない返事しかできなかった。言いたいことは山のようにあったけれど、何をどう言っても巧くタイラントを追い返す方法がない。 嘘を言おうが、問題をはぐらかそうが、あるいは真実を言おうが。彼はきっとこのままついてくる。それだけは間違いのないことだった。 「シェイティ?」 何かまずいことでも言ったのか、と懸念に揺らぐ声がする。シェイティは耳に慣れてしまった声を聞いて、耳を閉ざしたくなった。 「なに?」 強いて出すまでもない、無表情な声。いつもの自分だ、とシェイティは思っている。 だが、タイラントはシェイティが何かを締め出したのを感づいた。あれほど表情が読めない、と思ったはずのシェイティの心の動きがだいぶわかるようになっている。 それは、恋をしたからだとタイラントは苦く思う。彼が知ることはないし、知らせていいものかどうかも迷う。 少なくともいまはまだ、黙っていたい。一つ、人間に戻りたいきっかけを掴んだ気がした。シェイティの前に真実の姿で立ちたい。 その上でシェイティが竜の姿を好むならば、いっそ姿を変える魔法を習えばいい。 タイラントがシェイティに語ったことは、嘘ではなかった。しかし真実でもなかった。人間に戻るにしろ竜に留まるにしろ、いまタイラントはシェイティだけを見ていた。 「だから、なに?」 「え、あぁ……。うーん。巧く言えるかな。ははは」 「いいから、言いなよ。解釈はこっちでするから」 呆れた口調にシェイティの本復を知る。何かを隠して押さえつけて、そしてシェイティは自分の精神に勝ったのだ。 ほんの少し、自分を信用して愚痴の一つでも言ってくれればな、とタイラントは思いはするものの、それを言う無駄もまた知っていた。 「姿を変える魔法って、あるの?」 「あなた、本気で馬鹿だね」 「シェイティ!」 「その姿は、なに? やっぱり生まれながらのドラゴンなんじゃないの。違うんだったら、あなたはどうやってドラゴンの姿になってるの」 「そんなに畳み掛けるなよ! 君はそういうけど、気がついたらドラゴンだったんだ! わかるかよ、そんなこと」 「だから、僕が言ってるのは、姿を変える魔法はあるし、教えることは可能だってこと。そのくらい理解しなよ」 「そっか!」 晴れやかな声になったタイラントに見えないよう、シェイティは苦笑する。彼の考えていることが手に取るよう、わかる。 「ただし」 これだけは言っておかなければ、とでも言うような強い口調にタイラントの朗らかな笑い声がとまる。 「いまのあなたは魔法的におかしなことになってる。それは言ったよね」 こくり、肩の上でうなずく気配がして、シェイティは指を伸ばして彼の額を撫でた。 「姿を変える魔法は実際あるし、獣に変わることも可能。だけど、普通は長く変化してはいられない。いまのあなたみたいにこんな長期間は、異常。普通は長くとも三日が限界」 シェイティの真剣な声にタイラントも浮かれてはいられなかった。ごくりと喉を鳴らして体を強張らせた拍子、再び伸びてきた指が額を撫でていった。 「……どうして?」 「危ないから」 「なにが?」 「人間は、人間でしかいられない。獣に変われば獣の心になってしまう。気がついたら自分が魔術師だってことを忘れて獣になりきって野原を走ってるかもね」 さらりと言われたけれど、言葉の重さはタイラントに染みこむ。ならば、いまの自分はなんなのか。恐怖がこみ上げてくる。異常、と言われた意味がようやくわかる。 「シェイティ……」 「なに」 「君は、だから私に狩りをさせないよう、気をつけてくれてたんだね」 「――わかってるんだったら口に出すな。うるさいよ」 かすかに含羞んだようなシェイティの声だった。血の味を覚えるな、そう言ったときのシェイティの声の調子を思い出す。 「……ありがとう」 他に何が言えただろうか。何も言えはしない、とタイラントはそっと首を振るばかり。シェイティもまた答えず淡々と歩き続けた。 遠くに見えていた神殿は、いまや輝くばかりに見えている。シェイティにとっては、馴染みのない神殿の様式だった。 「綺麗だね」 シェイティの視線を追ったのだろう、タイラントの呟きに彼はうなずく。目は白く煌く神殿を見ていた。 「あれは?」 「大理石だろうね。綺麗だなぁ。こんな北まで来ると石造りの神殿じゃ冬は寒いだろうに」 なんでもないことのように答えたタイラントにシェイティは驚きを隠せなかった。人の心を読むのはどちらだ、と思えば笑えてしまうではないか。 「寒いかな?」 「うん、けっこう寒いと思うよ。まぁ、シャルマークほどじゃないんだろうけどさー」 「行ったこともないくせに」 「あるわけないだろ! ていうか、それだと君は行ったことあるみたいじゃんか」 「別に魔物退治に行ったわけじゃないけど、シャルマーク国内に入ったことがないわけじゃない。国内って言っていいのかな、今でもなぜかそう言うよね」 今更なことに首をかしげるシェイティをタイラントは笑った。言われてみれば、シャルマーク王国が崩壊してより千数百年が経っている。それでもなぜか人間はシャルマーク王国、と呼ぶ。治める王もいないと言うのに。 「そっかー。君は行ったことあるんだ。私はミルテシアから出たことないからさ。ラクルーサも見たいなぁ。あ、君についていけばいずれ見られるよね!」 いかにも朗らかに楽しい未来を語るタイラントにシェイティは笑みを浮かべるだけでなんら言質を与えなかった。 「シェイティ! そろそろサール神殿に着くよ!」 「だから? 別に神殿に用はない。あなた、行きたかったの?」 からかうよう言ったシェイティの目を覗き込んで、タイラントは呆気にとられていた。 |