ぐったりとしたタイラントが肩に乗っている。半ばは演技ではないのだろうな、とシェイティは思う。それでも自分が酷いことをしているとは思わなかった。
 もしもタイラントが敵対するならば、早いほうがいい。竜の体を小さくしたのも、度重なる暴挙も、だからシェイティにとっては理に適った行動だった。
 ちらりと竜を見る。まだ伸びていた。シェイティはわずかばかり目を細める。決して竜の姿に惑わされたわけではない。だが、現時点では、タイラントに敵対する気はないらしいことだけは、認めてもいいかもしれない、と思う。
「シェイティ。次、左」
 ほんの少し、尻尾が上がって道を指す。その態度でタイラントが見せたがっているよりずっと回復していることをシェイティは知る。
 そもそも、シェイティは本気で攻撃などしていない。もしも彼が敵ならば、さっさと決着をつけるきっかけになる程度の攻撃しか。
 本気で戦うつもりならば、手など誰が使うものか、と魔術師のシェイティは思う。それだけ、ただ戯れているのだとも言えた。
「そろそろ、見えるんじゃないかな」
「川?」
「国境大河を目指してたと思うけどなー?」
 嫌味たらしく言うタイラントに指を伸ばせば、逸早く逃げられた。舌打ちを一つ。やはり、元気になっているではないか、と。
「ねぇ」
「なに? 捕まえないよね」
「とりあえずはね」
 言えば楽しげにタイラントは飛び戻る。羽ばたきが涼やかだった。シェイティは深い溜息をつく。肩に戻る寸前、素早く腕を動かしては竜を捕まえた。
「シェイティ!」
「ねぇ、あなた馬鹿なの。どうしてそうやってすぐ信じるの」
「そのほうが楽しいからッ!」
 自棄のよう怒鳴るタイラントをシェイティは笑う。嫌な笑いではなかった。むしろ心地良い声だな、とタイラントは聞く。思ったとおり、手もすぐ離してくれた。
「用心して」
「心配、私のこと? シェイティってば――」
「僕の手間が増えるでしょ。手間が増えたら、見捨てるから」
「酷い!」
 耳許で聞こえる華やかな笑い声。ふとシェイティは思う。これはタイラント本来の声なのだろうか、と。竜の体に変わってしまって、彼の声もまた変化をしているのだろうか。
「ねぇ、その声」
「うん?」
「変わったの」
「人間のときと? さぁなぁ。自分ではたいして変わってない、と思ってるけど。ほんとはどうかわかんないよ」
 かすかに滲んだ寂寥。彼が嘘を言っているのがわかってしまってシェイティは聞くのではなかった、と思う。振り切るよう、首を振った。
「どっちでもいいけど。船に乗ったら喋らないでよ」
「え。どういうこと?」
「……間抜けドラゴンめ」
「間抜けって――」
「あなた、馬鹿? 手乗りドラゴンが喋ってる世界がどこにあるわけ? ほかの人間に奇異な目で見られたいの。あぁ、見世物小屋にでも売り飛ばせばけっこうな稼ぎになるかも。どう、稼いでみる?」
「寝言は寝て言え!」
「起きてるよ。僕は、しっかりとね。あなたこそ、ちゃんと目を覚ましたら。それで、どうなの。あなたの知ってる世の中は、ドラゴンが喋るわけ?」
「……喋んないさ」
「だったら黙ってろって言ってる意味、わかるでしょ」
「わかるけど……」
 言いさして口をつぐんだタイラントをシェイティは横目で捉える。悄然とうなだれていた。思わず浮かびそうになる微笑をこらえて唇を噛む。
「つまらないから嫌だなんて、言わないよね。もちろん?」
「も、もちろん! 当然じゃないか。嫌だな、シェイティ」
「声、上ずってるけど?」
 ぱたぱたと照れたよう、尻尾を振る。これで生まれは人間だというのだからわからないものだ、と思う。もっとも、いかにシェイティとは言え、野生の竜が照れたところなど見たことはないのだからなんとも言いがたい。
「あ……」
 タイラントの示す道に従い、丘を超えた。そのときだった、シェイティが足を止めたのは。陽射しが注ぐ大河が見えていた。
「綺麗だねー」
 シェイティの肩から身を乗り出すよう、タイラントが川を見ている。彼を見やれば、眼をきらきらと輝かせていた。
「見慣れてるんじゃ、ないの」
「そうでもないよ」
「吟遊詩人だって言ったくせに」
「ここから見るのは特別綺麗なんだもん」
 何度見ても新鮮に美しいと思えるものがこの世にはある。タイラントはそう言いたいらしい。拙い言葉遣いでよくぞ吟遊詩人などしていられるもの、とシェイティは思う。反面、このような感じ方をするからこその詩人だとも言えた。
「渡し場から、船に乗るんだ?」
「人の話し聞いてたの。王都に――」
「近くの町に行くのはわかってるってば! 船に乗るんだな、と思っただけ!」
