ちぎれた草をじっと見ていた。まるで自分の心が弾けてしまったような嫌な気分になる。己の手、否、鉤爪を見る。ぎゅっと唇を噛みしめたいのに、歯を食いしばることしかできなかった。 「おいで。行くよ」 するり、シェイティの腕が胴の下にまわった、と思ったときには肩の上に乗せられていた。 「シェイティ……」 「なに?」 「ううん、なんでもない」 気遣いとも言えないような気遣い。間違っても彼を優しいだの心温かいだの言う気にはなれない。先ほどの物取りに見せた非情を思う。 「ぐずぐず考えてるくらいだったら、言えば」 「……君の手は温かいな、と思って。それだけ」 「ふうん」 かすかにシェイティが笑った気がした。指先が伸びてきてはタイラントの目の前に来る。何をするのか、と思う間もない。鼻先を弾かれた。 「痛い!」 「だろうね」 「シェイティ!」 「なに?」 悪戯などと言う可愛いことをしたつもりはないらしい。ただ、悲鳴を聞きたかったとばかり。不意にタイラントの喉から笑いがあふれ出す。 「あなた、馬鹿? 頭おかしくなったんじゃないの」 「かもね!」 肩の上でタイラントは器用に笑い転げる。いい気分だった。 自分が今おかれている状況がわかった。それだけでずいぶん気持ちの持ちようが違うものだとタイラントは思う。何よりシェイティがいた。 「それで、私はいったいどうしたら人間に戻れるわけ?」 「あなたに魔法をかけた魔術師を探すのが一番早いね」 「探して……」 「本人に解かせるんだよ、そのくらいのこともわからないの」 再び鼻を弾かれた。人間でいるときよりずっと痛いような気がする。慌てて前脚をあてれば、己の鉤爪が痛かった。 「馬鹿じゃないの、ほんと」 つい、と鼻を撫でられた。口振りより手のほうがずっと優しい。タイラントはこっそり溜息をつく。魔術師はみな、こうなのだろうか。極悪非道なくせ、どこかほんの少しだけ優しい。つい、それにほだされる。 騙されているのかもしれない、と今更ながらタイラントは思った。シェイティになら、騙されてもいいと思った。だからやはり、騙されているのだろう、と思う。 「本人が解けるなら、ね」 物思いに耽るタイラントの耳に届いたのはシェイティのそんな思わせぶりな言葉だった。 「どういうことさ!」 「そのまんま。解けるのかな? うーん、あれかな……、だとすれば。一緒、か……」 「あのさー、私にわかるように言ってくれないー?」 「理解させる気はないから」 そんなことをきっぱりと言って欲しくない。今度はあからさまに溜息をついた。ぽっと白い息がシェイティの肩の辺りに漂うのを見て、タイラントは自分で思っているより苛立っているのだと知った。 「僕はあなたに言いたくないことがいくらでもあるし、言ってもいいけどあなたがわからないことはもっとある。わからないんだったら、あなたにできるのは僕を信用するかどうかじゃないの」 「それを君が言う?」 決して他人を信用しないシェイティから聞くとは思ってもいなかった言葉だった。タイラントは茶化してしまったのを少しだけ後悔する。 「僕はあなたじゃないから」 シェイティの声は逆の意味に聞こえた。タイラントはシェイティではないのだから、人間を信用することができるはずだ、と。 無性に、悲しくなった。信じよう、と心に決める。何があってもシェイティを信じると決心する。彼が自分自身を信じない分まで、信じようと。 「私は君を信じるよ」 「だったら黙ってついてきなよ、間抜けドラゴン」 淡々と言われた言葉。タイラントには感情を抑えた声に聞こえた。気のせいかもしれないな、と心のどこか冷めた部分が思う。それでも彼を信じると決めた。 「わかった。次は、どこ?」 シェイティは一度だけ目を閉じた。呼吸を一つ。ありえないものを見たくない。それには目を閉ざしてしまえばいい。けれど、肩にある温もりまでは無視できなかった。 「王都から見て、さっきの町の隣にあるのはどこ?」 「隣ってどっちの隣さ」 「シャルマーク側じゃないほうの隣」 つまりシェイティは東に行きたいらしい。ラクルーサ側にはこれ以上町はないのだから、それはそれでいいのだがタイラントには彼が何を意図しているのかがわからない。 「シャルマークのほう、北へは行かないの」 「あのね、いまのところわかってるのは例の魔術師と見られるドラゴンがシャルマークのほうに飛んで行ったってことだけでしょ」 「だったらそっちに行ったら……」 「行ってどうするのさ? 闇雲に探すわけ? 馬鹿馬鹿しい。せめてもうちょっと正確な方向が知りたいの、わかる、手乗りドラゴンちゃん?」 「手乗りって言うな! わかったよ」 「いい子だね」 「うるさいなー。て言うかさ、君が小さくしたんだろ、だったら戻せるんじゃないのかよ、それは」 「戻せるけど? でかい図体さらして町の人を脅しまくって情報が手に入るとでも?」 