すっかりぬるくなった濡れた布を取り上げ、メグは彼の顔色を窺う。ずいぶんよくなったように見えた。
 青年の枕元に丸くなって心配そうな顔をする竜ににっこりと笑いかける。
「あんたのご主人はよくなってるよ。心配しなさんな」
 言われてタイラントは彼の顔を覗いた。少しも良くなったようには見えない。まだ青ざめたままだったし、身じろぎもしない。呼吸が穏やかなことだけが、慰めだった。
 くぅ、と甘えた声で鳴く。大丈夫か、と問うこともできないのが悔しくてならない。メグがいなければ、そうすることもできたのだが、彼女はつききりで看病してくれている。
 酷い傷を負った彼のため、そうして寝食を惜しんで努めてくれる老女を厭うことなど、さらにできない。
 だからタイラントはシェイティの枕元にただ居座っている。こんな自分を嫌いになりそうになりながら。
「おいで、可愛い子。ちょいと手伝っておくれよ」
 老婆が、布を絞っていた。タイラントが億劫そうに体を起こし、彼女の元にいく。それでも動きそのものは、素直だった。
 ぽっと竜が息を吐きつければ、瞬く間に布が冷えたのだろう、老婆が冷たそうに肩をすくめては、慌てて手を振った。
「おや、まぁ。目が覚めたのかい?」
 シェイティは、そんな彼らを見ていた。
 頭がまだぼんやりしていて、ここがどこなのかわからない。瞬きをすれば、慌ててタイラントが飛んでくる。
「ここは?」
 体を起こそうとすれば、背中が引きつった。おかげで記憶が戻ってくる。まだ痛みがある。それでも思ったほどではなかった。
「あたしはメグ。ここはあたしの家さ。カナンの、まぁ、治療師さね」
「治療師」
 繰り返してシェイティは何が起きたのかを思い出す。咄嗟にタイラントを庇った背中。酷い傷。それにしては痛みが少ない。
 知らず、胸の中に飛び込んできたタイラントを撫でていた。
「思ったより治りが早いね。まぁ、あんた若いしねぇ。運び込んでから、三日経ってるよ。ちょいとばかし背中は縫わせてもらったよ」
「縫った!」
「あぁ、縫ったよ。そりゃあ、ぱっくり割れてたからねぇ」
 平然と言ったメグにシェイティは目を見開いた。どうやら、本当に治療師なのだろう。それほどの傷をここまで回復させた、と言うのならば。
「ちっちゃなドラゴンが手伝ってくれたしね」
 茶目っ気たっぷりに言い添えた言葉が、一瞬シェイティはわからなかった。
 そして唖然としてメグを見る。次いで、厳しい顔をしてタイラントを。
「あんた、おかしいねぇ! その子が喋ったとでも言うのかい? ロマンチックな子だよ、あんたは」
 からからと笑ってメグはベッドの側に腰を下ろした。体が軋むのだろうか、わずかに顔を顰める。
「それはない、と思ってるけど。……ありがとう、メグ。名乗ってなかったね、僕はシェイティ。これは……タイラント」
 言いよどんだのをメグはかすかに不審そうな顔をし、それでも首をかしげるにとどめた。それがシェイティの警戒を解くきっかけになったのだろうか。
 あるいは、無防備でいた間何もされなかったのだから、今更警戒しても無駄だと思っただけかもしれない。
「なんの、村の馬鹿がしたことだからね。あぁ、その子がドラゴンだってのは、誰にも言ってないよ。馬鹿が何しでかすかわかったもんじゃないものねぇ」
 しみじみと言ったメグに、シェイティは思わず首肯していた。タイラントもまた、シェイティに追随するよう、うなずく。それを見てはまたメグが笑った。
「ほんといい子だねぇ。ずっとご主人の側で看病してたよ。あんたも、いい子だね、シェイティって言ったかい? 獣を可愛がる人に悪人はいないよ」
「別に飼ってるわけじゃないんだけど」
「おや、そうなのかい?」
「偶々拾っただけ」
「それで面倒みてる? だったら、そりゃ飼ってるって言うんだよ、坊や」
 にっこりと言われてしまってシェイティに返す言葉はなかった。坊や扱いが少しばかり癇に障る。が、どうやら七十歳を超えているように見えるメグに子供扱いされても、致し方ないことかもしれない。いまだ若い男に見えるシェイティだったが、実年齢で言えば彼女の子供と言っても通用する。もっとも、メグにしてみれば孫の年に見えていることだろうが。
「あたしなんかの治療で治ってほっとしたよ」
「どういうこと?」
「正規の治療師じゃないからね」
 言った途端だった、タイラントが体を跳ね上げたのは。きつい目をしてメグを睨みつける。
「やめなよ。治してくれたんだから、いいじゃない」
 そっとタイラントの頭を撫でた。甘ったれた声で鳴く竜に、シェイティは思いのほか優しい目を向ける。
 驚いたタイラントが瞬きをしたときには、シェイティの視線はそれてしまっていた。
「ちゃんとした治療師じゃないくせに、こんな治療ができる。これが火蜥蜴じゃないって見抜いた。メグ、あなたは何者?」
 それた視線は微笑む老婆に。シェイティを見上げれば、厳しい顔はしていなかった。わずかに楽しむような顔。タイラントは彼の胸に頭をすりつける。少しだけ、悲しかった。
