ぽつりぽつりと、草原に白い雲が浮かんでいた。風になびく草に白が映えてなんとも長閑だ。
「可愛いねぇ、羊だよ。シェイティ」
 肩の上から伸び上がってタイラントが遠くを見晴るかす。
「可愛い? どこが」
「だって、可愛いじゃん」
「ねぇ、あなた。羊をちゃんと間近で見たことあるの」
 ふい、と首を巡らせて、シェイティはタイラントを見やった。その目の中におかしそうな色をタイラントは見つける。
「そりゃ、ないけど……」
「だろうね。吟遊詩人なんて、村には行かないものでしょ」
「たいていお客は町だね」
 しかたなしにそう言えば、シェイティは黙ってうなずくだけ。今しがたの機嫌のよさなど、どこかに飛んでいってしまったらしい。
「あ、鳥がいる!」
「鳥なんか……」
 珍しくもない、と言いかけたシェイティの言葉を奪うよう、タイラントは勢いよく飛び立った。
「待ってて!」
 言い捨て、タイラントは一直線に鳥を追う。竜の姿に気づいたものか、鳥は怯えたよう鋭く鳴いて逃げ出した。
「タイラント!」
 鳥の鳴き声より、遥かに鋭い声。タイラントは聞こえなかったふりをして鳥を追う。
 夕食に、ちょうどよさそうな鳥だった。小さめの鳥ではあるが、味はよさそうだ。思った途端、口の中に唾が湧く。
 直線に、あるいは突如として方向を変え、逃げる鳥を追うタイラントは、爽快な気分だった。
 体中に、風を感じる。まるでこの目で風の流れを読んででもいるよう、体勢を崩すこともない。つ、と翼を軽く持ち上げただけで、速さが上がるのも、曲線を描くのも楽しい。
「捕まえた!」
 嬉々として言ったはずの言葉は、言語にならず竜の鳴き声。タイラントはわずかにそれを訝しく思う。が、それより先に鳥が目に入る。
 鉤爪を伸ばし、体勢を低くする。あと少しで、爪がかかる。そのときだった。
「なに――!」
 あたりが突如として真っ白になる。慌ててもがいた体に走る鋭い痛み。風を読もう、としたときにはすでに何も感じられなくなっていた。
「落ちる!」
 思ったときには、落ちはじめている。ぞっとした。シェイティはどこに。助けてくれないのか、とは不思議と思わなかった。
 ただ、小さな体とは言え、竜の体が彼の頭上に落ちでもしたら、シェイティが傷を負う。それを避けたいとひたすらに念じていた。
「く……っ」
 鳥を追っていた空の高さから考えて、そろそろ大地に激突する。タイラントは体に力を入れた。本当は、力を抜いたほうがよかったのかもしれない。いずれにせよ、傷は負うだろう、傷だけですめば、よいだろう。
「馬鹿」
 が、タイラントが落ちた場所は。
「あれ……シェイティ?」
 彼の、柔らかい腕の中だった。何が起こったのか、わからない。きょろきょろと辺りを見回すタイラントに、シェイティは溜息をついた。
「シェイティ?じゃ、ないでしょ。鳥なんか追わないで、面倒だなぁ。もう」
「だって! 晩御飯……。ほら、ちょっとは、私だってなんかできるよって、その……さ……」
「そんなことしなくていい」
「シェイティってば。聞いてる?」
「聞いてるよ」
 言いつつシェイティは、何事もなかった顔をして歩きはじめた。腕の中からタイラントは彼を見上げる。
 完全な無表情だな、と思う。感情の欠片すら、窺わせてくれない彼の顔を見るのは、久しぶりな気がした。
 それだけ、言いたくない何かがある、と言うことだろう、とタイラントは見当をつける。彼が表情に表さないときほど、言いにくいものがあると、すでにタイラントは悟っている。
「シェイティ、なんでさ」
 だから、わざとのよう問いかけた。言いたくなければ、すぐさま手が出るだろう。投げられても、そのときには文句を言うまい、とぐっと腹に力を入れる。
「……戻りにくくなるよ」
 ぽつり、と言ったシェイティの声を聞き逃したかと思った。何を言っているのか、わからない。見上げても、シェイティは遠くを見ているだけだった。
「戻りにくいって、どういうこと?」
「あなた、馬鹿? 人間に戻りたいんじゃないの。戻れなくってもいいなら、放っておくけど?」
「え……あ……!」
 自分を、案じてくれていたのか、とようやくわかった。タイラントは言葉もない。黙ってシェイティを見上げるだけしか、できなかった。
「あなたが、本当に人間だって言うならね、生き物の血の味は、知らないほうがいい。獣の形から、逃れにくくなるから。本当にあなたが誇大妄想のドラゴンじゃないなら、ね」
「私は人間だって言ってるだろ!」
 怒鳴って、また気づく。シェイティが、怒鳴りやすくしてくれた。ぐっと、喉元にこみ上げてくるもの。
「なにしてるの、鬱陶しいんだけど」
 抑えきれなくて、シェイティの胸元に額をすり寄せた。頭に、シェイティの手が伸びてくるのを感じる。
