誰一人いなくなった路地にシェイティは立ち尽くす。足元に転がるのは、呻き声を上げる物取りばかり。それを見やっては薄く唇に浮かべた笑みに、タイラントは魅了されそうになった。
「ねぇ」
 びくり、とタイラントは体を震わせた。返事をしようにも、喉から声が出てこない。
 だがシェイティが話しかけたのは彼ではなかった。路地の隅、へたり込んだ老婆が一人。逃げようにも腰が抜けているのだろう。顔にはありありと恐怖を浮かべている。
「あなた、行商?」
 首をかしげてシェイティが言う。その目に殺戮の色はない。だが老婆には信じられないだろう。がくがくと首をうなずかせていた。
「食べ物、扱ってる?」
「も、持ってる――」
「チーズとパン、干し肉があれば嬉しいんだけどな」
 穏やかに言うシェイティ。老婆は一も二もなく取り散らかした荷物からそれらを取り出し、放り出しかけては慌ててシェイティに捧げるよう、差し出した。
「ありがと」
 受け取ったシェイティに、タイラントは穏やかさが確かに戻っているのを感じる。たったいま、数人の男を切り飛ばした人間とは思えなかった。背筋が寒くなる。同じほどに腹の中が熱くなる。
「お礼だよ」
 ぴん、とシェイティの指が硬貨を弾く。代価より、ずいぶんと多いようだとタイラントは見て取った。
「こんな――」
「迷惑料ってとこだね」
 肩をすくめ、シェイティは背を向けた。タイラントはどこかそんな彼の態度が嬉しい。無駄に凶暴なだけではない彼の姿を知って。
「邪魔」
 転がる男どもを足蹴にし、シェイティは路地から歩き出した。少しだけ、無駄に凶暴かもしれない、とタイラントは溜息をつきたくなる。
「なぁ」
「なに」
「殺しちゃったの」
「あれ? 殺すわけないじゃん。痛い目にはあわせたけど、それだけ」
 タイラントがそう問いかけたのは、町の中を抜け出してからのことだった。あっという間に噂が駆け巡ったのか、シェイティの前をふさぐものは誰もいない。
 王都に近い町と言うこともあって、衛兵が配置されていることも考え、シェイティは足早に町をあとにしていた。
「よかった……」
 タイラントは彼の肩でほっと息をつく。人が殺されるのを見るのは好きではない。たいていの人間がそうであるとは、思うが。
 そしてそう思うことができる分、自分は人間だと思うのだ。竜ではなく、人間だ、と。
「殺しちゃったら、面倒じゃない」
「はいー?」
 優しさからしたことだと、うっかり思ってしまったタイラントは悲鳴じみた声を上げる。思わず乗り出して彼の顔を覗いていた。
「衛兵にとっ捕まってる暇はないし。面倒だし」
「シェイティ……」
「なに?」
「なんでもないよ……」
 あからさまな溜息をつく。ぐったりと肩に顎を乗せ、タイラントは恨めしげな眼で彼を見つめた。
「僕に慈悲を求めるのは無駄だよ」
 くっと笑ってシェイティの指が伸びてきた。柔らかい指先が、頭を突いてから撫でていった。タイラントは目を閉じる。この指は、こんなに優しいのに、と。
 シェイティは、そんなタイラントの息遣いを聞いていた。ゆっくりと呼吸を一つ。ごろつきに襲われたのも、悪くはなかった、と思う。
 人の命などどうとも思っていない。と、までは言わない。ただ、自分に敵対する相手に対して慈悲を見せる気もない。
 なにはともあれ、タイラントが多少は正気に返ったのが我ながら訝しいほど嬉しかった。それと共に湧き上がってくる不安。タイラントが人間に戻ってしまったら、と。ぐっと唇を噛んでこらえた。
「シェイティ、聞いていい?」
 草原の国・ミルテシアの名は伊達ではなかった。町からさほど離れていないというのにあたりは風になびく草が和やかに美しい。
「聞くだけ聞けば。答えるかは知らない」
「わかってるよ!」
「だったら最初から聞かなきゃいいのに……」
 肩をすくめた拍子、タイラントは体の平衡を崩しそうになる。それを見越していたよう、シェイティの手が体を支えた。タイラントの目に喜びが浮かび上がる。
「それで?」
 何も言いはしなかったのに、シェイティは苛立ったらしい。タイラントはシェイティのよう、肩をすくめることもできず、その代わりとばかり歯を噛み鳴らした。
「私にかかってる魔法、呪いだっけ? 未熟って言ってたよね」
「ちゃんと聞いてた? 魔法そのものは強力。さすがカロリナって言いたいくらいね。扱い方が、未熟なの、わかった?」
「それでわかるんなら私は吟遊詩人じゃないと思うけどなー」
「まったくだね」
 言ってわかるなど、はじめから思っていない。シェイティは彼にしては朗らかな笑い声を上げる。するりと彼の頬を風が撫でていった。
