震えるシェイティに、いったいどんな言葉をかけられるのだろう。タイラントはいまこそ自分を無力だと思う。
「シェイティ」
 彼の首を柔らかく尻尾で巻いた。彼が好んでいるかもしれない自分の仕種。それで慰めになるのならば。
 突然のことだった。シェイティの手が伸びてきて尻尾を引き剥がす。何を、と思う間もなかった。
「気持ち悪い!」
 言い様シェイティはタイラントを放り投げた。あっと思ったときには宙を舞っている。体勢を整える暇もない。それほど勢いよく、と言うよりはむしろ投げ捨てられていた。
 いつもだったならばシェイティは投げ上げたタイラントを受け止めただろう。だが彼はそうしなかった。
「痛う……ッ」
 思い切り大地に激突したタイラントは呻き声を上げる。もがくこともできなかった。わずかに首だけ巡らせて彼を見れば、皮肉に笑っていた。
「あのね、気色悪いこと言わないで。ほんと、喋り方だけじゃなくて話す内容まであいつに似てる。本気で捨ててやろうかな。ねぇ、捨てていい?」
「いいわけないだろ!」
「だったら、おかしなこと言わないで。本当に……気持ち悪い」
 普段どおりの口調。語り口もそのままにシェイティの本気が透けた。タイラントにはわからない、いったい何が彼を怒らせたのかが。
「……気をつける」
「ほんと?」
「気をつけるけどさー、君が何に怒ったのかよくわかんないんだよね。私は普通に喋ってたし、自分が感じたままのこと言ったし」
 まだ痛そうに大地にへばりついたままタイラントは拗ねていた。シェイティの口許がふっとほころぶ。
「あなた、吟遊詩人だったね」
 その声にあったのは若干の諦めか。見上げたタイラントはシェイティの譲歩を知る。
「だった、じゃなくていまでもだってば!」
 よろり、と立ち上がりシェイティを見据える。体中が軋む気がした。さほど高いところから落ちたわけではない。それでも受身を取ることもできず叩きつけられたのだ、衝撃は大きかった。
「うるさいな、喚かないでよ」
 言いつつシェイティの手がタイラントを掬い上げた。ふわりとした優しい手。気持ち悪い、と叩きつけたのと同じ人間の手かとタイラントは思う。こんな手をしているから、シェイティがしたことを許せてしまえる。
「なに溜息ついてるのさ」
「君は酷いのにさ、なんで私は怒らないのかなって思ったら溜息が出た」
「怒れる立場じゃないからじゃない?」
「……ごもっとも」
 もう一つ溜息を。シェイティがそう思っているならば、それでいいような気がしてきてしまう。
 どうにもいいように扱われている、と思わざるを得ない。それが、決して嫌ではなかった。いままで人間であったときには、他人をいいように扱ってきた自分だった。
 だからこのような態度を取られるのも自業自得か、とタイラントは思う。だが、と内心で首を振る。シェイティ以外にこのような扱いをされたならば、間違いなく自分は反発するだろう、と。
「気持ち悪いなぁ、なに笑ってるの」
「別にー」
「言いなよ、間抜けドラゴン」
「言わない!」
 くっと笑ってタイラントはシェイティの肩に這い登った。彼が好きだから、何をされても気にならない。すべてを許せてしまえる。
 そのようなことを言えばまたきっと投げ捨てられるだろう。今度は拾ってももらえないだろう。
「いい加減にしなよ、捨てるよ?」
 タイラントは絶対に答えない、との意思も露にシェイティの肩の上で丸くなる。彼の首を尻尾で巻いてゆったりとくつろいだ。
「ねぇ」
「んー、なに」
「痛い?」
 ぽつり、とシェイティが言ったのは、日暮れ間近のことだった。あれから答えないタイラントに機嫌を損ねたシェイティはずっと無言で歩いていたのだった。
「体? まぁね。痛くないとは言わないけど、もうそれほど痛くないよ。なに、シェイティ、心配してくれるんだ。嬉しいなぁ」
「そんなこと言ってない! ……神殿に連れて行くのに、僕が酷いことしたなんて神官に思われたら、嫌だなって。それだけ」
「……したじゃん」
「聞こえないんだけど? なに、言いたいことがあるならはっきり言えば。さぁ、どうぞ?」
「なんでもないです。なーんにも言ってないです」
「ふぅん、そう? なんか文句があるように聞こえたんだけど。気のせいかな」
「気のせい気のせい。私は君に文句なんかありません」
「あるわけないでしょ、こんな親切なのに」
 多少、言いたいことがないわけではなかったがタイラントは笑うだけにとどめた。親切だ、と言うことに関してはまるきり言うことはない。
 シェイティは、自分になんの利益もないのにこうして手を貸してくれている。何より側にいることを許してくれている。タイラントに重要なのはむしろそちらのほうだった。
「夜遅くになってから神殿に着くのはなんだよね。やっぱり明日の朝のほうがいいよねー」
「当たり前じゃない。緊急の用でもないのに神殿に駆け込むなんて僕はいやだからね」
「魔物に襲われたって誤解されたりして?」
「それ、洒落にならないから」