「なに、あなた。僕に歩いていけとでも?」
 肩からつまみ上げ、シェイティは真正面でタイラントを見つめる。そっと微笑めば、手の中で竜が震えた。
「怯えるくらいなら、抵抗しない」
「抵抗もなにもさー」
「なに?」
 さらに掲げて今度は睨む。首根っこをつままれたタイラントは、まるで生まれたての子猫のようだ。尻尾を後ろ足の間にかい込んで、頼りなく揺れている。
「まだ、抵抗してないし。ちょっと聞いただけじゃんか」
「だったら馬鹿なことを聞かないで。癇に障るの。質問は考えてからして」
「考えてからならいいのかよ?」
「別に喋るな、とは言っていないけど? いまはね。でも、質問てその人の知性が出るし。あなたには無理じゃない?」
 くっと笑ってシェイティの手が肩へと戻してくれた。甚だしく酷いことを言われた気がするタイラントだったけれど、どこかでシェイティの気分のよさを感じている。
 だから、不快にはならなかった。自分から緩く彼の首に尻尾を巻きつけ、肩に憩う。不意に気づいた。シェイティがここまで無防備にしていることに。
 あれほど信じない、と言うシェイティが、自分に平気で急所を預けている。タイラントはぞっとする。それは信頼を示すものではなかった。
 タイラントにもわかる。首を押さえられようともすぐに反撃できるからこそ、そうしている。その余裕。
 体中に震えが走る。敵にしたくない、そう思うべきだっただろう。だがそれよりもタイラントを貫いていたものは、喜びだった。
「どうかしたの」
「ううん……君と知り合えてよかったな、と思って」
「また――」
「ほざかない! 一度言われたことくらいは守る! 守れると思う……、から怒るなってば!」
「まだ怒ってないよ」
 かすかな柔らかさを覗かせてシェイティは言った。ほっと息をつき、彼の目を窺う。声の通り、和んでいた。
「人の顔色を窺うのって、失礼じゃない?」
「怒ってないかなってさ」
「僕が怒ろうが、あなたは言いたいことを言えばいいじゃない」
「だって」
「あぁ、そうか。協力ね」
 そうではないのだ、とタイラントは言いたい。けれどならばどう違うのか、と問われても答えようがないことに気づく。
 自分の語彙がここまで少ないとは思ってもみなかった。一流を自任し、人からも賞賛を浴びてきたこのタイラントともあろう者が。
「……とりあえず、今現在は僕の用事にも適ってるし、同行するのに吝かではないけど?」
「人探しって言ってたじゃん」
「ま、他にも色々と、ね」
「話す気はないってこと?」
「当たり前じゃない」
「ちぇ。意地悪」
 言ったのは、隙だった。言う気がないのか言えないのかは知らない。シェイティの態度がわずかに濁る。それをタイラントは感じ取る。だから、隙を見せた。
 案の定、伸びてくる手。締め付けてくる指。遠くなるはずの意識。タイラントには燦然と輝く大河がはっきりと見えていた。それでも喉は律儀に悲鳴を上げ続けている。
「うるさいなぁ、もう」
「君がやったんじゃないか!」
 怒鳴り返せば、さすがに咳きは出た。その拍子に落ちそうになる体を、シェイティの手がとどめる。礼は言わなかった。シェイティも、なかったことにしたいらしい。
「シェイティ、質問」
 体勢を立て直し、再び彼の首に尻尾を巻く。手を挙げる代わり、尻尾の先をぴんと立てて見せれば、シェイティがかすかな笑い声を立てた。話を変えようとするタイラントの努力を喜ぶよう、ちらりと見えた目は穏やかだった。
「馬鹿じゃなかったら答えてあげる」
「気をつけるってば。船の中で私はどうすればいいわけ? 喋らないだけでいいの。ドラゴンだってばれちゃわないかな?」
「魔術師が乗ってない限りは平気。こんな小さなドラゴンなんていないし」
「姿隠すわけには、いかない?」
「面倒だからいや。それに僕が楽しくない。せっかく手乗りドラゴン、可愛いのに」
「シェイティ!」
「ねぇ、無報酬で魔術師の手を借りられるんだよ? 僕の楽しみくらい、奪わないで」
 となると、シェイティが体を縮めたのは、言うなれば彼の道楽だったわけか、と今更ながら溜息のひとつくらいつきたくなってくるタイラントだった。
「私は、ペット?」
 精一杯の情けない声で問いかける。人間だったときには、この手でどんな相手でも落ちたもの。
「ペットより下じゃない? 可愛がってたら、いくら僕だって見捨てないもん」
 あっさり言い放つシェイティにタイラントは肩を落とす。早く、人間に戻りたかった。竜の体になってからと言うもの、思い通りにならないことが多すぎる。溜息をつくタイラントを、シェイティが密やかに笑っていた。




モドル   ススム   トップへ