タイラントは驚きに包まれていた。人間だったならば、とっくに顎の一つや二つ、落ちていたことだろうと思う。 「ありがとう」 にこやかなシェイティがいる。どこから見てもただの好青年だ。ちょっとしたことで竜を絞め殺そうとする人間にはとても見えない。 「シェイティ」 小声で彼の耳許に囁く。途端にそれまでの笑顔は夢か幻かとでも言うような速さで彼の表情が険悪になる。 「黙れ」 やはり、小声で答えた。タイラントは身をすくませ、いっそう強く彼の首に尻尾を巻きつかせる。 「あら、可愛いわね」 船で一緒になった若い女がにこりとする。シェイティも同じよう、笑い返していた。 「ちょっと変わってるわね、なに、それは。危なくないの? シャルマークの?」 シャルマーク産か、と訪ねたときだけ女の顔に怯えがよぎる。タイラントはできるだけ無害な顔をしようとし、思いつかなくてそのままでいた。 「違いますよ、ただの火蜥蜴。変種なのかな? ほら、ちょっと体の色が違うから、群れでいじめられてたみたいで。餌やったらついてきちゃったんです」 「優しいのね、あなた」 「そんなことないですよ、でも……なんだか可愛くて」 言ってシェイティは再び笑顔を見せた。タイラントは肩から乗り出して彼の顔を窺う。言っていることは、あらかた間違ってはいない。確かに「人間社会と言う群れ」でいじめられていたし、食事をもらって懐いてもしまった。だが、それにしても。 否、そうではない。彼の解釈などこの際どうでもいい。彼の態度こそが、驚きだった。このようなごく普通の人間が示すであろう、態度も取れるのではないか。タイラントの尾がきゅっとシェイティの首を締め付けた。 「苦しいよ」 そう言ってはそっと指で尻尾をはがしにかかる。その仕種も可愛がっている動物に対するそれ。 「ほんと、可愛いわ。ねぇ、なに食べるの?」 タイラントの見るところ、女が食欲をそそられているのはシェイティらしい。「火蜥蜴」に対しては怯えも不快さも隠していなかった。それをシェイティは気づいているのかどうか。 気づいているのだろうな、と思う。いまのシェイティならばともかく、彼はあの、彼である。笑顔の裏側で何を考えているかわかったものではない。 「干し肉とか、けっこう僕とおんなじ物食べますよ」 「だから、よけい可愛い?」 「えぇ」 にこりとするシェイティに、女が身を乗り出してきた。不思議そうに首を傾げるシェイティを、女はうっとりと見つめる。 つられたふりをして、タイラントもシェイティを見つめた。ふっと彼の視線が動いて、タイラントを抱きかかえる。 「どうした? お腹すいちゃったかい? 待ってて、いま……」 「これ、あげてもいいかしら」 「ありがとう、おばさん」 ぐっと喉に詰まったような声を上げ、女の顔が引きつった。と、見る間もなく平静に戻って笑みが浮かぶ。 「はい、これね」 そう、干し肉を渡して立ち去り際に手を振っていったところなど、たいしたものだとタイラントは思う。 「あぁ、鬱陶しい……」 呟いたシェイティが、今までになく非道に見えた。その視線を感じたのだろうか、人目につかないよう船端に寄りかかって川を眺めるふりをする。大河の真ん中を航行する船からは遠く、ミルテシアが見えた。 大河に橋はなかった。あまりにも広すぎる川は、人間の技術で橋をかけることができない。かつて神人がいました黄金時代のアルハイド大陸には橋があった、と言うが、伝説の類だろう、とタイラントは思う。 だから、向こう岸に渡るのも、川を下るのも舟だった。川を挟んだ両国それぞれの思惑のため、渡し場は多くはない。 その渡し場が、川を上り下りする船の発着場でもあった。面倒なことではあるけれど、長距離を移動するには船を使うのが一番、速かった。 川風が、シェイティの髪をなぶっている。ゆるゆると遠くを見るシェイティの眉間には皺がよっていた。 「なにが鬱陶しいって?」 小さな声で問えば、ちらりとも視線を動かさずシェイティは言う。 「あのおばさん」 「おばさんって! 君より年下だろ」 「まぁね」 若い青年に見えるシェイティだが、実際は壮年とでも言えるらしい。タイラントに実感はない。人間、壮年ともなればそれなりに落ち着きも出てくるもの。こんな壮年がこの世にいるものか、とも思う。 「女に付きまとわれるの、鬱陶しい」 「ちなみに男だと?」 「男?」 問うた瞬間、タイラントは失敗を悟る。衝撃に供えて身を硬くすれば、シェイティはその態度がおかしかったのかふっと笑う。 「殺すよ?」 戯れのよう、きゅっと喉を掴まれた。だからタイラントにはわからない。それが問いへの答えだったのか、それとも問いそのものの愚かしさに対してだったのか。 