華やかな悲鳴がミルテシアの草原に響き渡る。シェイティは少しばかりわからなくなって、指先に力を入れた。くるりとタイラントが白目を剥いて泡を吹く。
「ああ……。本当だったんだ」
 首をかしげて腕の中に抱え込めば小さな竜は咳き込んで息を吹き返した。
「シェイティ!」
「――なに」
「なに、じゃないだろ! 死ぬかと思った……」
「あんまり明るい悲鳴だから、本気かと思って」
 にこりと笑みを浮かべたシェイティを見上げた。タイラントにとってはその笑顔のほうが、本気かどうか疑わしい。が、さすがにそれを口にすることはなかった。
「賢明だね」
「な、なにが、かな!? 私、なにも言ってない。ないよ?」
「うるさい。ばれてる」
「はははは――」
「虚ろだし」
 恐る恐る見上げれば、どうやら今度は本当に笑ったらしい。シェイティの目許が和んでいる。タイラントはゆっくり息を吸い、吐く。喉が痛かったが、悪い気分ではなかった。
「なに?」
「別に。なんでもないよ」
「そう?」
 あからさまに疑われたが、本心を言う気にはタイラントはなれない。言えば、確実にまた喉を絞められる。
 別段、酷い目に会わされることを楽しんでいるわけではない。そこまで被虐的な体質ではなかった。ただ、シェイティが楽しそうにしているのを見るのはいい気分だ、とは思う。
「ねぇ」
「なに? シェイティ」
「あなたの間抜け面見てると絞め殺したくなるんだけど。いい?」
「いいわけないだろ!」
「残念」
 ふっと笑みを浮かべて遠くを見た。タイラントは彼を見る。冷たい目をしているくせに、その向こう側がどこか寂しげだ。
 彼には何か、隠されたものがある、とタイラントの詩人の目は見て取る。それを聞きたいと思う反面、詮索していまの関係を壊したくないとも思う。
「間抜けドラゴン」
「……その呼び方、やめて」
「ぴったりなのに」
 腕の中を見下ろした。まるでそこが安住の場所であるとでも言いたげにぬくぬくとしている竜がいる。苛立たしいというより、心許ない。心許なく思う自分が、落ち着かない。
「さぁ、行こうよ。シェイティ!」
 シェイティは腕をぐっと締める。抱きしめる仕種ではなかった。タイラントがくぐもった声を上げるから、やはり苦しいのだろう。
「あなた、馬鹿?」
「苦しいってば!」
「だろうね。ねぇ、どこ行くつもりなの」
「あ……」
 行き先も決めず、一体どこに進むつもりだったのだろうか、この竜は。シェイティは冷ややかな目で彼を見下ろす。しゅんとうなだれた態度になど騙されはしない。そう思ったはずなのに知らず、自分の手が竜の背を撫でていた。
「あなた、吟遊詩人だったよね」
 取り繕うようなシェイティの声。タイラントはその響きには気づかなかったふりをする。きっと見抜かれる、と思いつつ。
「馬鹿ドラゴン」
 呟いたから、やはり見抜かれた。タイラントは顔を伏せ、くつくつと笑った。それなのにシェイティは、怒らなかった。
「吟遊詩人だったんでしょ」
 軽く咳払いをしてシェイティが話を戻す。含羞んだのかと思いきや、そうでもないらしい。これほど表情の窺いにくい人間に出会ったのは、はじめてだとタイラントは思う。
「だったって言うな! 今も私は一流の吟遊詩人だよ! いつか『世界の歌い手』って呼ばれてやるんだからな!」
「ずいぶん大それた願望だね。むしろ妄想?」
「妄想って言うな! そりゃさ、私だってなれるとは思ってないけどさ。いいじゃん、夢は大きく持つべきだよ」
 偉そうに言って反り返る竜をシェイティは冷ややかに見下ろす。なれると言ってなれるものではない。その難しさはマルサド神の武闘神官を超える。
 誰からも認められる歌い手。この世界を最も愛し、世界から最も愛された吟遊詩人に与えられる称号。それは誰かが与えるものではない。いつしかそう呼ばれるようになるもの。だからこそ、いっそう難しい。
「うるさいな、怒鳴らないでよ。で、あてはあるの。ないんでしょ」
「……ない」
「だったら、ここはどこ?」
「はいー?」
 頓狂な問いかけに返ってきたのはシェイティの指先。繊細な細い指をしているというのに、この力はいったいどこから出てくるのだろう、と薄れかける意識の中、タイラントは思う。
「僕は地理に明るくないんだ。答えて」
「……だったら、答えられる体調にしといて欲しいなー、なんて」
「そう思うんだったら馬鹿なことはしないほうがいいんじゃない?」
「……はい」
 首を垂れたタイラントの策略など、シェイティは見透かしている。可愛らしい態度を取っても、だめなものはだめだと早くに教えておくべきだろう。
 そう思った自分があまりにも不思議でぎょっとした。すでに、弟子をとった気分になってしまっている。自分の師も、あるいはこのような気持ちだったのだろうか。
「シェイティ?」
「なに」
「ん……なんでもないよ。ここ? ラクルーサとの国境にまだ近いね」
「あのね、馬鹿ドラゴン。そんなことはわかってるの」
