どこからか豊かな歌が聞こえきた。伝説に言う、夜明けの世界が歌う歓喜の歌とはこのような響きなのかもしれない。
「あ、起きた?」
 緑の葉に包まれたタイラントが、シェイティの顔を覗き込んでいた。きらきらとその目が輝く。草についた夜露が反射して、とても綺麗だった。
 体を起こせば夜明け、と言うにはいささか遅い。見回しても自分たちの他、何者の存在もなかった。
「いまの」
「うん、なに?」
「あなたなの」
 問うた途端、小さな竜が顔を伏せた。人間だったら困ったような顔つきなのだろう表情が、かすかに窺われる。
「聞こえてたんだ……」
 タイラントはぽつりとそれだけを言った。
「聞こえたけど。だから、なに」
 いったい何を戸惑っているのかと思う。歌っていたならばそうだと言えばいい。タイラントのことがわからない。元々わかりたいともあまり思っていない。
「君だけだね、私の歌を聞いてもらえるのって」
「だから? いまは、じゃないの。そのためにどうにかするんじゃないの。もう弱気? 見下げ果てた根性だね」
「……酷い」
 言いつつタイラントは笑っていた。シェイティにはわからない。吟遊詩人が歌いたいと思う気持ちも、聴衆を求める気持ちもわからない。
 強いて言えば、歌いたい気持ちはわからなくもない。シェイティも魔法を封じられるのは、嫌だ。だが、それを見せびらかしたいとは思わなかったし、そうしたこともない。
「まぁ、いいや。頑張るよ、私も」
「あなたが、頑張るんじゃないの」
 あえて、あなた、を強調して言えば、再び上がる明るい声。目覚めに聞くには悪い気分ではなかった。そう思ったことがシェイティは訝しい。何より野営に慣れてはいないはずの自分が、これほど快適な目覚めを感じたことも不思議だ。
「シェイティ」
 タイラントの目が輝いている。何かとてもよいことをして、しかもそれを隠してでもいるような。
「気分は、どう?」
「悪くないけど」
「もうちょっとはっきり言って欲しいけど……いっか。よかった、気分よくお目覚めで」
 たっぷりと餌を食べ終わった猫のような顔をしてタイラントは空を見上げる。その首根っこをシェイティは捉えた。
「ちょっ……シェイティ!」
「ちゃんと話せば離してあげる」
「離してってば!」
 言ってタイラントは目を白黒させた。シェイティに言葉を先取りされている。これでは話すよりない。そう観念したのかタイラントは首をうなだれた。
「下ろしてよ、先に」
 身をよじっても、葉で包み上げられ、何より小さくされている。たいした効果は期待できない。それでもシェイティは下ろしてくれた。
 柔らかく温かい場所に下ろされて、シェイティを見上げる。そして足場を確かめればそこは彼の膝の上だった。
「それで?」
 シェイティがにこやかに微笑んでいる。思わずタイラントは身震いをし、大袈裟な溜息をついた。幸い、攻撃の意思を示す白い息は吐かずにすんだ。
「君の名前、意味ってあるの」
「なにそれ。話す気あるの?」
「あるから! 掴むなってば!」
 さほど大きな手ではないのに、いかんせん自分の体が小さくなっているのは恨めしいものだとタイラントは思う。あっさりと喉を掴まれていた。いまはまだ力は入っていない。けれど、いつでもすぐさま力をこめることができる手だった。
「意味があるんだったら、教えてよ、シェイティ」
「……チビ氷」
「はい? それって……」
「うるさいな。子供のときの呼び名だよ。師匠がそう呼んだの」
「子供の時?」
 だったら今は、とはあえてタイラントは問わなかった。シェイティはそれにうなずく。
「いまは違う通り名があるよ」
「シェイティ――」
「あなたに普通の通り名を教える必要なんかなかったと思うけど?」
 そうシェイティは眉を上げて言った。そのとおりだった。タイラントはうなずく。それでも寂しいと思う気持ちは抑えきれなかった。まるきり、信用されていない。
 信用しろ、と言うほうが無理なのだろう。自分はあまりにも簡単に人を信用しすぎるのだろう。そうは思っても、もう少し彼に信じて欲しかった。
「まぁ、そうだよね」
 だがタイラントにはそう言うことしかできない。信じろ、と言ったとしても無駄だということくらいはわかっている。その程度は人生経験を積んでいる。
