舌打ちを一つ。忌々しげにシェイティは剣を引いた。タイラントは氷の剣が大気に蕩けていくのをうっとりと見ていた。
「やめた」
「どうしてです?」
「……負ける喧嘩はしないんだ。エイシャの神殿で総司教襲ったりしたら、後が面倒だもの」
「賢明ですね。神官総出で追手をかけますよ」
 何事もなかったよう、リオンがにこりと笑って首をかしげる。タイラントは今更ながらその事実を指摘されてぞっとする。
「さて、話はそれだけですか?」
「預かる気はないんだね」
「まるでないですね」
 柔らかい語調のくせ、リオンはきっぱりとそう言った。おかげで拒絶されているのだとしばらくの間タイラントは気づかなかったほどだった。
 もっとも、リオンは自分のためを思って言ってくれているのだ、とタイラントは思う。玩具のなんのと言うのは半ばは冗談だとしても。
「シェイティ……」
 知らず頼りない声で彼を呼んでいた。普段のそれとは違う、とタイラントは自嘲する。いまは少しの演技もなかった。
「なに、言いたいことがあるなら言えって言ってるじゃない。頭悪いな」
「君の側にいたい! 離れるのは嫌だ。一緒に行く!」
「……言えって言ったけど、そんな気持ち悪い言い方をしろとは言ってない」
 むっつりと不機嫌そうなシェイティの声だった。それでも肩の上にいるタイラントには彼の心の動きが読めるようだった。
「では、そういうことで。それはそれとして、少し彼をお借りできますか、シェイティ?」
「どういうこと?」
「なに、たいしたことではないんですよ。神官が信徒に話をしたい、と言うだけのことです」
 穏やかな笑みがあまりにも嘘くさい、とシェイティは疑いも露にリオンを見やる。彼はそのようなこちらの思いなどとっくにわかっているだろう。
 それが忌々しいが、多少はありがたいと思わなくもない。よけいな会話はしたくなかった。
「僕も同行する」
「おや、心配ですか、タイラントが?」
「違う。あなたが要らないことを吹き込まないか、その場にいたいだけ」
 断言されてタイラントは肩を落とす。少しくらい心配だと、言ってくれてもいいと思う。
 そう考えた自分に、つい笑えてしまった。リオンは神官が信徒に、と言った。ならばシェイティがなにを心配する必要があるのか。
「それにね、シェイティ。あなたは信徒ではないですし」
「タイラントだってそうじゃない」
「メイザ女神の信徒ならば、同じことですよ」
 あっさりと言ってリオンが肩をすくめた。そうなのか、と窺うよう、シェイティがこちらを見るのをタイラントは感じる。
「うん、まぁ。その、ね」
 申し訳ないな、と思いつつタイラントは嬉しくなってくる。少しでも自分が離れるのを嫌がってくれる、そう思えるせいで。
「ふうん、そう。じゃ、いけば」
 何も考えていないシェイティの声。だからタイラントにはシェイティが自分の感情を隠したのだと知れてしまう。
「ごめん、ちょっとだけ行ってくる。すぐ戻るから、待っててくれるよね?」
 ゆらり、肩の上から飛び立った。真正面から彼を見れば、目をそらされた。
 と、思ったのは勘違いだったらしい。シェイティの視線は中庭のベンチに注がれている。くい、と顎をしゃくって彼は言った。
「そこにいるけど、僕がちょっと休憩したいだけだから。別にあなたを待ってるわけじゃない、いい、わかった?」
「うん、わかった!」
 ぱっと竜の顔に喜色が浮かぶのをシェイティは無表情に見ていた。竜のくせに表情が豊かだな、など関係ないことを必死で考えながら。
「では、こちらへ」
 言いながらリオンが腕を伸ばす。どうやら腕でも肩でも好きなほうに止まればいい、そう言いたいらしい。
 タイラントは首を振って自ら飛んだ。振り返ってシェイティを見れば、彼はとっくにどこでもない場所をぼんやりと見ていた。
 神殿の裏手から、中へと入れば淡い光に満たされている。外から入った目には薄暗いほどだった。リオンは他愛ないことを話しかけつつ、自分の部屋へとタイラントを導く。
 時折、出会う神官たちは揃ってリオンに礼をするが、彼が伴っている竜に不審の表情を見せたものは一人としていなかった。
 立派な総司教なのだな、とタイラントは思う。神官たちは彼を敬っているからこそ、何も言わずに自分を通してくれるのだろう。
「さぁ、どうぞ。お茶でも、と言いたいところですが?」
「……飲めません」
「でしょうね」
 うんうん、と一人リオンはうなずいている。実のところ飲めなくはないのだが、シェイティに言わせると氷系の竜の特徴だとかで、ほとんど水程度まで冷ましてもらわなければ口にすることができなかった。さすがに総司教にそこまでさせるのはタイラントも気が引ける。
「では」
 示されたのは、椅子だった。人間だったならばそこにかけろ、とでも言うところだかろうがあいにく竜の体だ。迷った末、タイラントは椅子の背に止まった。
「いつまでも彼を待たせておくと機嫌が悪くなりますからね、手短にいきますが。タイラント、彼が好きなんですね?」
