目の前でタイラントがふわふわと浮いていた。困り顔をした竜、というものは中々の見物だとシェイティは笑い出したくなってくる。 「それで、なに?」 問いかけなければ、ずっとそのまま黙っているつもりではないだろうか、そう思ったシェイティは首をかしげてタイラントを見た。 何か言い出しかねているのは、わかる。そして危険を見つけたわけでもないはずだ。そうならば、もっと切羽詰った顔をしている。 「あのさー」 言いかけて、羽ばたいた。言葉を止めたのではなく、風に流されそうになっただけだろう。それでもタイラントの仕種は彼の心情のよう、揺らいで見えた。 「さっさと言いなよ、鬱陶しいな。なに、僕に言えないようなことなの。黙ってるんだったらそれでもかまわないけど? もちろん、協力は見込めないと思ってね。それでいいんでしょ?」 「だからそうやって畳み掛けるなってば! 私だって言いにくいことの一つや二つ……」 「うるさい。それで。言うの、言わないの。さっさとして」 「……言うよ。言うからさー。この手、やめてくれない?」 タイラントの眼前で、シェイティが手を広げていた。首を絞める気に満ち満ちている。飛んで逃げればいいものを、タイラントはそうせず、呆れて彼を見るだけだった。 「言えば、やめてあげる」 にこりとしたシェイティに、タイラントは器用に竜の肩をすくめて見せた。わずかに体勢を崩しかけ、慌てて立て直す。 そのときタイラントは見た。ひくり、とシェイティの手が動きかけたのを。もしもあのまま落ちていたなら、確実に受け止めてくれるつもりであった彼の手。 「なに、にやにやしてるの。気持ち悪いな」 吐き出して、シェイティは髪をかきあげてどこかを向いてしまう。顔色は、常と変わらなかった。それでもタイラントにはわかる。 「別にー」 言えば、酷いことをされるのが目に見えている。だから、言わない。口になど出さなくても心の中が歓喜に震える。 「ちょっとだけさ、寄り道。してもいいかな?」 「寄り道? 別に僕はかまわないけど。あなたの用事であっちこっち行ってるだけだし」 「でも、シェイティ。君も用事があるって……。人、捜してるって言ってただろ」 「まぁね。とりあえずそれは忘れてくれていいよ。見つかったような見つかってないようなものだから」 「あ……もしかして」 「なにさ」 「うん……、メグかな、と思ってさ……」 タイラントが口にするなり、シェイティは目を丸くした。次いで笑い出す。ミルテシアの草原を吹く風に笑い声がどこまでも流れていくようだった。 「そんなに笑わなくってもいいだろ! ていうか、違うのかよ!」 「うん、違う。全然ね。どうしてメグになっちゃうんだろ。不思議。あなた、変なこと考えるね」 「だってさー。他に誰か特に会ってないじゃんか」 ぶつぶつと文句を言うタイラントをシェイティは取り合わない。いまだくすくすと笑いながら機嫌よく歩いていた。 決して口にすることはないし指摘してやるつもりはさらさらない。それでもどうして気づかないのかな、とシェイティはそれがおかしくてならなかった。 「僕の用事はほっといていいよ。それで、どこに寄り道したいの」 「うん……。偵察行ったときさ、この辺だよなぁ、と思ったんだ。だからさ」 「どうしてあなたの話はそうやってまどろこしいの。言いたいことがあるなら早く言う。嫌なら嫌っていうし、だめならだめって言う」 「ちょっと待て、シェイティ。拒否しか選択肢がないのはどーかと思う」 「気のせいだよ」 きゅっと口許を吊り上げて笑った彼の顔が、いつもよりずっと楽しそうだ、とタイラントは思わず見惚れた。 何か、彼が面白がるようなことを言っただろうか。考えてもわからなかった。それより早く言うべきことを告げたほうがよさそうだった。シェイティの目許に険が出はじめている。 「神殿!」 「なに?」 「だから、神殿。もうちょっと行くと、エイシャ女神の神殿があるの」 「あなたがどうして愛すべきエイシャの神殿に行きたいのさ」 「だから、言っただろ。私はエイシャ女神の――」 はたとタイラントが口をつぐんだ。まじまじとシェイティを見ている。 上手なものだな、とシェイティはそんな彼を見ていた。飛びながら会話をし、視線を定めたままでもきちんと進んでいる。本当に、生まれながらの竜であるかのようだった。 「言いたいことがあるなら言いなって言ってるのに、あなたはどうして戸惑うの」 「君、エイシャ女神の敬称を、なんで知ってるの!」 問われてみてようやく気づいた。