「なに、死んだ旦那が魔術師のなりそこないだったのさ。あたしは亭主から治療の仕方を習っただけ。なりそこないの魔術師でもね、知識だけはあったよ。なかったのは……」
「才能?」
「はっきり言う坊やだね。ま、そのとおりさね。亭主はねぇ、獣が好きだったのさ。ドラゴンも含めてね。自分に才能がないってのは、あの人が一番よく知ってた。だからよけいだったのかねぇ。大きなドラゴンに惹かれてねぇ。ずいぶん話を聞いたもんさ。絵も、よく見せてくれたねぇ。だからだよ、その子が火蜥蜴じゃないってわかったのはさ」
 遠くを見つめる眼差しで、メグは語る。どこでもないところを見る視線は、手の届かない場所に行ってしまった男を捉えているのだろう。優しい顔をしていた。
「あんたも、魔術師だね、シェイティ? 亭主にちょっと雰囲気が似てるよ。あぁ、なりそこないなんかに似てるって言われちゃあ、いやかい?」
「別に」
「そうかい」
 メグの顔がほころんだ。亡くなった夫に似ているから、メグは手を尽くしてくれたのかもしれない。ふとシェイティは思った。たぶん、それほど間違ってもいないだろう。その皮肉がわかるのは、シェイティ一人。そして誰に言うつもりもなかった。
「あたしは元々この村のもんじゃなくってね。亭主んとこに嫁いできた、言ってみりゃ余所者さ。治療師なんて言っても、よっぽどのことがなきゃ、村のもんはここにはこない。安心おしな」
 彼女の言葉を補強するよう、タイラントまでが鳴き声を上げる。どうやら自分が眠っていた間、誰ひとり来なかった、とタイラントは言いたいらしい。多少、もどかしかった。
「あぁ……懐かしいねぇ。どうしてるんだろうねぇ、あの人は」
「死んだんじゃないの?」
「やだよ、亭主じゃないさ。むかぁしの思い出さね」
 ふっと、言葉を途切れさせ老婆は目を閉じた。そして開いた時には茶目っ気たっぷりに笑う。
「あたしゃね、いまでこそこんな皺くちゃの婆さんだけどね。昔はそりゃ美人だったのさ。おや、疑ってるね、本当だよぉ」
 自分で美しかった、など言ってのける彼女をシェイティは呆れ顔で見ている。あんまりにも呆れすぎで、ついには笑えてきた。だがその笑みに悪意はなかった。メグの、顔貌ではないきらめきを、シェイティは見ていたのかもしれない。
「あたしはね、娼家の出さ。昔は美人だったんだって、本当にね」
「……娼家」
「そうだよ、娼婦さ。青薔薇楼ってとこの売れっ妓さ。亭主に見初められて身請けされてね。だからよけい、村のもんは近づきたがらないってわけさね」
 肩をすくめたメグは、シェイティがかすかに青ざめたのを見逃した。が、タイラントは見ている。自分が見ているのに気づきもせず、シェイティがそっと唇を噛んだところまで、見ていた。
 なぜ、と尋ねたかった。だがシェイティにそれを問うことはできない。彼の傷のひとつかもしれない。吟遊詩人のタイラントは直感する。何か嫌な思い出に繋がるのかもしれない、と。
「店に出てた頃ね、そりゃあ綺麗な人がいたのさ。あたしがいた店は男も女もいてね。あの人は男だったけど、本当に綺麗だった」
「男なのに?」
「女のあたしが見ても綺麗だったんだよ、あの人はさ。透けるような金髪でねぇ、魅入られそうな翠色の目をしていったけね。腰を覆うほど長く伸ばした髪がさ、座るとふわって広がってねぇ。人と話すのが嫌いでね、女の子たちとなんか喋っちゃくれなかったけど、見てるだけで幸せな気分になるくらい、綺麗だった。あの人は死んじゃったのかねぇ。店から逃げたのか、いつの間にか消息が知れなくなっちゃってねぇ。もしかしたら客に殺されたのかもねぇ」
 遥かな過去を見つめる老婆の目は、それでも不幸せそうではなかった。彼女にとって、その過去は夫と出会った過去でもあるのだとシェイティは思う。そうでなければ、そのような思い出など、憎いだけだろう、と。
「あんたはね、ちょっとその人とも感じが似てるのさ。あらやだよ、男娼なんかと一緒にされて気を悪くしたかい? あたしゃ、あの人が生きてりゃ魔術師にでもなれたんじゃないかってね、思っただけさ。ごめんよぉ」
 不意に現実の時間に戻ってきたメグはさもすまなそうに眉を下げて謝った。タイラントが驚いたことに、そんなメグに向かってシェイティは微笑みかけたのだった。
「きっとね、その人。魔術師になってる。立派な魔術師になって、不出来な弟子に苦労してるよ、たぶんね」
「あぁ、そうだといいねぇ。うん、そうだねぇ……」
 老婆は目を潤ませながらもくしゃくしゃな顔をして笑った。タイラントは彼女と彼とを交互に見つめる。
 シェイティの言葉が、タイラントにはただの慰めには聞こえなかった。妙に確信的で、シェイティの物言いとしてはあれは断言ですらある。見上げても、彼は何も答えてはくれなかった。




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