 口では辛辣なことを言うくせに、この手だけはいつも優しい。そっと、なだめるよう抱いてくれるシェイティの手。温かくて、泣き出しそうだった。
「さ……さっき。驚いた。いきなり……目の前。白くなった」
 話してなければ泣きそうだ、と思ったはずなのに、声はすでに涙声。タイラントは恥ずかしさのあまりいっそうシェイティに強くしがみつく。
「あぁ、あれ? やったの僕だよ。そうか、驚いたんだ。ふうん、よかった」
「よかったって! シェイティ!」
「なにさ? あのまま放っておいたら、鳥に襲い掛かったのは、誰? なんのために誰が手助けしたと思ってるの。わかってて、言ってるんだよね?」
 恐る恐る顔を上げれば、シェイティは微笑んでいた。背筋が久しぶりに冷える。ゆったりと体の力を抜く。
「うん、いい心がけだね。いつもそんな風にしてれば、可愛いのにね」
 くっと笑ったシェイティの手が首筋を掴む。もう、どうとにでもなれといった気持ちだったタイラントを驚かせたもの。
「シェイティ?」
 彼の手が、なぜか自分を抱きなおしていた。投げられなかった。捨てられなかった。放り投げて、どこぞへ飛ばされるものだとばかり、思っていたのに。
「なに?」
「……さっきのあれは、なんだったのかなぁ、と思ってさ」
「魔法」
 話を変えたい。それだけだった。何かを言えば、シェイティが手を離してしまう気がした。
「白くなったやつだよ?」
「そう。あんまり、得意じゃないんだけどね、光の網で縛るのは」
「網だったの、あれは。ただいきなり白くなっただけだったけどなー」
「光の中にいたからね、あなたは」
 肩をすくめるシェイティに、そういうものか、とタイラントは思うよりない。
「得意じゃないから、気をつけてね」
「えーと、そのさー。私は何に気をつければいいか、教えてもらえると、嬉しいなぁ、なんて」
「人の言うことを聞いてね。あの網、縛ることもできるけど、ほんとは敵を切り刻むこともできるの。僕は苦手だからつい力が入っちゃって。細切れになりたくなかったら、気をつけてね」
「……う」
 思わず想像してしまった。青々とした草原に散らばる竜の残骸まで、鮮明に想像してしまった。こんなときには吟遊詩人の想像力の逞しさを呪いたくなってくる。
「ちなみにさー、なにが得意なの」
 もう少しでも景気のいい話を聞きたい、せめて頭を占める血だらけの妄想を追い払いたい。思って尋ねたはずなのに、間違ったことを聞いてしまったかな、とタイラントは思う。さも嬉しそうなシェイティの顔を見てしまっては。
「氷や水を扱うのは得意だよ。人間入りの氷の彫像を作るのなんて、大得意。足元から凍らせると、うるさいからね、一気にやるの。あぁ、ドラゴン入りは作ったことないなぁ」
 楽しげに言うシェイティに、やはり聞くのではなかった、とげんなりするタイラントだった。
 だが、シェイティの言葉をそのまま素直に信じたわけではない。シェイティが、意味もなくそのようなことをする魔術師だとは思えない。きっと理由があったはずだ、と思う。
「……なんだ。もっと喚くかと思ったのに」
 つまらなそうに言ったシェイティに、タイラントは笑い出しそうだった。案の定、仮に氷の彫像を作ったとしても、彼には理由があったのだ。
 理由があればしてもよい、というものでもないことくらい、タイラントにもわかっている。それでもきっとシェイティには、正しい理由があった、と思う。思いたい。
「なに、にやにやしてるの。気持ち悪いよ」
「別にー」
「この顔が、気に入らないんだよね」
 つい、と彼の手が伸びてきたかと思うと竜の引き締まった頬をつまんだ。つまむところのない場所、つままれれば、当然。
「痛い痛い痛いってば、シェイティ!」
 悲鳴を上げるタイラントに、満足そうな顔をするシェイティ。あたりは長閑で人影もない。遠く、羊が草を食んでいるだけだった。
「なんか、いいよねー」
 やっと離してもらえた頬がずきずきとするのを、あえて気にしないことをしてタイラントは景色を眺める。
「なにが?」
「のんびりでさ。気持ちいいじゃんか」
「あなたさ……。別に僕はいいんだけど。もうちょっと緊張したり焦ったりしたら?」
「え? なんでさ?」
 心の底から不思議でたまらない、と言った表情のタイラントにシェイティは溜息をつくのも忘れていた。
「お姫様。心配じゃないの」
「あ……」
「忘れてたんだ。薄情だね」
「いや、だって、その……!」
 いきなり釈明をはじめたタイラントの声を聞くともなしに聞いて、シェイティはゆったりと歩く。草原の風が心地良かった。




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