少しばかり自分はおかしいのではないか、とタイラントは我と我が心を疑っていた。これほどのことをされても嫌な気分にならないなど。 「続けるよ?」 言ったシェイティの指が、するりと背を撫でるのをタイラントは感じた。はっとする。彼の指先の感覚。撫でるときも首を絞めるときも変わらない。 もしもタイラントが武術を修めていたならばこう言うだろう。シェイティには殺意がない、と。 シェイティの態度はただの戯れとは思いがたかったけれど、どことなくタイラントは感じるのだ、彼はいまだ本気で自分を殺そうとはしていないことを。 それが少し、悲しい。殺されないことがでは無論ない。シェイティが示す態度そのものが、哀しい。彼は人との関わり方にあまりにも無知だ。彼にとって他人とは敵か味方かでしかないのかもしれない。 「聞いてるの」 きゅっと翼をつままれた。痛さに悲鳴も上がらずタイラントは飛び上がる。 「あぁ、ここは痛いんだ。ごめんね」 淡々と言ったから、詫びているのかわからない。涙目になったタイラントには、しばしの間彼がそっと翼を撫でているのにも気づかなかったほどに。 「ん……平気。ごめん、聞いてなかったんだ」 「知ってるよ」 「そっか」 シェイティが自分の体を持ち上げるのを感じる。すぐ目の前に彼の目があった。わずか、ほんのわずかだったけれど笑みが滲んでいた。 はじめてかもしれない、タイラントは思う。彼のこんな目を見るのは。あるいは、これがシェイティ本来の表情なのかもしれない。 「なんて馬鹿なんだろう……」 呆れて呟く声を聞かなかったふりをした。タイラントはぬくぬくと彼の腕に憩う。途端に放り投げられた。 「シェイティ!」 「いつまで僕に抱かせてるつもり? 怪我、治ってるでしょ。重たい」 「あ。そっか――飛べばいいのか」 「別に飛べとまでは言わないけど。せめて肩にして。腕が疲れる」 シェイティがそっけなく言ったのをタイラントは聞き逃さなかった。本当に表情の窺いにくい人間だと思う。それでもいまのは読めた。シェイティは自分を嫌ってはいない。否、竜の体を嫌ってはいない。 「ありがと、シェイティ」 嬉々として言ってみせ、自分も意外と感情を隠すのが巧いものだとタイラントは心に思う。もっとも、吟遊詩人だ。それくらいは当然だと思い直す。 「シェイティ。なんで王都に行くの」 「……本当に聞いてなかったんだね」 「ごめん」 タイラントはシェイティの肩に体を落ち着け、そのまま尻尾で彼の首を巻く。締め付けるためではなく、ゆるりと甘えるように。シェイティは、嫌がらなかった。いつの間にか歩き出していた彼の肩によじ登って辺りを見回せば快い風。 「だから、王都そのものに行くわけじゃないの。姫をさらった魔術師はドラゴンの姿をしてたわけでしょ。だったら誰かが見てるわけだし。王都の側の町にでも行って聞き込み。そこまでさっき言ったんだけどね」 「う。ごめん」 「しつこい」 「あ、ごめ――」 「謝ると、殺すよ」 「あ――」 「ほら、言えば? いいよ。いつでもどうぞ? 僕はそのほうが手っ取り早くて楽だしね」 シェイティの喉に巻いたタイラントの尻尾が、感じていた。彼が言葉を発するごとに笑いをこらえているのを。 「謝らないもん!」 言えば、それでいいとばかりうなずく気配。それでいてシェイティは微動だにしなかった。 青年の肩に乗って移動するのは、意外と疲れる。それでもタイラントは文句を言うつもりなど微塵もない。シェイティのほうが、たぶんずっと疲れている。 「シェイティ」 彼は足を止めようともしなかった。タイラントの示す方向にだけ、従っている。国境大河は、まだ程遠い。 呼びかけてもまるで答えないくせ、話せと言っているのが感じられて、タイラントは嬉しくなる。少し彼との距離が縮まった気がした。 「さっき言ったよね、ドラゴンを探すって」 「ドラゴンを見た人を探すの。もう忘れたの、間抜けドラゴン」 「間抜けって言うなよ! ……認めるけどさ。でも、なんでだよ?」 言えば深い溜息。それほど馬鹿なことを言ってしまった自覚のないタイラントは身を乗り出すようにしてシェイティの顔を覗き込む。 その拍子に体が揺らいだ。あっと思ったときには肩から滑り落ちかけている。咄嗟に羽ばたいて体勢を立て直す。風にあおられてシェイティの髪が酷く乱れた。 「魔術師、探すんでしょ」 煩わしそうに彼は髪を手櫛で直し、じろりと横目でタイラントを睨む。きょとんと見つめ返されるにいたって、肩を落とした。 「危ないってば!」 また落ちそうになったタイラントは叫んで飛び上がる。今度はそれほど無様に体勢を乱さなかった。 「姫をさらったの、あなたのせいにされたんでしょ。魔術師は飛んで行ったって、あなた言ったでしょ」 「あ、そうか!」 