シェイティの肩の上、タイラントは唸る。彼の言葉に全面的に屈服したわけではなかった。シェイティだとて、脅して情報を入手していることに変わりはないではないか、と思ったのだ。それを口にしないだけの分別があったことを、タイラントは喜んでいた。 「賢明だね」 くっと笑ったシェイティにタイラントは思わず弛緩していた首をもたげて彼の顔を覗き込む。 「念のために言っておくと、別に心を読んだりはしてないから」 「そんなことができるの!」 「やろうと思えばね。あなたは比較的魔法に近い存在だし」 「どういうことさ」 「魔術師同士だと、けっこう楽にできるんだ。便利だよ、ある意味では厄介だけど」 「それって……」 多少、嫌な予感が伴うシェイティの声音だった。するりと手が伸びてきたかと思えば、胸の中に抱きかかえられた。まるで猫でも抱いているようだった。 「口で言わなくても意思が伝えられるから、便利ではあるんだ。ただ、嘘がつけないのが厄介だね」 目の前でシェイティが笑っていた。細められた目が笑みと裏腹に険悪だ。背筋がぞくりとするものの、タイラントはその目から視線を外せない。 「やってみたいなんて、思わないほうがいいよ?」 「も、もちろん! そんなこと、全然! 微塵も! これっぽっちも考えてなかったよ! ははは、いやだな、シェイティ……ッ」 「ねぇ、あなた、それでも吟遊詩人? ほんとに言葉が嘘っぽい。それで王宮に出入りしてたって言うなら、ミルテシアも堕ちたもんだね」 「嘘をつくのが仕事です、はい」 「ばれたら嘘って言わないの」 真面目な顔をして言ったタイラントをシェイティは笑う。今度は凍りつかんばかりの怖い笑顔ではなかった。そっと肩に戻されたとき、タイラントは知らず詰めていた息をつく。 「それで、どっちなのさ」 焦れるシェイティにタイラントは無精たらしく尻尾で指図した。こんなときでもない限り、彼に指示などできない。なんとなくそれが嬉しい。 彼の肩から見るミルテシアは、いつになく美しく見えた。天高く晴れ上がった空、風の渡る草原。萌えいずる草は苦いばかりだったけれど、目に映る景色は快い。 「ドラゴンになってからさ、色がなんだか鮮やかに見える」 「そうなんだ?」 不思議そうな、それでいて好奇心の強い声にタイラントはほくそ笑む。彼でも人の話を聞きたがるものなのだな、と思えば嬉しいではないか。 「色、かな? 色と言うより、世界がとても鮮やか。匂いもそうだな。気がつかなかったけど。シェイティ、君からは――氷の匂いがするよ」 「だろうね」 曖昧に言った言葉になぜかシェイティはすっとうなずいた。彼にとっては、これ以上なく納得の行く言葉だったらしい。 「世界がとても綺麗だ」 タイラントは自分の言葉で改めて気づいたよう、首を伸ばして遠くを見つめた。まるでたったいま、自分とシェイティのために世界が生まれたような心地すらする。 「見方によっては、世界はとても美しい、と僕の知り合いは言うけどね」 「そうなの?」 「僕にとって世界は……醜悪だ」 ためらうよう口にされたもの。タイラントはシェイティの顔を窺いはしなかった。きっと彼はいまの自分の顔を見られたいとは思っていないはずだから。 「醜いものばかりじゃない、と私は思うけどね」 「僕が見てきたのは、醜いものばかりだった」 「その知り合いって人も?」 聞いてはいけないだろうな、と思いつつタイラントは言う。シェイティが知り合い、と口にしたのはたぶんこれで二度目だ。 これだけはっきりと他人を信じない、と言っているわりに、その人だけは心に刻んでいる気がする。だから、尋ねてみたくなったのかもしれない。 「……彼は、例外。かな。昔はわからなかったけど、いまならわかる。なんの打算もなく可愛がってくれたし、無条件で信じてくれた」 歩きながらシェイティは淡々と口にしているだけだった。声音に感情が忍び込まない。顔色同様、それ以上に彼の心が窺えない声になっていた。 「そんな彼を僕は裏切ったよ」 「シェイティ……」 「それでも許してくれた。また迎えてくれた」 「信じてるんだね、その人のこと」 「僕が信じてるんじゃない。彼が僕を信じてくれてる。それを、信じられるかもしれないってだけ」 シェイティをここまで頑なにしてしまったのは、なんだったのだろうとタイラントは思う。あるいは自分も、魔法を習って長生きをして、ずっとこの世界を見ていたら彼のようになるのだろうか。 邪眼の持ち主。ただ目の色が違うだけ。それだけのことで人は何も悪さをしていない自分を石もて追い払う。 あるいは、シェイティもまた自分のような思いを繰り返してきたのだろうか。ただの人間の青年に見えるシェイティにして。 |