旅立ちは、夜も明けやらぬ早朝だった。カナンの村人によけいな騒動を起こされたくなかった二人は、密やかにメグの元を発つ。
「元気でお過ごしよ。体に気をつけてね」
 メグの口からは、そんな他愛もない言葉しか出てこなかった。ほんの短いときを共に過ごしただけ。それなのに、別れがたかった。
「メグもね。色々、ありがと」
「なんの、たいしたことじゃないさね」
「ん……、メグ」
 わずかに潤んだメグの目に、シェイティは微笑む。彼の肩でタイラントも寂しそうな顔をして彼女を見ていた。
「あのね、もし困ったことがあったら、必ず僕が言ったとおりにして。お願い」
 一息に言ったシェイティの言葉に、タイラントは驚いた。何を言っているのかさっぱりわからないが、メグはゆったりとうなずくだけ。自分の知らないうちにシェイティは彼女に何事かを語ったのだろう。浮かび上がってくるかすかな嫉妬。タイラントは恥ずかしそうにうなだれる。
「どうしたの?」
 タイラントの額をシェイティがつついた。まるで冗談のような、優しさ。タイラントはなんでもない、と言うこともできず首を振る。きっと、メグとの別れが寂しいのだとでも思ってくれるはず。
「シェイティや、ありがとうよ。あたしは、大丈夫だよ。まぁ、なんかあったら孫でも頼る気分であんたの言うとおりにしようよ」
「うん……そうして。ラクルーサなら、連絡がつくから」
「あいよ、ほれ、なにも今生の別れってわけでもないんだろ。もうお行き。そろそろ早起きの連中が目を覚ますよ」
「うん。じゃ、またね。メグ」
「またねー、たくさん、ありがと、メグ!」
 二人の声が揃うのをメグは微笑ましげに見ていた。シェイティが嫌な顔をするのも、タイラントが少しばかり嬉しげに笑った気がするのも。
 それから二人は振り返ることなくカナンの村を後にした。振り返れば、メグの言葉が本当になってしまいそうな気がタイラントはしていた。
 二度と会えないわけでもない。そう心に誓ってタイラントはまっすぐ前を見る。
 村を出てすぐは、畑が広がっていたけれど、程なくミルテシアらしい草原に戻る。早朝、と言うよりずっと早くに発ったシェイティの足取りは軽い。
「綺麗だね」
 シェイティの前をぼんやりとした明りが飛んでいた。薄いだけで、濁ってはいない。もしも明るさを強めたならば、目を焼くほどに白いだろう。
 魔法の明りだ、とシェイティは言う。松明より明るくて、必要がなくなるまで灯しておくことができるから、便利だとも。
 いままで身近に魔法と言うものがなかったタイラントは、なるほど魔法は便利なものだと思う。なぜ、これが恐ろしいのだろうか。
「ミルテシアは、なんで魔法を嫌うんだろう……」
 呟きが、夜明け間近の暗い空に吸い込まれていくような気がした。
「ミルテシアだけじゃないけどね」
「え! そうなの? ラクルーサも……」
「そうだよ。普通の人間は、やっぱり怖いんじゃない? 訳のわかんない力だし」
「君は、怖いと思ったことは」
「あるわけないでしょ。これは僕の力だから」
 きっぱりとした物言いが、いつになく好ましかった。彼の自信を感じているのかもしれない。
 そのような自信を持ちたい、とタイラントは思う。歌うことにかけては、自信があったはずだった。いつの間にか、薄れて消えてしまった。まだまだだと思う。
「君は、いいなぁ」
 遠い空に向けてタイラントは言う。羨んではいなかった。いつか必ず彼のいる場所にまで到達する。自分自身への誓いだったのだろう。だが、それにシェイティは怪訝な顔をした。
「なに言ってるの」
「だってさ、君は自信があってさ、なんでもできるだろ。私は――」
「ねぇ、あなた。馬鹿? 自信がなんだって言うの。僕がなんでもできる? 気のせいだね。わからないこともたくさんある。知らないことのほうがずっと多い。僕はそれを知ってるだけ、僕が何も知らない未熟者だって、知ってるだけ」
 タイラントはその言葉を声もなく聞いていた。よくぞここまで己の未熟を認めることができる、と。やはりそれはタイラントには自信のように思えた。とても、自分にはできない、と。
「僕はね、あなたよりずっと年も上。長いこと修行して、いまだ弟子の身分。それでも進むのは、魔法が好きだから。あなたは違うの」
「……一緒、かな。って、シェイティ!」
「なにさ」
「君、まだ弟子って、そんなこと聞いてないって!」
「言ってないもの。弟子だから、なに? ちょっとした事情があって、まだ師の御名をいただけてないだけ。技術的には一人前だって、師匠も言ってるんだけどね」
 その事情とやらを聞かせろ、と言っても口を割らないことは目に見えている。タイラントはひっそりと溜息をつく。
 シェイティのことをこんなにも知らない。もしかしたらメグが知った彼より、自分はもっと少ないことしか知らないのではないかと思えてくる。
 共に旅をした、と言うには頼りすぎてはいるけれど、それでも同じ時間を過ごしてきたはず。それなのに彼は自分の素性すら、話そうとはしない。
「あ……」