 不意にタイラントはその風の流れが自分の目に見えるような気がして、慌てて目を瞬く。
「気のせいかな?」
「なにが?」
「風が、見えた気がして」
 戸惑ったタイラントの声。シェイティは息が詰まりそうになる。まだ、心が決まらない。だからシェイティはそっけなく肩をすくめただけだった。
「まぁ、いっか。それで、未熟ってどういうことさ?」
 シェイティが答えないことに気づいたのだろうタイラントは、あっさりと話を戻した。気のせいよりも、いまはとにかく魔法のことが気にかかるのだろう。
「あなたにかかってるギアスは、物凄く強力なの。もしもちゃんとかかってたら、たぶんあなたは生きていない」
 淡々と言われただけに、タイラントはぞっとする。紛れもない真実だと、わかってしまった。
「さすがカロリナのギアスなんだけど、変だね」
「ちょっと待った! シェイティ、カロリナを知ってるの!?」
「知ってるよ」
「そんな!」
「だからなに? 知ってるって言ったじゃんか」
「そんな直接知ってるような風には、聞こえなかったのに」
 悔しそうに言うタイラントは、今になって疑いだしたのだろうか。シェイティは答えることもなくただ足を進めていた。
「それでも、私は君を信じる」
 呟かれた言葉。シェイティは聞かなかったふりをした。
「シェイティ、信じるからね」
「それは、あなたの勝手。僕は信じろとは言ってない」
「……ごめん。信じてる。ずっと信じてる。今までも、これからも」
「――そういう吟遊詩人らしい言葉は、僕じゃない誰かに言うんだね」
 シェイティの声音がかすかに乱れた。タイラントでなかったならば、この短時間で気づくことはなかっただろう。だがタイラントは吟遊詩人の耳を持っていた。
「私は君に言うよ」
 そっと囁けば、途端に腕が伸びてくる。咄嗟に飛び上がることもできず捕まったタイラントはいつものように首を絞められた。
「そういうの、すごく嫌い」
 むっつりと言っているくせ、唇を尖らせてなどいるものだから妙に幼い顔になっている。本人は気づいているのだろうか、とタイラントは朦朧とする意識の中で思った。
「シェイティ……変ってなにが……?」
「あなた、見上げた根性だね」
 呆れ声のシェイティだった。タイラントはぼんやり彼を見上げる。いつの間にか口許に水袋をあてがわれていた。
「飲みなよ」
 さも鬱陶しそうに言い、シェイティは顔をそむける。どうやら少しは認めてもらえたらしい。ほっと心の中が温かくなるのをタイラントは訝しく思っていた。
「カロリナの技量があればね、あなたはとっくに死んでる。こんな半端なギアスなんかかけるような魔術師じゃないよ」
「それって……」
「物凄くえげつないこと平気でするから」
 このシェイティが言うのだ、と思えばタイラントは身を震わせるよりない。シェイティがえげつない、と言うからにはよほどのことなのだろう、と想像してしまったら吐き気がした。
「だから……うん、やっぱりそうだね……」
「シェイティ?」
「なんでもない」
「気になるじゃんか!」
「好きなだけ気にすれば?」
 言い方で、シェイティに話す気がないことがわかってしまった。彼自身、口にしてしまったことを後悔しているのだろう。見上げれば、悔しそうに唇を噛んでいた。
「鬱陶しい」
 言い様、放り投げられた。悲鳴を上げる隙もない。落ちる、と思ったときにはなぜかそこにシェイティの肩があった。慌てて掴まれば、叩かれる。鉤爪が食い込んだのだろう。大急ぎで力を抜いた。
「君になら、解ける? いつか、でいい。すぐなんて無理は言わない」
「気長にやれば、無理じゃないかもしれないけど。でもうっかりしたらあなた、廃人だよ?」
「そんな……」
「ねぇ、わかる?」
 立ち止まったシェイティが道の端に生えた草を示した。タイラントが見るや、彼はそちらへと足を進め草地に腰を下ろした。
 そしてシェイティの指はタイラントが見る限りむちゃくちゃだとしか思えなりやり方で草を幾重にも結び合わせていく。
「これが、いまのあなた」
 そう、結び合わされた草を指差した。タイラントはわけもわからずそれを見る。
「あなたの中の魔法は、こんな風になっちゃってるの。これ、解こうとしたらどうなる? やってみなよ、慎重にね」
 肩から飛び降り、タイラントは草を見つめる。そっと鉤爪に一本引っ掛けた。途端に、音がする。草が弾け切れた音だった。




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