ミルテシアのエイシャ神殿の前は人だかりがしていた。うっかり祭日にでも当たってしまったのか、とシェイティは嫌な気がしている。
「おかしいなぁ、なんでこんなに人がいるんだろ」
 肩の上でタイラントが首をかしげているところをみれば、どうやら祭日と言うわけではないらしい。ならばよけい、嫌な予感がして仕方なかった。
「とりあえず、入ろうよ。シェイティ」
「いいけど。ねぇ、ドラゴンのまんまで入れるの」
「どうかなぁ。いまだけ人間に戻るってわけにはいかないだろ?」
「それができるくらいならどうして僕たちはこんなに苦労をしてるの。わかってて言ってる? やっぱり頭打ったんじゃない。理解力がなさすぎる。馬鹿なドラゴン」
 滔々とまくし立てる、と言うわけではない。淡々と言っているだけにタイラントの心にぐさりと突き刺さる。
「……わかってるってば」
 ぽつりと言った声になにが滲んだのだろう。シェイティは口を閉ざしてタイラントの額を撫でた。
「行くよ」
「……あ」
「今度は、なに? 言いたいことがあるならさっさと言ってね」
「私、呪われてるんだった。大丈夫かなぁ」
「なにを今更」
 シェイティは鼻で笑って歩き出した。神殿前の人混みが近づく。大勢の人々を遠くで見る分には興味深いと思いこそすれ、あの中に入っていくのかと思えばシェイティはたまらなくなる。人混みは大嫌いだった。
「だって!」
「あなた、あそこがどこかわかってる? 神殿だよ。神の加護があるんだよ? あぁ、そっか。神殿に一生閉じこもってればいいんじゃない。呪いも何も関係なくなるよ?」
「絶対嫌だ!」
 耳許で声を荒らげるタイラントをシェイティはくすりと笑う。ただの冗談だった。今更ながら不思議に思う。
 この自分が他人と冗談を言い合っている。タイラントの、吟遊詩人らしい大仰な語り口はいまだに癇に障るものの、大して気にならなくなりつつある。
 変わって行くのか、と思う。それはどこかぞっとするような思いだった。変わりたいと思わないわけではなかったが、積極的に変わろうとはしてこなかった。恐れて、いるのかもしれない。
 人混みは、さすがに神殿の中にまでは及んでいなかった。それでも静謐、とは言いがたい。神殿にあるまじき雰囲気だった。
「なんか変だねぇ」
 タイラントもそれを感じているのだろう。人に聞きつけられないよう小声で喋りながら辺りを見回している。
「人が多いんだ……」
「どういうこと?」
「ほら。楽人や、吟遊詩人がいる。あっちは朗読者かな……」
 神殿の内部に、タイラントが言ったとおりの人々が散在していた。様々な音がしているはずなのに、不思議と美しく混じりあって騒音にはなっていない。
「普段はこんなにいないんだよね?」
 タイラントが肩の上でうなずくより先、声がかかった。
「えぇ、そうですよ。今日は珍しく最愛のエイシャの総司教様がおいでですからね。みなお目に留まろうと集まっているんです」
 振り返ったシェイティの前に佇むのは、笑みを浮かべた神官だった。胸の前に下げた聖印の形からすればエイシャの神官だろう。
「そう……だったんですか。部外者は、避けていたほうがよさそうですね?」
「いえいえ。信徒の方には是非礼拝に」
「信徒では、ないんです。旅をしていて偶然通りかかったものですから」
 シェイティが言うのをタイラントは黙って聞いていた。さすがに肩の竜が信徒だとは言えないだろう。そもそもタイラントはエイシャの信徒ではない。
「それは残念です。が、どうぞ神殿の中はご自由に。我らがエイシャはお話がお好きです。旅の徒然などお話くださったら、きっとお喜びになりますよ」
「はい、ありがとうございます。神官様」
 一礼してシェイティは神殿の奥へと向きを変えた。タイラントはシェイティの肩の上で目を閉じている。不思議なものだった。
 当たり前、なのかも知れないけれどシェイティがごく普通の対応をすると、別人のように見えてしまう。
 このような態度も取ることができるんだな、と思っては、子供ではないのだからと心の中で否定する。
「なに考えてるの」
 タイラントにだけ聞こえるような彼の声。考え事をしていると、悟ってくれたのが嬉しくも切ない。
「普段のままの君のほうが……あ、いや。うん、そうだ! 好感が持てる、うん。好感が持てるなって思ってた!」
「……本当は違うこと言いそうになったね?」
 くっと笑って、だがシェイティは追及しなかった。機嫌がいいのかもしれない、逆に物凄く機嫌が悪いのかもしれない。タイラントは甘えるよう、尻尾を彼の首に巻きつけた。
「ほら、真ん中が愛すべきエイシャの神像」
 タイラントに言われるより前に、シェイティは気づいていた。青春のエイシャ、とも呼ばれる女神は少女であり母であり一人の女でもある。この神殿の神像は、そんな女神の特性を捉えている、とは言いがたかった。