 問われて思わずタイラントはむせた。突然何を言い出すのか、とまじまじと総司教の顔を見る。意外と真剣な顔をしていた。
「いうまでもないことですが、咎めてはいませんよ?」
「ですが……」
「まぁ、子孫繁栄と言う意味では褒められたことではないですけどね。それを言ったら人のことを責められた義理ではないですし、私」
 にっとリオンが笑う。やっとの思いでタイラントは思い出す。彼の恋人は、シェイティの師。やはり同性だった。
「……はい」
 ゆっくりとタイラントはうなずく。決してリオンの口から彼に漏れてしまうことはないだろう、と信じるからこその返答だった。
「だったら、ずっと彼の手を離さないでくださいね、タイラント。私からのお願いです」
「でも」
「ずいぶん、彼は変わりましたよ。先ほど、一瞬ですが彼だとわからなかったくらいです。なぜか、わかりますか?」
 首をかしげて問いかける姿は、面白がってでもいるようだ。それが不快ではない辺りが彼の人徳というものだろう、とタイラントは思う。
 そのような問いが嫌だったわけではないけれど、答えは少しも思い浮かばなかった。黙ってタイラントは首を振る。
「あなたがいたからですよ。彼の肩に、あなたがいた」
「それが――。なぜ」
「嫌がりもせず、体に触れさせている。そのことにとても驚いたんです、私。おかげで彼だとわからなかったくらいにね。そういう人だったんですよ、彼は」
 一度言葉を切ってリオンは目を閉じた。彼と知り合ってからのことを思い返してでもいるのだろうか。タイラントは話の続きを求めることもできず、リオンを見ているしかない。
「あなた、特に怪我で飛べない、とか言うわけではないでしょう。それはいま確かめましたしね。それなのに彼は平気で肩に乗ることを許している。ずいぶん、変わりました」
 感慨深げにリオンは言った。喜んでいるのか、悲しんでいるのかはタイラントごときにはわからない。わからないなりに、彼がリオンの知るシェイティではなくなりつつあることだけは、理解した。
「優しい人だと、思いませんか?」
「え。シェイティが、ですか。それは、ちょっと……。私とは、物差しが違うんだなって。悪い意味ではなくって、もっとずっと彼は大きいなって」
「だから優しいとは簡単に言えない? まぁ、そうとも言えますね。あなたはよい目をしていると思います、私。では質問を一つしましょう。なぜ、彼があなたを手放そうとしたか、わかります?」
「全然。いや……、連れてかないほうが、回収、ですか? 早く済むだろうし。自分ひとりのほうが動きやすいだろうし」
 わからない、と言った途端リオンの目が光ったせいで、タイラントは渋々ながらも本当に感じたことを言わざるを得なくなってしまった。悔しさに、わずかに歯噛みした。
「違いますよ」
「そんな、簡単に! だって、私は足手まといだって、わかってるんです。いないほうがずっと」
「違いますよ、タイラント。彼はね、あなたに見せたくないものがあるんです。あなたが、嫌な思い、つらい思いをしないよう、手放そうとしたんですよ」
「そんな……」
 今度の言葉は否定ではなかった。タイラントはそれでもゆっくりと首を振る。考えられなかった、そのようなことはとても。
「総司教様に、なぜ」
「わかるか、ですか? 彼は認めないでしょうけれど、行動がとても私の銀の星に似ているから、ですね。あの人も優しい人です。私はシェイティがいま何をしているのか具体的には知りませんし、彼も話そうとはしないでしょう。おまけにあなたの抱えている事情も知りません。でも、わかりますよ」
 神官ですから、と取ってつけたよう言ってリオンは微笑んだ。そう言われてしまえばタイラントに返す言葉はなかった。無言で信じられない、と首を振る。
「昔話をしましょうか。以前、まぁ冒険のようなことをしたんですね、私。そこで銀の星と出会いました。彼は最後の最後まで、私に早く帰れと言い続けましたよ」
「なぜ、ですか」
「私が見なくていいものを見てしまうからです。知ってはならない事実を知ってしまうからです。おかげで私、呪われてたんです。その冒険の真相を明かすことができないようにね。さすがに今はもう解いてもらえてますけど」
 呪われていたなどどれほどのことでもないと言うよう、リオンは笑みを浮かべたまま言い放つ。タイラントは知らず声を上げていた。
「いまのあなたと状況が似ていますね。だから、私にはシェイティが何を考えてあのようなことを言ったのかが、わかるんですよ」
「総司教様は……」
「最後まで、彼と行を共にしました。あなたは、どうしますか。タイラント?」
 微笑んだリオンにタイラントは射抜かれそうだった。他の答えなど、考えたこともないしこれから考えるとも思えない。奮い立ってタイラントは一声鳴いた。




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