驚いた顔をして飛び上がった竜は、中々の見物だった。シェイティは満足そうに彼を見る。正に、飛び上がっていた。言葉どおり翼をはためかせ、宙に浮いている。
「そんな!」
「なにが」
「だって! 昨日だよ……あんなに酷かったのに……」
 自分の体を見下ろしてはじめてタイラントは飛んでいることに気づいたのだろう、悲鳴を上げた。
「どうしたの」
「シェイティ! 飛んでる!」
「なに驚いてるの。前にも飛んでたんじゃないの」
 呆れ声の彼にタイラントは恥ずかしくなる。彼の言うとおりだった。だが、やはり信じがたい。体中から血を流していたのは、昨日のこと。たった数時間前でしかない。
「あなた、ドラゴンの体だって言ったじゃない」
 真珠色の体をシェイティは目を細めて見やる。とても美しかった。腕を差し伸べれば素直に降りてくる。まるで生まれながらの竜。人間が姿を変えたものだとは思えないほどに。
「それが……」
「だから。治りが早いの。人間の体だったら、まだ寝込んでるだろうけど。……死んでたかも?」
 少しばかり楽しそうに言うシェイティをタイラントは睨みつける。そう簡単に死んでいたとは言って欲しくない。
 そして睨んでみて気づく。シェイティは微笑んでいた。だからきっとあの言葉は彼なりの冗談なのだ。たぶん。そう思いたい。
「死んでたって……冗談だよね、シェイティ」
「全然。そっちのほうが楽だったかもよ」
 思わず尋ねてしまったタイラントは失敗を悟った。彼に優しさを期待するのは無理なのだとわかっただけだった。
「……僕の知り合いだったら、生きていればいいこともたまにはあるって、言うけどね」
 ためらいがちな言葉。タイラントははじめ何を言われているかわからなかった。時間が経つにつれ、シェイティの言葉が染みとおる。
「シェイティ……」
「僕は、信じてないけど。あの人がなにを言おうと、僕は僕。僕は――信じない」
 きっぱりと言ったシェイティにタイラントは返す言葉がなかった。信じないことは悲しい、そう言ってもよかった。心の中では、思っている。
 けれどそれ以上にタイラントの心を蝕んだもの。それはシェイティが記憶している言葉そのもの。否、言葉をシェイティに伝えた人物。覚えている、すなわちシェイティがそれだけ心を傾けた相手だと言うことに他ならない。
「シェイティ」
 呼びかけたけれど、何を言いたいかわからなかった。むしろ何も言いたくなどなかった。冷たい目をしたシェイティを見上げる。引き結んだ唇が、彼もまた何も語りたくないのだと言っている。
「――私の歌、魔法だって言ったよね」
 朗らかに言ってタイラントは話を変えた。シェイティが無言でうなずく。あるいはそれは感謝だったのかもしれない。だがシェイティ自身すら、それを意識してはいなかった。
「言ったけど」
「どうして、魔法なんか使えるんだろう? 習ったことなんかないし」
「知らない」
「そう言わないでさー。教えてよ」
 拗ねたふりをしたタイラントの喉許をシェイティは掴み上げる。素晴らしい悲鳴が上がった。きゅっと力を入れればすぐに止まる。そっと指を離せば空気を求めて喘ぐ声。
「シェイティ!」
 非難がましく怒鳴られても、まるで気になどならなかった。手の中に竜がいる。そのことに気づいてはっとした。この手の中にある、命。
「魔法、と言うよりある種の力の焦点になっちゃってるだけかもね」
「どういうことさ?」
「知らないよ。少なくとも、鍵語魔法じゃない。どっちにしたって、その力を効率よく使う方法を、魔法って呼ぶんだし」
「じゃあ、習えるかな……」
「習いたいの」
「そりゃね」
「どうして」
 それがシェイティにしては執拗な問いかけだとタイラントは気づかなかった。それほど互いを知りはしない。シェイティの目にある熱意にも、気づかなかった。
「姫をさらったさ、カロリナって魔術師をどうにかしたいってわけじゃないのは確かかなー」
「無理だしね」
「うん、わかってる」
 時間がない。修行をするには時間がかかる。改めて考えた今、それをタイラントは理解していた。自分の吟遊詩人としての修行もそうだった。長い時がかかるならば、魔術師を倒すことはできない。
「でも、面白そうじゃないか」
「そう?」
 目を煌かせた竜を見ていた。左右色違いの目が、期待にきらきらとしている。この知りたがりの性質は、確かに魔術師向きかもしれない、とシェイティは思う。
「決着がついたらさ、君に弟子入りさせてよ」
 タイラントの声。シェイティは遠くを見て聞いていなかった。聞こえてはいた。だが、聞きたくなかった。
「……気が向いたらね」
 答えたシェイティをタイラントは不思議そうに見つめる。あまりにも軽々しく言い過ぎただろうか。もっと、大切なことだったのかもしれない。
「シェイティ」
