シェイティは、タイラントに語ったことなど忘れた顔をして焚き火の炎を見つめていた。 人間。いつになっても愚かで本性の変わらないもの。醜くて、汚いもの。 師は、違うと言った。そうだ、とも言った。人間は様々な愚かをなす。その中に一点の光を見せるのが、人間だ、と。それは希望と言う、と。 今もシェイティの脳裏からそのときの声は去らない。それでも、信じられない。師の言葉であるにもかかわらず、とても人間が善をなすこともできる存在だとは思えない。 シェイティの視界の端、タイラントが映った。彼もまた、人間だ。シェイティはそう思う。今は竜の姿をしているとは言え、人間に変わりはない。いずれ彼にも失望することだろう。 それを望んでいるのか、それとも恐れているのかシェイティには区別がつけられなかった。以前ならば失望するまでもない、と断言できただろう。 いまはそれができないでいる。時が流れたせいか、あるいはタイラントと出会ってしまったせいか。ふとシェイティの唇が溜息を漏らした。 「なぁ、シェイティ」 ぽつりとタイラントが声をかけてきた。いままでの話を彼なりに咀嚼していたのだろう。シェイティは思いを振り払うよう首を振って額にかかる髪を払った。 「なに」 「君さ……半エルフって、怖くない?」 「怖い? なんで」 「なんでって言われても……」 タイラントにはシェイティの問いの意味こそが、わからない。半エルフは怖いもの。そう思っている。出会ったことなどないにもかかわらず。 「ちょっと当たり前の人間とは違うだけじゃない」 「違う?」 「そう。人間だって、親は選べない。違う? 半エルフも親を選んで生まれてきたわけじゃない。生まれが違った、それだけのこと。……あなたと同じようにね」 シェイティのためらいがちな声は珍しいものだった。ゆっくりと、タイラントに聞かせるためではなく己に言い聞かせるような声。 「私と……」 うなずいたシェイティの指が伸びてくる。そっと目許に触れた。 彼が何を言おうとしているのか、ようやくタイラントは飲み込めた。左右色違いの目。彼と過ごすうち、自分の容貌を忘れていたとは、笑うしかない。だがタイラントは笑わなかった。 目許に触られたまま、シェイティをじっと見つめる。彼もまた無言だった。見交わす目が、ひたと絡む。 「もしかして、君も?」 「……さぁね」 ふっと笑ってシェイティは指を離した。はぐらかされたタイラントは彼を見つめる。また答えはもらえないのだろうか。 「なぁ、君。……男だよな?」 本当は、ただの戯れだった。問うまでもなく、そのようなことはわかっている。ただ、答えてもらえない何かに少しだけ苛立っただけ。 だが、自分で口にしてみてはじめて気づく。そういえばこいつは男だ、と。頭で理解するより先に惚れていた。 普段ならば、理解も何もない。見るからに同性だ。そもそも自分の恋愛対象にはならない。タイラントは吟遊詩人らしく色恋は重ねてきはしたけれど、さすがに同性に心を動かしたことは一度もない。同性との恋が排斥されるわけではなかったしタイラントの知り人にも数人、同性の恋人を持った人はいた。彼らに対して奇妙さを感じたり、嫌悪を覚えたりすることはない。ただ、それでも自分はそうではない、漠然とそんな風に思っていた。 シェイティは自分を助けてくれた。ありがたいと思った。興味がある、がいつの間にか側にいたいに変わり、気づけばはっきりとした恋情になっている。 それをいままで不思議とも思わずにきた。むしろ自分の気持ちにまるで気づいていなかった。いまはっきりとわかる。この瞬間、タイラントはシェイティに恋をした。 「あなた……本気で馬鹿? それ真面目に言ってるんだったら、いい治療師を紹介するけど。そんなもんじゃだめか。いっそ死んでみる? 死んでも馬鹿は治らないって言うけど、でも物は試しって言うし。どう?」 「どうもへったくれもあるかよ! 誰が死ぬか!」 「あなたが。死にたくないんだったら、馬鹿なことは言わないほうが身のためだね」 くっと笑ったシェイティの目が焚き火の炎に煌く。タイラントは我が身の不幸を嘆きはしなかったけれど、溜息くらいはついてもいいような気がした。 「なに溜息なんかついてるの。そんなことができる身分だと思ってるの。言いたいことがあるなら言えば。……死にたかったら、だけどね」 笑みを浮かべて淡々と言い放つシェイティに、今度こそタイラントははっきり溜息をついた。そのくらいの反抗は、許されるはず。因果な男に惚れたものだ、と心のうちでそっと笑いながら。 シェイティの眉がぴくりと上がる。怒っている、と言うよりは楽しんでいる顔。あるいは怒ることを楽しんでいる顔だった。 「……おいで、タイラント」 柔らかな声。夜の静寂を驚かせない絹のような声だった。タイラントは思わず身を引きそうになる。が、ゆっくり伸ばされたはずの腕に気づけば捉えられている。 「シェイティ!」 