 思わず上げてしまった声に、シェイティが嫌そうな顔でもしたのだろう、気配がぴりぴりとする。
「なに、言えば? 言いたいことがあるなら、はっきり言って。斟酌するなんて、器用な真似はできないし、したくないから」
「もう、酷いなぁ。あのさ、メグのことなんだけど。君、メグにラクルーサで自分を探せって言ってたじゃないか」
「言ったけど?」
 そうは言ってはいないのだが、タイラントがそう思い込んでいるのならば訂正する気はシェイティにはなかった。
「シェイティー。君さー。どうやって君を探せって言うの? いまの君の名前って、言ってみれば偽名だろ。メグ、かわいそー」
 言った途端だった。シェイティの手が素早く動いてタイラントを肩から摘み上げる。首根っこを捉えられ、顔の前にぶら下げられた。
 なんとも情けない姿だった。何度もそんな目にあっているにもかかわらず、情けなさが薄れることはない。
 それにもかかわらず、タイラントは嬉しかった。シェイティが元気になったのだ、と思えばこそ。
 自分の代わりに傷を負ったシェイティ。再び彼と二人で旅に出ることができる。彼の暴挙は、タイラントには旅の再開を祝うがごとく感じられた。
「僕が、メグに酷いことをするって、言いたいの。ねぇ?」
「だ……だって!」
「シェイティ。確かにこれは偽名ではあるけどね、この名前に気づく人が確実に一人はいるの。もしかしたら、二人」
「あ……」
「そう、わかった? 師匠は気づくよ。あの人が気づくなら、問題はないの。理解した、馬鹿ドラゴン?」
「……理解しました。ごめんなさい。疑いました。私が悪かったです」
「よろしい」
 言ってシェイティは竜の体を放り投げる。タイラントは明けていく空に向かって悲鳴を上げる。それは喜びに満ちた悲鳴だった。
 放り投げる寸前、シェイティは笑っていた。まるで冗談口に付き合ってくれた礼だとでも言いたげに。吹き出すのをこらえる代わり、シェイティは自分を投げたのだと、わかってしまった。
 こんなに嬉しいことはない、そうタイラントは落ちながら思う。明けていく空は、美しかった。こんな風に空を見上げたことなど、かつてなかった気がする。
 明け初める、銀色の空。耳許で風を切る音。体のあちこちで風が渦巻く。その流れすら感じられる気がした。
「ほんと、あなたって馬鹿」
 はっと気づいたときには、シェイティに受け止められていた。羽ばたくことさえ忘れて、空に見惚れていたなど、恥ずかしくて言えない。
「それで? どうしてぼけっとしてたの。死にたいの。死にたかったら止めないけど、僕の手を煩わせないでね、面倒だから。とどめも、面倒くさいなぁ」
 あからさまに溜息をついて見せるシェイティの暴言をタイラントはうっとりと聞いていた。何かを言えば、また流れるような罵詈雑言が降ってくるのはわかっているから、何も言わない。黙って目を瞬いて驚くふりだけをしていた。
「それで、騙されると思ってるあたりが、甘いよね。さっさと言いなよ、間抜けドラゴン」
 くっとシェイティが喉の奥で笑った。完全に見透かされていたらしい。含羞んでタイラントが顔を伏せるのを、指先で無理やり上げられてしまう。
 もしも人間だったならば。タイラントは湧き上がる羞恥に顔を赤くしていたことだろう。それほどシェイティの仕種は優しかった。
 突き刺さる言葉の代わり、とでも言うようなシェイティの仕種。こんな風に優しくされるから、彼に惹かれてしまうのだとタイラントは目を伏せる。
「ねぇ、あなた。拷問って、好き?」
 言いながら、指先が額を撫でる。くつくつと笑う声の冷たさを裏切った、指の甘さ。タイラントは彼の指に額をこすりつけ、そっと見上げる。怖い目をしていた。
「うるさいなぁ、好きなわけないだろ! ちょっと……」
「なに? 痛いことされたくなかったら、早く言いなよ。僕、拷問って大嫌いだから手加減できなくって」
「なんだよ、それ! ほんと、君ってやつはさぁ……。って、痛いってば! 爪立てんなって、シェイティ! 痛い痛い痛い! そんなにされたら言えないって!」
 ようやく離してもらえた指に、タイラントはほっと息をつく。大袈裟に、騒いだだけだとシェイティはわかっているだろう。それでも彼は何も言わなかった。
 思わずシェイティの視線を追う。どこも見てないい。また、あの遠い目をしていた。タイラントは、何もできなかった。気づかないふりをするくらいしか、できない。
「空をさー、見てたんだよね。あんまり綺麗でさ。なんかぼーっとしちゃった。ははははは、私、変だよねー」
 虚ろな声を、シェイティはなんと思っただろうか。彼は答えなかった。あれほど執拗に問い詰めたにもかかわらず、シェイティは何も言わない。
 受け止められたときから抱かれていたままの体をひねり、タイラントは黙って彼の肩へと上った。聞こえないよう、溜息を一つ。
「綺麗だね、夜明け」
 無言で歩くシェイティが、ぽつりと言ったのはもう夜が明けてからずいぶんと時が過ぎたあとのことだった。




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