シェイティは、タイラントの視線に気づいていないわけではなかった。ただ返事をしたくなかっただけのこと。
 だから彼は再びメグを見た。その顔に浮かぶのは、一見して理解しがたい笑みだった。
「ねぇ、あなた。これのこと、平気なんだね?」
「平気?」
「そう。おかしな気分になったり、しないんだ?」
 言ってシェイティは改めてタイラントの背を撫でた。話題から置き去りにされていたタイラントは、なぜかしらその仕種にさえ悲しくなってくぅ、と鳴く。
「おかしな気分ねぇ。可愛いじゃないか」
 首をかしげる老婆にシェイティが笑う。タイラントはそっと彼の手に頭をこすりつけた。
「でも、変だってわかってる。あなたが、じゃなくて、村人のほうが、ね」
「あぁ、そりゃあねぇ。こんなちっちゃいドラゴンじゃ、売り飛ばして金に変えたい気持ちもまぁ、わからないでもないさね。ありゃ、あいつらはこの子がドラゴンだって気づいてないんだっけね。それにしちゃあ、変だよねぇ」
「これね、呪われてるの」
 くどくどと村人に対しての愚痴が始まりそうな気配を感じ取ったシェイティは逸早く言う。言うに事欠いてそれかよ、とタイラントは目を剥いて彼の手を軽く噛む。
「痛いでしょ」
 ぺしり、と額を叩かれた。わかっていて、やっているような気がしてきて、タイラントは深く溜息をつく。
「呪われてる? それにしちゃ、可愛い子だよ、本当にねぇ」
 くすくす笑いにタイラントは情けない気がしてきた。
 だが、と改めて思った。いままで彼の怪我に取り紛れてまるで気づいていなかった。
 メグは、自分を忌み嫌うどころか、ごく普通に接してくれている。気持ちの優しい人なのだとばかり、思っていた。
 メグは言った、獣の好きな人間に悪人はいない、と。それはメグ自身のようにこそ、思える。この見知らぬ旅の青年が飼っていると思しき動物に、だから優しいのだとばかり。
 そしてようやくタイラントは気づいた。呪いの魔法をかけられている自分に当たり前に接することができる彼女とは何者か、と。
「あなたも気づいたね。遅いよ」
 シェイティの憎まれ口に返す言葉がなかった。そもそもいまだ口をきくことができない。睨みつけて歯を剥くのが精々だった。
「メグ。ご主人が魔術師だって言ってたね。何か、遺品を身につけてるようにって、言われてない?」
「魔術師じゃないよ、なりそこないさ。でも、あぁ。言われてみればね、これは手放すなって、言ってたねぇ。そんな気なんか、ちっともありゃしないのにさ」
 懐かしそうに彼女は言う。その視線の先は萎びた指先だった。そこに嵌る装飾のない指輪にシェイティは目を留める。
「見せてもらえる? そのままでいいよ、手だけこっちに」
 指輪を外そうとした彼女をシェイティは笑って止め、皺だらけの手をまじまじと見た。ゆっくりとうなずく。
「これだね。具体的にはちょっと見ただけじゃわからないけど、あなたが幸せに暮らせるように、かな。魔法と言うよりは祈り。これのおかげで、あなたは不都合な魔法から守られてる。とてもいいものだね」
 淡々としたシェイティの言葉だった。ぐっとメグが唇を噛みしめるのが、タイラントは見えてしまった。
 考えてしたことではなかった、彼女の膝に飛び乗ったのは。見上げれば、滴り落ちる大粒の涙。タイラントは身を乗り出して彼女に頬ずりする。
「あの人は……。まったく……」
 言葉など、ないのだろう。泣きながら、メグは笑っていた。懐かしさと哀しさとがあいまって流れる涙が、タイラントに降り注ぐ。
「ご主人に、僕からも感謝を。おかげで、死なずにすんだから」
 老婆はこくり、とうなずいた。タイラントは何か厳粛なものを見た、そんな気がする。
 シェイティの、口ぶりだったのかもしれない。出会って以来、はじめてと言っていい大人びた口調だった。
「やだよ、みっともないね」
 一度だけ、メグは微笑んで指輪を見やった。それから照れたよう強引に顔を拭う。ついでのよう、タイラントの背も撫でていった。
「タイラント」
 シェイティの呼び声に、何かを考える間もなく飛び戻る。膝の上で丸くなれば、穏やかな彼の手。呼び戻してくれた、それが妙に嬉しいタイラントだった。
「ほんとに懐いてるねぇ」
 微笑ましげな声でメグが言ったのに、シェイティが笑い声を上げた。
「懐いてるっていうより、僕がいないとこれは困るの」
「あぁ……呪い、かい?」
「解くのに協力するって、とりあえず約束しててね」
「約束?」
 訝しげな声に、シェイティがにんまりとしたのが見なくともタイラントにはわかる気がする。それでも見上げてしまったのは、たぶん怖いもの見たさ、というものだろう。シェイティは、案の定の顔をしていた。