愛すべきエイシャ、ついそう呼んでしまった。慣れというものは恐ろしい、とシェイティは思う。 「……知ってるからなに? 別にそんなことはどうでもいいでしょ」 「いいけど。知ってるんだぁ。嬉しいなぁ」 「へらへらしない。鬱陶しい」 「だってさ、なんか嬉しいじゃんか。愛すべきエイシャのことを知ってる人、あんまり多くないし。素敵な女神様なんだけどなぁ。それでも私はメイザ様が一番だけど」 シェイティには言いたいことがいくらでもあった。だが、口を開けばぼろが出る、とばかりむっつりと黙っていた。 「どこなの」 「え?」 「だから、神殿。行くんでしょ。遠回りでも行くんでしょ。寄り道したいんでしょ。だから、どこにあるのかって聞いてるの。わかる?」 「わかる、わかりますー。あっちね。シェイティ」 無言でシェイティが腕を伸ばしてきた。タイラントは嬉々として彼の腕に止まる。そのまま肩へとよじ登った。 「シェイティ」 「なに」 「ありがと」 くるりと尻尾で彼の首を巻く。口で言うより、そのほうがずっと感謝が伝わるような気がした。 「別に」 皮肉げな口調。そのくせ額を撫でる指は柔らかかった。タイラントは彼の愛撫とも言えるような仕種にうっとりと目を閉じる。 「……疲れたの」 忍びこむ声を、聞き逃すところだった。目を開ければ、世界が揺れている気がした。 「ん……、別に。ちょっとだけ、ね」 「変なドラゴン。飛んで疲れるなんて、ドラゴンの風上にも置けないね」 「だから私は人間だって言ってるじゃないか!」 怒鳴ってみれば耳に届くのはシェイティの笑い声。どうやらからかわれたらしい、とタイラントは気づく。 同時に、気遣われたのだ、とも。働けのなんのと言ったくせ、こうして自分の身を案じてくれる。それが竜の身、であってタイラント自身を気にしているわけではなくともかまわない。 「シェイティ」 いま彼がここにいる。こうして、彼の側にいるのは自分。いつかもっと側に行きたいと願う。 そのために必要なのは、人間に戻ること。戻って彼に魔法を習うのだ。 だからこそ、すがりたくなってしまった、メイザ女神に。精一杯努力はしている。その上で、神に祈りたい。それを、シェイティはわかってくれるだろうか。 「ねぇ、シェイティ」 「なんだ、起きてたの。寝言かと思ったから返事しなかったのに」 「誰が寝言で君を呼ぶか!」 一瞬、嘲笑われたのかと誤解した。己の心を読まれたのか、と。だがシェイティの口調は他意なく明るかった。 だからタイラントは大声を上げる。シェイティと共に戯れる。それを彼が望むならば。 「そんな気持ちの悪いことしたら、殺すよ?」 「よく覚えておきます……」 前を見ているシェイティだったけれど、タイラントは彼が笑っているのを感じた。きっとぞっとするほど綺麗だ。見たい、とわずかに思ったけれど身を乗り出すことは控えた。 「君は、信仰を持ってないの」 「どうしてそう思うの」 「持ってそうに見えないから。そのわりに愛すべきエイシャのこと知ってたり。不思議なやつだよねー、君ってさ」 「……魔術師なんて、そんなもんだよ」 言いよどんで、何かを言い換えた。吟遊詩人の耳はそれを聞き取る。追及は、しなかった。言いたくないことを、あえて言わせようとは思わない。 「そんなもんってさ。言われたって。どんなもんだよ?」 「知りたがりで好奇心の塊り。あっち行ったら死ぬなってわかってても、興味があったら行っちゃうのが魔術師」 「……よく、生きてられるね」 心底、呆れた。そんな生き方があるものだろうか。それで彼は、幸せなのだろうか。覗き込んだシェイティの顔は、楽しそうだった。 「けっこう死ぬよ。魔術師って長生きだけど、そんなにたくさんいないでしょ」 「あ、うん」 「研究中に自分の魔法で吹っ飛んだり、魔物を捕まえようとして殺されたり。けっこうそんなのばっか」 「君は……」 「それでも僕は魔術師になってよかった。僕の唯一の――」 「……なに?」 「力、だよ。僕は無力だ。無力だった。今は、違う。少しは、ね」 惑うようなシェイティの口調。本気なのだろうか。本当に力がついたと思っているわけではないのかもしれない。あるいは、力があるからこそのためらい。 「君は、とても素敵だと思うよ。無力かもしれないけど、すごくきらきらしてる」 答えはなかった。シェイティはじっと黙ったまま自らの肩を抱く。震えていた。思わず彼の顔を覗き込む。 「シェイティ……」 タイラントは不安に震えた。いったい自分に何ができるというのか。何も。 |