ゆらゆらと温かいものに揺られていた。ぼんやりとタイラントは目を開ける。眩しいほどの陽射しが目を射抜いた。 「うわ」 声を上げて飛び起きようとして、掴まれた。何が起こったのかわからないぼんやりとした頭を巡らせれば、上からシェイティが微笑んでいた。 「起きたの」 「シェイティ……」 「そろそろ放りだそうかと思ってたところだよ」 くっと喉の奥で彼は笑った。見回せば、そこは木立ではなかった。野営の跡などどこにもない。 「あれ……」 訝しくなって身を乗り出してみてようやく気づく。タイラントはシェイティの腕に抱かれていた。抱えたまま、彼は先に進んでいたらしい。 それを思えば身の置き所がなくなるほど恥ずかしい。氷の彫像の出現と、その後の失神までは覚えているものの、目を覚ました記憶はない。 ならばあれからシェイティは起こしもせず側にいて、その上運んでくれたのか、この自分を。 「シェイティ」 「なに」 「……昨日。ごめん」 「別に? なにがさ」 「だって、君。怒ってたじゃないか!」 タイラントは乗り出して彼を見上げる。シェイティがどこか面白そうな顔をして見下ろしていた。 そんなものに騙されるものか、とタイラントは彼を見据える。怒っていた、シェイティは。自分を怖がるといって怒っていた。決して救ってやったとは言わないだろう。だが自分の待てる力に恐怖したのだと怒っていた。 「君は、怒ってた」 もう一度繰り返す。今度はシェイティもはっきりとうなずいた。 「やっぱり。だから私は謝るんだ」 「別にいいよ」 「よくない!」 怖かったのは、間違いない。そんな嘘はつけない。それでも彼が怖かったのではないのだと、言って信じてもらえるのだろうか。 シェイティは黙ってタイラントの色違いの目を見ていた。それから意外なほどににこりと笑う。 「あなたは最後まで怖くないって言い張った。その根性に免じて許してあげる」 「シェイティ!」 「冗談は言ってない」 ぴしりとシェイティは言い、言葉を止めた。反論のできないタイラントはうなだれ、本当に許されたのかと惑う。 許す、とシェイティは言う。本心だと言う。信じていいのか惑うことすら、本来ならば礼を失する。 「……ごめん」 だからタイラントには謝ることしかできなかった。それでシェイティが再び怒ろうとも。肩を落としうつむいたタイラントの頭に冷たい視線が突き刺さる。 「そう言うの、嫌いなんだよね。こっちが許すって言ってるくせに、どうしてまた謝るの。しつこいよ。謝りたいのはあなたの勝手。僕がいやだって言ってるのにまだくどくど言うなら、あなたは謝罪をするという行為がしたいだけだと見做すよ。それはただの――我が儘だ」 タイラントは完全に言葉を失った。彼の言うとおりだと思う。無言でうなずくタイラントの頭を理解したかとばかりシェイティが撫でる。 「まぁ、どうしても痛めつけられなきゃ気がすまないっていうならそうしてあげてもいい。さ、行きなよ」 くすりと笑った気がした。それも一瞬のこと。温かい腕から摘み上げられたと思う間もない。高々と掲げられたタイラントは慌てて辺りを見回した。 どこまでも続く草原。すぐそこに一本の立派な木が聳えていた。足元には小さくとも豊かな泉。ミルテシアでは当たり前の水場だった。 「ちょっと待て! シェイティ!」 泉を見た瞬間、シェイティが何をする気か見当がつく。真っ青になってタイラントは抗った。じたばたともがく竜を面白そうに見やってシェイティは薄く笑った。 「待たない」 ふっとほころんだ口許が、酷薄なくせになんて男らしい。タイラントが見惚れた隙を狙うよう、シェイティは思い切り彼を放り投げた。 「だから待てってば――ァっ!」 悲鳴を引いてタイラントが飛んでいく。それをシェイティの笑い声だけが追う。泉が盛大な水飛沫を上げるのを確かめて、シェイティもまた歩き出した。 「気分は?」 シェイティが泉のほとりに辿り着いたとき、タイラントはまだ水の中だった。水面に叩きつけられた衝撃に、頭がぼんやりしているのだろう。目が虚ろた。 「最低」 「狙い通りだね。そうして欲しかったんでしょ? 僕っていい人だと思わない?」 「……あぁ、そうだね。君はとっても優しくってありがたさに涙が出そうだよ」 「だったら泣けば。可愛く泣いたら愛でてあげるよ」 「誰が!」 言い返したタイラントの視線の先でしゃがみこんだシェイティが腹を抱えて笑っていた。思い切り翼で水面を叩けば、派手な飛沫が上がる。 「なにすんの!」 「えー。仕返し?」 「そんなことができる身だと思ってるわけ。