一瞬の静寂。次いで、女の悲鳴。タイラントは声を上げたつもりだった。彼の戒めを破って、彼の名を呼んだはずだった。 それなのに、喉から振り絞られたのは、竜の絶叫。吼え声に、村人が一様に体をすくませた。 「やだよぉ、カナンの村に人殺しが出たよぉ。あたしが嫁いできてからこんなこたァ初めてだよ。リズ、リズったら! あんたの旦那が人殺しになっちまったよぉ」 のんびりしているのだか慌てているのだかわからない老婆の声がした。タイラントは聞くともなしに耳にしていた。 シェイティは、ぴくりとも動かない。しっかりと抱きしめられた体が動かせればいいのに、タイラントは歯軋りをする。 もしも動けたならば。村人たちをどうしてくれよう。シェイティは、何もしていない。多少、挑発的な言動は取ったかもしれない。それでも殺されるほどのことはしていない。 ぎゅっと胸が締め付けられた。殺される。慌ててタイラントは彼の胸に顔を寄せる。かすかな鼓動が聞こえていた。 「なに言ってんのよ、メグ婆ちゃん。誰が誰を――。ちょっと、あんた! なにやってんのよ!」 「なにって……そりゃ……」 「そりゃ、なによ? え? ちょっと! 血だらけじゃないのよ、今度と言う今度は愛想が尽き果てたわ! 別れてやる!」 「おい、待てよ、リズ。リズよぉ」 「待たない。別れるから。とっとと出てって。人殺しの女房なんてあたし、言われたくないもの。メグ婆ちゃん、その人、死んじゃったの。まだ生きてる?」 「さてねぇ。生きてるとは思うけどねぇ。あんたの旦那は意気地なしだからねぇ」 「あたしの旦那じゃないってば。いまこの瞬間からこの男とあたしは他人。生きてるんだったら、面倒みてやってよ。頼んでいい?」 「まぁ、言われるまでもないさね」 「メグ婆ちゃんなら、きっと大丈夫だよね?」 盛大な夫婦喧嘩なのか、それとも本気の別れ話なのか、タイラントにはわからない。彼女が心配そうにちらり、とこちらを見たことだけがわかった。 「さてさて、見てみようかね」 メグ、と呼ばれた老婆がよろよろと歩いてくる。こんな老人にシェイティを任せられない、とタイラントは彼の腕の中から威嚇する。 「おやまぁ、あたしはこの人を助けたいだけだよ。安心おし、ちっちゃなドラゴンちゃんや」 小声で老婆はそう言った。タイラントはぎょっとする。彼女は自分を見抜いているのか、火蜥蜴ではなく竜だと。 ならばいっそう、警戒する必要がある。タイラントはようやくここに来て人を疑うと言うことを知った。 そんな自分が情けなく、そして悲しい。それでもシェイティの安全には替えられない。かつかつと歯を噛み鳴らし、老婆を睨み据える。 「あんたのご主人は、ちゃんと助けるよ」 言うなり、脅されていることになど気づいてもいないのか、老婆は村の男どもを呼んでしまった。どうやら自分の家に運ばせよう、と言うつもりらしい。 おずおずと村人が寄ってくる。彼らの顔はみな、沈鬱だった。シェイティのことを案じているわけではないだろう、タイラントは皮肉に思う。 みな、村の中から罪を犯したものが出たことに暗澹としているだけだった。噂は風よりも早い。旅人が、わけもなく襲われたなどという話が広まれば、生活が立ち行かなくなることも、またありうる。 男たちに手足を持たれ、シェイティが運ばれてしまう。タイラントは一人、そこに残されそうになって、そして動けない。 「おいで、可愛い子」 体が持ち上げられた、と思ったときには老婆の腕の中だった。見上げた彼女の顔は、打ち沈んでいる。 「ちゃんと、助けるからね。心配しなさんなよ」 まるでそれは彼女が自身に言い聞かせてでもいるようだった。タイラントは一声吼える。信用しない。信用したい。シェイティの命がそれで救われるのならば。 「あんたのご主人は、いい人だね。ちゃんとあんたを守ったね」 よたよたと老婆が男たちに続く。足腰が痛むのだろう、時折拳で体を叩く。タイラントは知らず、大粒の涙をこぼしていた。 こんな村になど、来るのではなかった。情報など、要らない。シェイティが、このために危険にさらされるのならば、自分などどうなってもよかった。 人間に戻れなくてもいい。このままシェイティの肩の上にずっといられるなら、それはそれでいいじゃいか、そうとまで思う。 いつの間にか辺りは薄暗い。人の気配は絶えていた。ただ老婆が立ち働く音だけが聞こえる。いつの間に置かれたのだろう、うつ伏せに横たえられたシェイティの枕元に、タイラントはいた。 「シェイティ……」 老婆が聞きつけないのを確かめて、タイラントは彼を呼ぶ。答えはなかった。浅い呼吸、身じろぎもせず、青ざめた頬。 「どうして」 自分なんかを助けたりしたのか。あれほど誰も信じない、と言っていた彼が、なぜ自分ごときのためにその身を放り出したりするのか。 「君は……」 いったい何を考えているのか。彼の言葉のすべてを額面どおりに受け取っては、ならないのだろうか。 何もかもがわからなかった。タイラントは彼の苦しげな顔に頭をすりつける。