 呆れて溜息をついたシェイティに、今度こそタイラントは本気で恥ずかしくなる。
「だって……」
 反論も、子供じみていてみっともない。王宮にも伺候することができる吟遊詩人など、数は少ない。あらゆる関係に精通しどのような人間とも巧く付き合っていかれる自信がなければ、とても勤まらない。歌や楽器が少々人より巧い程度のことではとても吟遊詩人などできたものではない。
 その自分が、シェイティにはいいようにあしらわれている。年は自分とそう変わらないだろう、あるいは年下。まだ二十代のはじめというところか。
「シェイティ。君って、幾つなの」
「そんなこと聞いてどうするの」
「君は……なんと言うか、すごいな、と思って。私とそんなに変わらなく見えるのに」
「あなた、やっぱり馬鹿。ミルテシア人って物を知らないね」
「どういうことさ?」
 拗ねてそっぽを向いた竜にシェイティは視線を向ける。こんな子供と一緒にされてはたまらない、と思う。
「僕は魔術師なんだけど?」
「だからなんだよ」
「魔術師って、老化が遅いの。そんなことも知らないの」
「じゃ、君――」
「あなたが幾つなのか知らないけど。遥かに年上じゃない? 実は物凄い老人、とかじゃない限り。そうなの? だったら楽しいのに」
「違うよ! 私はまだ若いよ、二十四歳だよ! ……楽しい? なんで」
 きょとんとした顔をした竜にシェイティは笑みを見せた。タイラントは背筋を震わせる。尋ねてはいけないことを聞いた気がした。
「年上からかうの、好きなんだ」
 聞かなければよかった、とつくづくタイラントは思う。年下でよかった、としみじみ思う。年下でこれならば、どんな目にあわされるものか、わかったものではない。
「シェイティ……」
「しつこいな。幾つだっけ……。十代で修行を始めて――三十年くらい経ってるかな。忘れたよ」
 嫌そうな顔をしながらも答えてくれた。それが嬉しいと共にタイラントは驚きを隠せない。いまだごく若い青年に見えるシェイティ。魔法というものは案外面白そうだと思う。
「シェイティ、あのさ」
「ねぇ、行く気がないの? いつまで喋ってればいいわけ?」
「あ、ごめん。忘れてたよ」
「別に僕はいいけど。用事があるのはあなたじゃないの」
「……仰せの通りにございます」
 辛辣な物言いについ口をついたのはそんな言葉。途端にシェイティの眉が跳ね上がる。伸びて来た指を間一髪でかわしタイラントは必死で首を振る。
「暴力反対、暴力反対――ッ」
「だったら、馬鹿なことは言わないで。物凄く目障り」
「へい、了解」
「それも嫌。まともな口がきけないなら放り出すけど?」
「わかったってば! 酷いことしないでよ」
「されるほうが悪いんじゃない?」
 滅茶苦茶なことを言ってシェイティは唇を引き結んだ。怒っているのかもしれない表情が、とても楽しそうだ。顔色と、感情がここまで一致しない人間も珍しいな、とタイラントは彼を見る。
「人の顔が珍しいの」
「あ、いや……ううん! そんなことない、ない。えーと、ここがどこか、だっけ?」
「もういいよ。とりあえず王都方面に向かうの。だから、ここからだったら……」
「ラクルーサのほうに行って、国境大河を下るのが早いね。王都に行くんだったら」
 言いつつタイラントは彼が何を望んでいるのかがわからない。首をかしげてしまえばシェイティがそれを見咎めた。すう、と息を吸ったかと思えば言葉がタイラントに叩きけられる。
「わからないの? あなたの姫君がさらわれたのは王都なんでしょ」
 呆れ声にタイラントはうなずく。若干、あなたの姫君、という言い方が気に入らないが。それが顔に出たのだろう、シェイティが目顔で問うた。
「んー、いやさ。別に姫とは、その……」
「恋人じゃなかったわけ?」
 さらに、呆れられた。タイラントは釈明の必要を感じるのに、そうしなくてはならないのか、と疑問にも思う。
「恋人だって言ったつもりはないよ! 姫を愛してるのは、確かだけど」
「ふうん。じゃ、助けて姫の気を引こうって算段?」
「算段とか言うな!」
「なら、策略」
「……なんでもいいよ。もう」
 すっかり話がずれてしまっている。そのことにシェイティが気づいたとき、当然のよう自分のせいにされるのだろうな、とタイラントは漠然と想像していた。ちらりとシェイティを見上げる。彼は目許を和ませて笑っていた。
「話し、続けていい?」
 ひとしきりタイラントに悲鳴を上げさせたあとのことだった、シェイティがそう言ったのは。ぜいぜいと息をしている竜を見下ろせば思いのほか心が弾む。
「うん、お願い――」
 まだ息が上がっているのを隠そうともせず、むしろ見せつけるようタイラントは呼吸を繰り返す。本気で苦しかったけれど、やはりどうしても嫌な気分にはなれなかった。




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