「苦しいってば!」 小声で文句を言いかければ、シェイティの手がさも大事そうに背を撫でる。ちらりと横目で窺うと人気があった。 「ほら、食べるかい? おいしいよ、さっきのおばさんがくれた干し肉」 だめ押しをしたところをみれば、どうやら人気は先ほどの女らしい。タイラントは含み笑いを漏らさぬよう、細心の注意を払って変種の火蜥蜴らしく干し肉に食らいつく。 「可愛いよ、手乗りドラゴンちゃん」 頬ずりしながら言われた言葉は、紛れもないからかいのそれ。タイラントは溜息代わり、効果の薄い白い吐息を吐く。 「可愛いね」 言いつつまた喉を絞めてきた。干し肉を吐きそうになる。いっそ彼の手の中に戻してやろうか、とも思うがじろりと睨むにとどめた。 「賢いね」 くっと笑ったから、どうやら機嫌は直ったらしい。あるいは女がいなくなっただけのことかもしれない。船は盛況とは言えなかった。人影はまばらで、船員の姿だけが目につく。首をかしげてシェイティを見上げた。 「いいよ」 あたりに人影がないのを確かめたシェイティがうなずく。船に乗ったら喋るな、と言っていたわりに相手をしてくれるあたりが、実は優しいところではないか、とタイラントは心の中でだけ、にんまりとする。 「君は魔術師で、老化が遅いって言ったよね。それから、私の歌が魔法だとも」 「言ったよ。だから?」 「だったら、どうして私は普通に年を取るんだろう」 質問した途端、跳ね上がったシェイティの眉をタイラントは見なかったことにしたかった。どうやら尋ねてはいけないことを聞いてしまったらしい。 「言ってわかるわけはないけど。魔法はある種の力を効率よく使う方法なの。だから、魔力によって起きる現象と、魔法とは別のもの。わかる?」 「歌と楽器……いや、声と歌、楽器と音楽と言ったほうがいいのかな。そんなもんかい?」 「うん、そのたとえは悪くない。賢いね」 はじめて褒められた気がした。思いのほか、嬉しい。ぱっと喜色を浮かべたタイラントの頭をシェイティが指一本で撫でていた。 「だから、あなたは生の魔力を扱ってるようなもの。まだ練りあがっていないから、純粋に魔法とは言えない。ただの力だね。だからだと思うよ」 「そっか」 「とは言ってみたけど、僕にも正直に言えばわからないの」 せっかく納得したものを覆されたタイラントはつい、飛び上がってしまう。ぎょっとした声が上がったところを見れば船員だろう。怒鳴り声がした。 「すみません、大丈夫でしたか。驚かせちゃってごめんなさい」 謝るシェイティを見てタイラントはうなだれる。彼にこんなことをさせたくはない。それらしく見えるけれど、あまりにも似合わない。 「ごめん」 彼の肩に戻って囁けば、きつく背を叩かれた。シェイティの苛立ちそのもののような手だった。 「謝らないで、鬱陶しいから」 けれど彼が口にしたのはそんな言葉。タイラントはそっと彼の首にまとわりつく。頬に頭をこすりつければ上がる声。どうやらくすぐったかったらしい。 「やめて」 言った声も笑っていた。船員からも、乗りあった客からも笑い声が漏れる。遠目には動物と青年がじゃれあっているよう、見えたのだろう。 「シェイティ」 静かに羽ばたき、浮き上がる。シェイティの視線を誘導するよう、川面に出てから肩に戻る。背を向けてしまった客たちからは、いまだ笑い声が聞こえている。退屈な船旅に、余興を提供してしまった、と言うところか。 「あんまり目立たないで」 「うん」 「火蜥蜴に見えないと、困るのあなただよ」 「どうしてさ」 「ちっちゃい手乗りドラゴンに見えたら、あなた捕まって売り飛ばされるよ」 「大丈夫。きっと君が助けてくれるさ」 「冗談。誰が? 助ける? どうして僕がわざわざ?」 「酷いな」 くすり、タイラントが笑う。シェイティの言葉はとても本気には聞こえなかった。何かがあれば、助けてもらえる気がしている。だからと言って頼りきりになるつもりは毛頭ない。 「それがいいね。ほんとに助けないから」 心の中を見透かしたようなことを言い、シェイティは目を細めた。どうやら、機嫌がいいらしいとタイラントは見る。 表情の窺いにくいシェイティながら、少しはわかってきたような気がする。それもまた、いつかきっと覆されるのだろう。それはそれで、いまからどきどきとするくらい、楽しみだった。 「なに考えてるの」 話しかけるな、と言った本人からの問いと言うのは、面白いものだとタイラントの顔に書いてでもあったのだろうか。何を言うより先にシェイティに小突かれた。さすがに人目を集めている今は首を絞められることがないのがありがたい。そうにやついてタイラントは答えなかった。 |