「……あのね、あなた。すごく大変なこと言ってるの、わかる? わからないよね。もしかしたら、世界の魔法が変革するかもしれない。それでもやりたいの」
「そんな急に!」
「答えは」
 畳み掛けられ、シェイティの目に見据えられたタイラントはまじまじと彼を見ることしかできなかった。すぐに返事をしなければならない。わかっているのに、声にならない。
 魔法を習ってみたい、その思いはある。決して軽い気持ちで言ったことではない。自分の歌が思いもよらない結果を導き出してしまうことを気に病んでもいたのだ。魔法を習得することでそれが変わるならば、習ってみたい。
「いままでさ……。けっこう困ったことも、起きてたんだよね。気に入らない相手を寝かしちゃうくらいだったら、問題ないんだけどさ。――私が心の奥で気に食わないなー、と思ってただけのやつが……病気になっちゃったりさ、眠ったまま、起きなかったりさ……。あれって、私のせいだよね、きっと」
「たぶんね」
 はっきりと言われて、反ってタイラントは気が楽になる。ほっと息をつき、過去を思う。他にもあった目をそむけたくなるような思い出。話し出そうとしたときシェイティの指が喉を掴んだ。
 苦しい、悲鳴を上げようとしたタイラントはシェイティの目を見てしまった。彼の目は言っていた。嫌な思い出ならば、話さなくていい、と。
 だからタイラントは知る。シェイティにもまた、話したくない思い出があることを。タイラントが納得したのを感じたのだろう、シェイティの指先が離れていく。
 呼吸が楽になる。清冽な大気を胸いっぱいに吸い込む。それなのにタイラントは彼の指先が喉にないのを物足りなく思った。それは切ない、と言うべき思いに最も似ていた。
「シェイティ。魔法、習いたい。君から」
 見上げた目がかすかに和んだ気がした。タイラントの気のせいだったのかもしれない。
「全部が終わったとき、あなたの気が変わってなかったら、ね」
「変わらないよ!」
 明るく言うタイラントの声にシェイティは唇を噛む。なぜあのような物言いをしたのか、自分でもわからなかった。タイラントの問題が決着を見るまでに、何が起こるか正確に理解しているわけなどない。
 シェイティは魔術師で、予言者ではない。それでも何かしらの予感めいたものはあったのかもしれなかった。そして予感と言うものは、たいてい、悪いものだった。
「だから、さっさと片付けちゃおうよ、シェイティ」
「僕の問題じゃなくて、あなたの問題だけど?」
「いいじゃん、それくらいさー」
 笑う竜の口にシェイティはちぎった干し肉を突っ込む。もごもごと言っているのは、苦しいせいだろうか。いささか、ちぎったものの大きかったらしい。
「朝ごはん」
 くっと笑ってシェイティはもがくタイラントを見ていた。まだ、わからなかった。
 すべてが終わったとき。それはタイラントが人間に戻っていることを意味する。そのとき自分は彼を受け入れることができるのだろうか。いっそこのまま竜の姿でいてくれたなら、どれほど気が楽か知れない。
「酷いよ、シェイティ!」
 そう思ったけれど、すでにシェイティはタイラントと言う男を知っている気がした。現実で会っている、と言う意味ではない。極めて象徴的な意味で、知っている。
「だから?」
 眉を上げて一言の元に抗議を封じる。再びタイラントの口許に差し出した干し肉は、先程より少し、小さかった。
 嬉々として硬い干し肉を噛み砕く竜を見ていた。シェイティはゆっくりと噛みしめる。塩の味と、肉の滋味。体が目覚めていく。いまは面倒なことはなにも考えたくなかった。
 成り行き任せか、と思えば苦笑が浮かびかける。そして任せられる自分をほんの少しだけ、成長したものだと思う。
「シェイティ、喉渇いた」
 甘えた竜の声にシェイティは無意識に水球を作っていた。元々、水を操る魔法が得意だった。おかげでこの程度はほとんど意識せず発動させることができる。
「ねぇ、ちょっと」
 作ってしまった水球にちらりとシェイティは目を向け、そして反対の手でむんずとタイラントを掴んだ。
「シェイティ、なにすんだよ!」
「逃げようとしてるじゃない。だから、捉まえた」
「だって――!」
 あとは悲鳴になって聞こえなかった。思い切りよく叩きつけられた水球に頭の天辺から尻尾の先までずぶ濡れにされたタイラントを快さげにシェイティは見つめる。
「喉、まだ渇いてる?」
 にこりとして言ったとき、タイラントは噛み付く代わりに小さく白い竜の息を吐いた。
「なに、やるの? そんな可愛いブレスじゃ、僕に傷なんかつけられないと思うけど。どう、やってみる? あなた、自殺願望が強いんだね」
 タイラントは答えず、今度は溜息だけをつきシェイティの肩へと飛び戻る。そこで思い切り体を震わせて、シェイティに水滴を飛ばした。




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