「自分で言ったことの意味もわかってないわけ? 信じられない馬鹿。あなたにわかるように言えばね、その魔術師はドラゴンに変化してるのか、どうかは知らないけど、少なくともドラゴンの姿をしてる。目撃者がいる間は、そのままだったはず。あなたを悪者にしたいんだから。だから、ドラゴンを見た人を探すの、いい?」 噛んで含めるよう言われさすがにタイラントはうなだれた。言われて見れば、どうしてこの程度のことがわからなかったのだろう、と思う。 「仕方ないね」 諦めるよう言われてしまっては、立つ瀬がない。いっそううなだれるタイラントの背に、シェイティの指があった。 「いまは、許してあげる。ドラゴンに変わったりして、混乱してたと思うし。でも次はないから」 「次は……えーと、もしかして」 「どんな死に方がいいか、考えておいたら?」 それが笑顔で言うことか、とタイラントは思った。束の間は。いつの間にかタイラントは大きく笑っていた。 「うん、考えておくよ」 最後にくすりと笑ってそう言えば、シェイティはすでにその話は終わったとばかり足を進めている。聞いていない顔をしているのに、ちゃんと聞いてもらっている気がするのが、タイラントはとても不思議だった。 「どっち?」 草原に敷かれた道の分かれ目でシェイティはそれだけを問う。タイラントは尻尾の先で左の道を示した。 「横着」 その仕種をシェイティが咎める。が、怒られている気はしない。むしろシェイティは喜んだのかもしれない、とタイラントは思う。顔が見えない場所にいるからこそ、感じ取ることができる何かというものが、あるのかもしれない。 「あとどれくらい」 「まだけっこうあるな。でも、シェイティ。一度歩いてるんじゃないの、この道」 「なんで?」 「だって、ラクルーサの国境に向かってるんだよ?」 古く、アルハイド三国と呼ばれた。シャルマークはいまだ荒れ果てて住む者は少ない。大穴が開いていた頃に比べれば、それでも人は戻りつつあるのだが。 シャルマークと残る二国を隔てるのは、険しい山脈だった。ミルテシアとラクルーサを分けるのは、両国の間を流れる大河だった。 だからタイラントは不思議に思うのだ、ラクルーサ人である彼はどこかは特定できなくとも、少なくとも大河を渡ってはいる。そして渡河できる箇所は多くはない。 タイラントは脳裏に地図を思い浮かべる。吟遊詩人は国中を歩くもの。描いた地図がなくとも、思い浮かべるくらいならば易いことだった。 そして自分の想像が間違っていないことを知る。あそこで出会ったのだから、確かにシェイティはこの道を歩いているはず、と。 「僕がどの渡し場を使ったと思ってるわけ」 「だって」 「僕がミルテシアに入ってから、何日目かあなた、知ってるの」 言われてようやく気づく有様だった。昨日今日ならば、タイラントの想像はあっている。だが、もっとずっと前ならば、偶然出くわしただけ、と言うことになる。 「そっか」 肩の上、ちんまりとするタイラントをシェイティは見ないようにしていた。 嘘は、ついていない。だが本当のことは言っていない。シェイティは、確かにこの道を通っている。それも数日前に。 通っているはずだ、と思うのだ。だが言いたくはなかった。自分が致命的に方向音痴だとは、決して。通っているはずの道も、どうにもあやふやで覚えがない。それを悟られるのは絶対に嫌だった。 魔法に頼りきりのせいで現実世界の移動方法に疎いのだ、とシェイティは内心で言い訳をしている。無駄な言い訳だった。一度も行ったことのない場所には、魔法で移動することもできないのだから。 「まぁ、いっか」 肩の上でタイラントが呟く。いったい何事を考えていたのだろう、あるいは目論んでいたのだろう、とシェイティはじろりと睨む。 「シェイティ?」 「さっさと吐けば?」 自分の言い様が、少しシェイティはおかしくなった。思わず漏らした含み笑いにタイラントが怯えたふりをする。 「吐くって! 別に仕返しとか考えてたわけじゃないって!」 「考えてたんだ、ふうん」 「だから、考えてないって言ってるだろ! 君がいつミルテシアに入っても、別にいいかなって。どっちにしても会えたし。運命?」 言うなり、シェイティの目が笑みに細められる。笑っているくせに冷たい。飛んで逃げよう、と思ったときには遅かった。羽ばたいた隙をつくよう、足を掴まれ引き摺り下ろされる。反対の指がきゅっと首を絞めた。 いったい何が癇に障ったのだろう、茶化した口振りか、それとも別の何かか。朦朧とする意識の中、タイラントは惑う。 「運命とかほざかないで。物凄く、知人を思い出して気持ち悪いの」 あたかもタイラントがその知り合いとやらでもあるよう、首を締めていた手を離しては嫌そうにシェイティは振っていた。 |