胸の中に抱え込まれた。紛れもない男の体。まだ若い青年の薄く硬い胸。押しつけられてどうしたらよいものか焦る。 「大きな声を出さない。……ところで物は相談」 「……なに?」 「この周りはもう結界が張ってある。だから安全といえば安全」 「それで?」 なんとなく不穏な気配を感じたタイラントの怯え具合にシェイティが仄かに喉を鳴らして笑った。 「結界の周りで一晩中魔物に宴会されるのと、一網打尽に退治するの。どっちがいい?」 「そんなこと聞くまでもないだろ! 怖いよ、近くにこられたら!」 「じゃ、退治?」 「……うん」 明るく問われると、それでいいのか、と言う気がしてしまう。が、いくら危なくはないと言われても魔物にうろつかれて正気を保てるほど長閑な性格はしていない。なにぶんタイラントは一介の吟遊詩人なのだ。魔物と出会ったらまず逃げる。できるだけ全速力で。それが当然の常識だ。 「できるの?」 そう問いかけてしまうのも、だから致し方ないことだった。たとえシェイティが魔術師だと知って理解していたとしても。 「なに馬鹿なこと言ってるの。できるから聞いてるんじゃない。ほら、きたよ」 なんでもない口調で言われ、ついタイラントは彼の腕の中から振り返ってしまった。途端に卒倒するかと思った。 「シェ……シェイティ! あれ、なに! なんであんなにいるの! ていうか、大丈夫なのかよ、君は!」 「うるさいなぁ。数も種族もわかってるから聞いてんじゃない。別にどうってことないんだけど? じゃ、退治するから。動くなよ、タイラント」 ちらりとシェイティは結界の周囲に集まりつつある魔物を一瞥した。 タイラントに告げたとおり、すでにオークが二十体あまり、と見抜いている。奇襲を受けたならばともかく、この状況ではどうと言うこともない敵だった。 腕の中、タイラントが胸に顔を埋めて震えていた。これが一般的な人間の反応かと思えば反って新鮮ですらある。そっとシェイティの唇に笑みが浮かんだ。 「……可愛い」 呟き声が聞こえたタイラントが顔を上げようとした正にその瞬間だった。シェイティが詠唱をはじめたのは。 「来たれ異界の氷」 タイラントが想像していた魔術師のようではなかった。シェイティは魔物を見ることもなく、薄く笑みを刻んだままわずかに目を伏せている。仕種など何もない。じっとタイラントを抱えているだけだった。 タイラントには、だからそれが魔法の詠唱だとはわからない。思えばシェイティが魔法を放つときに彼の小さな呟きが聞こえるほど近くにいた例はいまだかつてなかった。 「汝が如く成さしめよ、シェローム<氷彫>」 呪文が、完成したのだろうか。タイラントは何もわからない自分をもどかしく思う。知らずシェイティを見上げた。 彼はいま、顔を上げている。思わず視線を追った。タイラントの眼が捉えたもの。襲い掛からんばかりのオークの群れ。 「な……」 恐怖に身をすくめそうになったタイラントは違うものを見た。淡く煌く薄い膜。否。オークの体を氷が覆っている。そこにあったのは、生きたまま氷に閉じ込められ、何が起こったかもわからないうちに絶命した魔物の群れだった。 「シェイティ……」 意味もなく呼んだ。彼を見る。どんな顔をしているのか見たいと思ったのかもしれない、何も考えていなかったのかもしれない。いずれにせよタイラントが見たのは、いつの間に空にかかったのか知れない月の光を受けて輝くシェイティの目。 光の反射だけではなかった。魔法を放った歓びと、興奮。それがこんなにも美しい。ぞっと背筋が震えた。 「タイラント」 輝く目がタイラントを捉える。すっと剣呑に細くなる。 「僕が、怖いの」 何を今更、シェイティの口調はそれを告げていた。タイラントは無意識に首を振る。だがシェイティは許さない。意思を見せろ、と無言で迫る。 「……怖くない」 「嘘。目が怖がってるね」 「違う!」 大きな声を出して、やっと息ができるのを知った。それまで詰めていたことにも気づかない己の愚かさにタイラントは慌てて呼吸を繰り返す。 「違う。怖くない。怖くなんか、ない」 「別に。僕はどうでもいいけど」 「嘘つけ! いいんだったらなんでそんな怖い顔して聞くんだよ」 「ほら、怖がってる」 くっと笑ってシェイティはタイラントを抱きかかえた。言葉とは裏腹に、タイラントは震え続けている。きつく抱けば彼自身それを知るだろう。案の定、忌々しげな舌打ちが聞こえた。 「怖くなんか、ないってば」 言い募る声に力がない。シェイティは、気になどしていなかった。ミルテシア人が魔術師に見せる反応としては上出来の部類だろう、とさえ思っている。 「違うんだ……シェイティ……」 忙しない呼吸を繰り返すタイラントに、シェイティは答えない。月光に照り光る魔物の彫像を眺めていた。 「なんて、君は。――格好いい」 呟くような囁き声。それを最後にタイラントは失神した。夜の中、シェイティの忍び笑いが木立に響いた。 |