 きっぱりと言ってシェイティはタイラントの額をつついた。言われてようやくタイラントは気づく。本当に、ありえないことではないのだ、と。
 いままではどうやったものかシェイティが危険な場所を避けて通っていたのだろう。ミルテシアの地理を知らないと言った彼ではあったが、魔術師なのだから魔物に関しての知識はある、と言うことかもしれない。
「夜とか、平気かな……」
「なにが」
「襲われたりしないかなって」
「今更なに言ってるの。いままでだって平気だったじゃない」
「君のその辺の考え方がわかんないんだよなー。昨日平気だったから今日も平気って、どんな根拠だよ」
 ずいぶん楽天的なのだな、と思えばタイラントの喉から笑い声があふれ出す。その額を軽く叩かれた。
「根拠だったらあるけど? あなた、気がついてないんだね。当たり前か。野営の時にはね、僕が結界を張ってるの」
「結界って? 言葉の感じからすると、こう……魔物が入ってこられないようにってこと?」
「魔物だけじゃないよ。人間も。半エルフも。闇エルフも。まぁ、僕より力がある存在だと無駄だけどね」
「人間もって、シェイティ!」
「あなた、無邪気だね。旅人にとって危ないのは魔物より人間でしょ。盗賊に襲われたりしたら、魔術師一人と手乗りドラゴンが一匹でどうやって対処するの。相手の人数が多いと……」
「……そっか。危ないよな」
「相手がね」
 一瞬、何を言われているかわからなかった。恐る恐る肩の上からシェイティを覗き込む。知らず、見惚れた。なんて綺麗な顔をするのだろう、と魅入られてしまいそうになる。
「あのさー、シェイティ。それって……」
「僕はこんなところで死にたくないの、わかる? 大勢に襲われたら、殺さないで対処するのはいくら僕でもちょっと無理。野原の真ん中で大虐殺やるのは僕だって避けたい」
「避けてー、お願いだから避けてー。私はいやだよ! あんまり血を見るの好きじゃないんだから!」
「だから結界張ってるんだって言ってるじゃない、人の話し聞いてるの、あなた。僕だって血を見るのはそれほど……好きじゃない」
 言葉に多少のためらいがあった。それがタイラントを不安にさせる。シェイティと自分と、言葉の定義が違うような気がしてしまう。
「シェイティ」
「僕は無駄に自分の手を血に染めたくない。これ以上、無駄な殺しはしたくない」
 返す言葉がなかった。これ以上、と彼は言った。ならばいままでは。問うこともできず、顔を見ることもできない。
 タイラントは彼の肩にしがみついた。シェイティは、血を流さない決心をしているのだと信じたい。過去はどうあれ、そう生きていくと決めたのだと。
「痛いよ、爪立てないで」
 そっとシェイティの手が肩に食い込む鉤爪をつついた。はっとしてタイラントは力を緩める。気づかなかった。まじまじと見れば自分の鉤爪が服に穴を開けてしまっている。そこから覗く一粒の、血。
「あ……」
 シェイティは、怒らなかった。叩きも殴りもしなかった。ただ爪をつついて外させただけ。タイラントは泣きそうになる。
「ごめん……」
「別に。平気だけど。なに泣いてるの。変なものでも食べた?」
「君と同じものしか食べてないだろ!」
 喚いてもすっきりなどしなかった。いまはじめてシェイティと言う人間に出会った、そんな気がした。
 非情な言葉。暴力的な態度。挑発的としか言いようのない言動。その中に隠れたシェイティの優しさを見た気がした。
「君は……」
「また気持ち悪いこと言うんじゃないだろうね。今度は本気で捨てるからね」
「優しくないなぁ、と思ってさ」
「……なにを今更。頭大丈夫? どっか打ちつけたんじゃないの」
「ぶつけたんなら君が投げたときだろうよ! そうじゃなくてさ、なんて言うかな。君は普通に優しくないんじゃないんだ。君は、物差しが違うんだ。当たり前の人間よりもっとずっと大きいんだ。だから、一見全然優しくない」
「だから優しくなんかないって言ってるじゃない。なにをくどくどと」
 ぷい、とそっぽを向いたシェイティは戸惑っているようにタイラントには見える。優しい、などと仄めかされて戸惑っているのかもしれない。それを思えばつい、微笑が浮かぶ。
「君は優しくない。一般的な尺度に照らし合わせればね。でも、私にはとても優しい……ように感じる。君は酷いけど、でも私は君が大好きだなぁ」
「……やっぱり頭打ったんじゃない? 酷いけど嫌いじゃないって、あなた、被虐的な趣味でもあるの。嫌なドラゴン拾っちゃった……。やっぱり捨てようかな。神殿なら面倒みてくれるよね。その辺で箱でも拾ってきて、この子をお願いしますとか立て札でも立てとこうかな」
「シェイティ。具体的すぎて洒落になってない」
「本気だもん」
「捨てないでー」
 笑って言うタイラントを、シェイティは軽く撫でた。喉の奥でくっと笑う。捨てる気など、いまは少しも持っていなかった。




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