「右隣が歌姫メイザ。左が器楽の女神、ミュゼ」
 誇らかに胸を張り、歌っているのだろう神像が、タイラントの信仰する女神だろう。器楽の女神は腰を下ろし、リュートだか竪琴だか判別できない代物をどうやら弾いているらしい。
「あんまり良くない神像だなぁ……」
 他者の信仰に口を挟むのは多神教のアルハイド大陸にあって、最も無礼とされることだった。さすがのシェイティもその辺りはわきまえていると見えて、神像のできには口を出さなかったものの、やはりタイラントもそう思ったらしい。
「メイザ女神の前でいいの」
「うん、ありがと」
「……別に」
 竜一匹、神像の前に放り出しては騒動になってしまう。ただ、それだけだった。自分が女神の前に跪くわけではない。
 それなのに、タイラントは信仰のないシェイティに膝をつかせることを詫びた。どことなく、嬉しかった。
 膝をつくのは、好きではない。たとえ相手が神であろうとも。自らが屈したようで、嫌だった。
 シェイティはタイラントを肩に乗せたまま女神像の前に進み出る。詩人や楽人が奏でる音が、渾然一体となって耳に届いた。
 肩の上、タイラントが頭を垂れているのを感じる。何を祈っているのだろう。考えるまでもない、と思い直す。
 人間に戻ることを、再び歌う日が来ることを。吟遊詩人として名を馳せることを。いつの日か、世界の歌い手と呼ばれることを。
 きっとタイラントが祈っているのは、そのようなことのはずだった。
「ありがと、シェイティ」
 長い祈りだったような気がする。そうでもなかったのかもしれない。シェイティはこくりとうなずいて立ち上がる。
「しまった」
「え?」
「礼拝。はじまりかけてる。あなた、どうする。出席する?」
「……できれば」
 タイラントの声にあった響きに、シェイティは柄にもなくうろたえた。切ないような懇願の響き。人間は、これほどまで神を求めるものか、と思う。
「わかった、いいよ」
「でも……」
「その代わり、後ろのほうで、目立たないようにね。僕は信徒じゃないってはっきり言ってあるんだから」
 タイラントに返事をさせる隙を与えずシェイティは足早に後ろに下がった。
「シェイティ」
「いいの。僕も、用事ができた。思いつかなかったとは、不覚だったね」
 何を、とはタイラントは聞けなかった。一斉に声が静まったのだ。ふ、と鼻先によい香りが漂ってくる。
「はじまったよ」
 まだ若い神官たちが振り香炉を振って、あたりを清めている。そのあとから、高位の神官が続く。後ろからも、香炉を持った神官が入ってきた。
 間に挟まれて静々と進んで来るのは、総司教か。ゆったりとした神官服は華美ではなく、好感が持てると言えなくもない。
 青春とは戦いの連続である、と恥ずかしげもなく言う教義のせいか、裾長の神官服の両脇には切込みが深く入っている。あれならば、戦い易いだろう、とシェイティも思う。もっとも、儀式用の正装で戦うはずもなかったが。
「……若いね」
「なにが」
「愛すべきエイシャの総司教様。位のわりに、若いなと思って」
「そう、だね」
 シェイティが言葉を濁した気がする。覗き込めば、彼の目は嫌そうに総司教を見ている。
 不思議だった。これほど若い、とは思っていなかったがエイシャの総司教はタイラントには好人物のように見える。
 まだ三十代の半ばほどだろうか。柔らかい温顔に笑みをたたえ、時折信徒に向かってうなずきかけながら礼拝を進めている。
 それだけならば、反ってタイラントは反発したかもしれない。あまりに完璧な人格者に見えて。だが総司教はどこかぼんやりとしていた。
 礼拝を失敗することこそなかったけれど、いつなにか起こすかもしれない、とひやひやするような茫洋さを持っていた。
 神殿内に満ちていた香りが変わる。神官が神の加護によって現す魔法で作り上げていた香が、変化したのだろう。それは礼拝の終了を告げるものだった。
「行くよ」
 シェイティがそっと言う。タイラントは礼拝に心が洗われたような気がしている。それほど熱心な信徒、と言うわけではなかったはずなのに、と思えば自嘲したくもなってくるというもの。
 外に出たシェイティは、香りを振り払うよう伸びをした。肩のタイラントは急激な彼の動きに体勢を崩しかける。
「シェイティ!」
 が、いつものよう大声で怒鳴ることはできなかった。いまだ人目がありすぎる。それが、幸いだったようだ。
「こちらへどうぞ」
 先ほどの神官だった。シェイティは心得た様子でうなずき神官に従う。
「シェイティ」
 満たされた、と思ったはずなのに突然どこかへ突き落とされた心地だった。シェイティが、何を考えているのかがわからない。不安でたまらなかった。




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