……いい度胸だね、あなた」 「ちょっと待て、シェイティ! いまのは私が悪かったってばーッ」 目を煌かせ、興奮も露にするシェイティなどめったに見られるものではないのだから、この機会に存分に見ておけばいい。 そこまでタイラントは開き直れなかった。慌てるあまり巧く動かない体で泉の中を逃げ回る。不思議と水から上がろう、飛んで逃げようとは思わなかった。それだけ慌てふためいていた。 ちょうどいい機会だとでも思ったのだろうか。シェイティは服を脱ぎ捨てて泉に飛び込む。水音にタイラントが振り返ったときには遅かった。すぐ後ろに彼が迫っている。 「さぁ、どうしてくれようかな」 ほころんだ唇が花が咲いたようなのに、なんでこんなに怖いのだろう。震えてタイラントは逃げ惑う。それを楽しむよう、シェイティは着かず離れず彼を追いまわす。 「シェイティ……ッ」 疲れたから、もう勘弁してくれとでも言いたげな悲鳴に、シェイティは聞こえないふりをした。これにはタイラントもお手上げだった。 「もう、だめだ……」 呟きを残し、タイラントは水の中に沈んでいく。目を開けば一面の青い世界。水の中から見上げた空は、言い尽くせないほど美しかった。 せっかくだから、このまま息が絶えるまで見ていたい。そんな馬鹿なことを思ってタイラントはそっと笑う。 シェイティに見捨てられるとは思っていなかった。捨てる気があるならば、もっとあっさり彼は自分を置いていくだろう。こんな手間をかけることはないはず。 そしてタイラントの思ったとおりだった。それを知ればシェイティは嫌な顔をするに違いない。が、結局のところ最後にタイラントを救ったのはシェイティだ。 「うわ……」 水の中から体が持ち上がる。シェイティの姿はない。それなのに、なぜ。思う間もなかった。突然、水面に顔が出る。息苦しさを忘れていたとは言え、吸い込んでみれば空気とはこんなにも甘いものだったかと安堵する。 「シェイティ!」 わずかの間に恐怖に変わった。彼を探そうと見回したときタイラントの目に映ったのは、自分の体を支える水柱だった。 何が起こったのか、と泉を見れば、水柱をあげている分だろう水面が下がっている。そこからシェイティは上を見上げて笑っていた。 「これ! なに!」 「逃げれば。飛べるでしょ」 「そんなことできるか! いや、できるけど! これ、なに。シェイティ。もう勘弁してよー」 「だってあなた、逃げるから。だいたいね、水の中で僕から逃げようってのが甘いんだけどね」 最後のほうは独り言にも似ていた。思わず聞きとがめてタイラントが身を乗り出した瞬間を狙い、シェイティは水柱を解放する。 「ひゃ――っ」 大量の水と一緒に、再び水面に叩きつけられた。一日に二度はさすがに、つらい。したたか水を飲み込んだタイラントを掬い上げたシェイティの腕の中から思わずねめつける。 「可愛い悲鳴だったね」 「うるさいな! 誰が可愛いだ!」 「あなたが。他にいる?」 さも当たり前のことを聞くなと言わんばかりの口調にタイラントはげっそりとする。溜息を一つ。それですべてがなかったことにできたならばどんなにいいだろう。 「なぁ、シェイティ。いまのなに」 「魔法。他にあるとでも」 「だったら水の中で逃げるのは、なんでだめなの。無駄ってことだよな?」 「あなた……」 くっと笑ってタイラントを腕に抱えたままシェイティは岸辺に上がった。頭の一振りで水気が全部飛んでしまったように見える。 「なんだよ」 むっつりとしてタイラントはシェイティを見上げた。シェイティの顎先から、雫が滴る。そのときになってやっとタイラントは気づいた。シェイティの裸の胸に抱き取られていることに。 思わず飛びのこうとしたのをシェイティはどう解釈したものか、上手にあわせて軽く投げる。すとん、とタイラントが着地したのは、柔らかい草地だった。 「本気でいい度胸だな、と思ったの。念のために言っておくと、褒めてる」 頭から服をかぶりながらシェイティは言う。どうにも褒められている気がしないものだから、タイラントは首をかしげて彼を見た。 「どういう意味だよ」 「だから褒めてるんだって。その好奇心旺盛なところは魔術師向きだよ」 「……無茶無謀をそしられた気がするのは私の気のせい?」 「ふうん、被害妄想の気もあるんだ。いいね、嫌いじゃない」 「どういう意味だよ!」 「別に。いじめ甲斐があるじゃない。リオンなんかなにしてもこたえないからつまんなくって」 突然リオン総司教の名が出てきてタイラントはうろたえた。ゆっくりと息を吸い込んで、そうかと気づく。 人間に戻ったら、彼に魔法を教えてもらえるのだな、と。そこにはリオンもいて、彼の師もいるだろう。シェイティを取り巻く人々に自分が混じるのは、なぜか不遜な気がした。 |