嫌がって、そむけてくれればずっと気持ちが楽になるのに。 「ほら、ちょっとお退きよ。大丈夫だから」 メグがそこにいた。タイラントは彼女を見上げ、手許を覗く。 ぷん、と鼻を突く薬草の匂い。見上げれば、メグはあたかもタイラントが人であるかのよう、話しだす。 「傷に効く薬草だよ。それと、熱が出るかもしれないからその予防とね。あとは、眠り薬をちょっと」 言った途端、タイラントは吼えた。眠り薬、など聞き捨てがならない。それを理解したのだろう、老婆は苦笑した。 「あんたのご主人には眠りが必要だよ」 一度言葉を切り、一人合点してうなずく。それから全身で威嚇する小さな竜に笑みを向けた。 「なぁに、若いからね、二晩も眠ればずっとよくなるさね」 ならば、それは治療だと言うのか。メグの目をじっと見る。もしもこの澄んだ目が嘘だと言うなら、もう何を信じていいのかわからない。 シェイティが、助からなかったときには手始めにこの老婆を血祭りに上げてくれる。 タイラントは歯を噛み鳴らし、誓った。いまこそ、自分の体が竜のものである、その自覚が心の中から湧き上がる。 鋭い鉤爪。硬く尖った牙。いかに小さな体だとは言え、老婆一人くらい、村人の数人くらい、引き裂くことはできるはず。 老婆は、じっと待っていた。そしてタイラントの思いを感じ取ったかのよう、うなずく。彼女から目を離さないまま、タイラントはそっとシェイティの体から離れた。 「はい、ありがとさん」 メグの言葉に、はっとした。彼女は、自分が治療を許すのを待っていたのか。シェイティをちらりと見る。苦しそうだった。タイラントは甘えた鳴き声を上げ、それからメグを見る。 「心配しなさんな」 心強い言葉に、また涙があふれそうだった。信用しない、と決めたのにやはり自分はこうして人を信じてしまう。 メグならば、きっとシェイティを助けてくれると信じてしまう。それが間違ってはいないことを、彼が目覚めたときに証し立てたかった。 彼女の治療は手馴れたものだった。あるいは治療師なのかもしれない。今更ながらタイラントは気づく。 ならば、彼女の手に預けたのは、正解だったのか。いまだためらうタイラントの目の前で、シェイティの衣服が剥がれていった。 色白の背中にぱっくりと開いた傷。たらたらと流れる血が忌まわしい。タイラントは見ていられなくて目をそらす。 が、メグは真剣な顔をして血を拭っていた。顔色ひとつ変えず、針と糸で傷口を縫い合わせる。薬草をたっぷりと塗りつけて清潔な布で覆ったとき、メグもまた血に塗れていた。 「おやまぁ、困ったね。もう熱が出てるよ。疲れもあったのかねぇ」 のんびりした言葉だったが、タイラントは騙されなかった。メグの声にあったかすかな焦り。タイラントは彼女の手許に顔を寄せる。 「大丈夫だよ。ご主人思いだねぇ、あんたは。とは言え、ちっと冷たい水が欲しいやねぇ」 血を拭う間に使っていた盥は、鮮血に塗れて淀んでいる。タイラントは身震いをした。それほど多くの血を失っていたとは。たかが、自分のために。 「ちょっと待っておいでや、可愛いドラゴンちゃんや」 安心させるようメグは言い、よたよたと歩いていく。重たい盥を利かぬ体で持つのはつらかろう、と思うのだがタイラントには手伝うこともできない。 治療の手伝いができないのならば、せめてシェイティの側にいたい。少し、顔色が良くなりはしないだろうか。覗き込んだ彼の顔は、熱のためだろうか、苦しげに歪んで息を細く吐くばかり。 「これで、仕方ないかねぇ」 汲んだばかりの新しい水にメグが布を浸していた。シェイティの首筋にでも置いて熱を冷まそう、と言うつもりだろうか。 ふと心づいてタイラントはメグの手を鉤爪で突く。痛みを与えはしなかったか、と慌てて彼女を見れば、不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。 タイラントは言葉を発しないよう、心がける。信用してもいいのかもしれなかったけれど、さすがに自分が人間だ、と明かす気にはなれない。 盥に首を伸ばし、水を覗く。新鮮ではあるものの、それほど冷たいわけではなかった。ゆっくりと息を吸い、勢いよく吐く。白いものがぱっと水の表面を覆う。冷気の塊を浴びた水は、一息に凍る寸前までいったことだろう。 そしてそっとメグを窺った。驚かれるだろうか。それとも化け物のように扱われるだろうか。メグは喜色を浮かべただけだった。 タイラントはいまだ混乱の中にいて気づかない。メグが少しも自分を忌み嫌ってはいないという事実に。それはすなわち、彼女に呪いが効果を及ぼしていないということだった。 「おやまぁ、あんた。やるねぇ。これでずっと良くなるよ。ありがとさん」 喜ぶメグにタイラントは自分こそ、礼を言いたかった。シェイティを案じてくれる人がいる。きっと、本心からメグは彼を案じてくれている。 シェイティは目覚めたとき、いったいどんな顔をするのだろうか。この他人を少しも信用しようとしない青年は。 |