「これね、呪われてるだけじゃないの。きっとね、すごくお人よしなんだと思う。上に馬鹿がつくくらい? それとも、間抜け? こんな可愛い手乗りドラゴンにされちゃってね?」
 くすり、と笑ってシェイティの手がタイラントを持ち上げた。真正面から笑われてタイラントの頭に血が上る。
「シェイティ!」
 気づけば、怒鳴っていた。いつもどおりに。この数日、彼に怒ることもなかったのだな、と思えば殊の外に嬉しい。そして血の気が下がった。
「――と言うわけでね、これ。元々人間らしいよ。僕は知らないけど。もしかしたら物凄い誇大妄想なドラゴンなのかも」
「そんなことない! 私は人間だって言ってるじゃないか! シェイティ、君ってやつは……」
「なに」
「どうしてそうやって人を疑うんだよ!」
「簡単に信じると、あなたみたいな目にあうから」
 あっさりと言われてタイラントは返す言葉を見失う。それを口にしたのは、嫌がらせだったのかもしれない。
「だったら、メグは? 君は他人を信用しないって言うけど、メグはどうなのさ。私に喋っていいって、そういうつもりだったんだろ? 彼女を信用したからじゃないのかよ」
「そうだよ? 悪い? メグは、あなたにはわからないし言うつもりもない理由があって、信用するに足る。僕はそれを知っている。僕が知ってれば、それでいいの」
 言ってぷい、とシェイティは顔そむけた。タイラントは悔しそうに見上げるばかりだったけれど、メグには見えていた。シェイティの頬が笑みに緩んでいることが。
「おやまぁ、長生きはするもんだねぇ。あたしゃ、びっくりして心臓とまっちまうかと思ったよ」
 大袈裟にメグは胸を抑えて顔を顰める。それからシェイティに向けてぱちり、と片目をつぶった。吹き出すシェイティの態度が悔しくて、彼の首に噛み付けば、途端に飛んでくる指先。
「シェイティ!」
 首根っこを掴まれて、ぶら下げられていた。そのまま振り回しはじめかねないシェイティにタイラントは大声を上げて抗議する。
「ここ、メグのうち! 物がある、物が! 壊れるって、シェイティ!」
「大声出さない。村人に聞こえたら。面倒だよ? 僕、実は面倒くさいこと大嫌いなの。放り出されたくなかったら、おとなしくしてて。いいね?」
 問いかけだったけれど、実際問題としてそれは強制だった。タイラントは慌ててうなずこうとして首が動かせない。
「わかった、わかったから!」
 小声でシェイティに嘆願する。それをメグが朗らかな笑い声を上げて見ていた。
「いいねぇ、あんたは優しい子だね」
「誰が?」
「あんたさ、シェイティ。口ではなんのかんの言いながら、ちゃんとタイラントの体を見てたじゃないか。怪我がないか、見たんだろ? 大丈夫さ、あんたが全部怪我は引き受けてたよ」
「嫌なこと言うね、メグ」
「あたしを信用したんだろ」
「僕は、僕の手元においてるものを他人に壊されるのが嫌だっただけ。別にタイラントを庇ったわけじゃないから」
「可愛いことをお言いだね、あんたは」
 シェイティは答えずそっぽを向いた。メグとタイラントが、顔を見合わせて忍び笑う。
 シェイティにとって、それは幸福な悪夢とでも呼びたいような情景だった。あまりにも和やかすぎて、現実味が少しもない。
「さ、もう少し横になっといで。何かあったかい物でも作ってこようね」
 柔らかいメグの声に押されるよう、シェイティはうつ伏せになった。背中の傷は、やはり痛む。それを見て取ったのだろうか、心配そうな顔をしてタイラントが飛んできた。
「メグのところ、いってれば」
「そういうことを言うんだから。いいんだ、私はメグの役には立てないし。それに――」
「なに」
「……君が心配だって、言ってるくらい悟れよな!」
「無理言わないで。そんな、気色悪い」
 悟れ、と言ったことか、それとも案じられることに対してか。タイラントは問わなかった。どちらにしても自分が悲しくなるだけだった。
「ねぇ、シェイティ」
「なに」
「……どうして」
「なにがさ。はっきり言いなよ、じれったいな」
 癇性に唇を尖らせる。タイラントは彼の顔をじっと見る。ずいぶん、よくなったのかもしれない。眠っていたときより、顔色はいい。
「……どうして、私なんかを助けたのかな、と思って」
「どういうこと?」
「私は、君にとってお荷物でしかない。約束したって言ってくれたけど、別にいつ見捨てたって、君はかまわないはずだ」
 まず間違いのない事実だった、それが。タイラントは彼に捨てられる日が来るのかもしれない、と思うだけで胸が痛む。
 思った途端、まるで別の思いででもあるような気がして、一人胸のうちで狼狽した。




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