「当然の用心だと思うけどな、僕は」
 淡々と言ってシェイティの手がタイラントを撫でる。彼と言う人間ではなく、タイラントと言う名の竜を。
 タイラントが何か物思いをしている間、シェイティは彼から薬草をはがしにかかっていた。一晩おとなしくしていたせいだろう、思いの外よくなっている。
 小声で呟いて鍋の中に新しい水を満たせばタイラントがぎょっとした気がした。かまわず鍋の中に放り込む。
「シェイティ!」
 悲鳴ににんまりとして指先に小さな火を灯す。悲鳴が甲高くなった。聞こえたふりもしないでシェイティはその指を鍋の中へと浸す。すぐさま温度が上がった。
「熱い熱い熱いってば!」
 心地良い悲鳴を聞きつつシェイティは反対の手を浸し、少しも熱くなどないことを確かめ、指先の炎を消した。
「大袈裟だよ、あなた」
「やってみなって。本当に熱いから! 煮えちゃうって。自分で試しなよ、もう」
「嫌だね」
 にべもなく言ってシェイティは彼の体から粘った薬草を擦り落とす。
「ねぇ。話、終わってなかったと思うけど。むしろはじまってもいないよね」
「痛い痛い痛い――っ」
「うるさいよ」
 翼を持ち上げた拍子、少し力が入りすぎてしまったらしい。顔色こそ変えなかったものの、シェイティはすまなく思う。
「酷いなぁ、本当に」
「じゃあ、別の道を行く?」
「そういうこと言うし」
 小首をかしげて笑みを浮かべたシェイティをタイラントは睨み上げ、そして盛大な溜息をつく。半分の半分ほどは、本気の溜息だった。
「話しなよ、早く」
 言ってシェイティは新しい薬草を鍋に足した。煮えるのなんのとうるさいが、ゆっくりと薬草を煮出した風呂に入るほど、手早く傷を治すものはない。たまたま、彼が小さくなっているから鍋を使っているだけのこと。心に嘯いてシェイティは笑みを浮かべた。
「タイラントって名前さ、名前っぽく聞こえる?」
 シェイティの笑顔にぞっと背筋が寒くなるのを覚え、タイラントは大きく身震いをした。
「聞こえない」
 彼の返答はいっそ潔いほどで、タイラントはどこかで感じていた恐怖が綺麗さっぱりなくなるのを感じた。そして知る。無用な詮索が嫌いなのはシェイティだけではなかったことを。
「吟遊詩人の通り名? それにしては大袈裟。タイラント、恐怖をもって支配する者……ね。歌で?」
 シェイティははっきり意味を理解していたのだとタイラントは知る。当然だった。彼は、知識こそを重んじる魔術師なのだから。
「恐怖。そうかもね、ある意味では」
 溜息と共に何かを吐き出した。重苦しい、自分の過去かもしれない。そう思ったことにタイラントは驚く。今に至るまで深く考えてこなかった自分と言う存在に。
「いつごろからかなぁ。私が歌うだろ、そうするとけっこう相手を思いどおりにできちゃったりしてね」
「……どういうこと」
「それがわかれば苦労はないよ」
 言いつつ少しも苦労してきたようには聞こえないタイラントの声だった。
「例えば眠らせたいと思って歌うだろ、すると相手は寝ちゃう。気分よく起きて欲しいなぁ、と思って歌えば、さっきの君みたいになる」
 信じがたい話だった。シェイティはそっと視線を外す。仮にも魔術師だった。心を他者に簡単に操られるはずがない。ゆっくりと気配を探る。周りに、そして自らの内部に、魔法の名残があった。よけい、信じられないことだった。
「……魔法耐性に自信がなくなりそう」
 呟いてシェイティは首を振る。これほどあっさりと魔法にかかるとは。睨むでもなく見据えた視線の先で、タイラントが満足そうに笑っていた。
「なに、シェイティ? どうしたの」
「ねぇ、わかってる? わかってないんだね、あなた。それって魔法。訓練すれば――」
 シェイティは言葉を切った。彼が使ったある種の魔法より、さらに信じがたいことに気づいた。いまこの瞬間、空が砕けて落ちてきたとしても、そちらのほうがまだしも信じられるほどに。もしや、と思うがありえないことではない――。
「魔法!?」
 しかし、シェイティの思いはタイラントの頓狂な悲鳴に遮られた。
「私が、魔法? それって、怖い……?」
「あなた、馬鹿? 今まで自分でしてきたのに、どうして急に怖がるの」
「あぁ……そっか……でも、驚くよ、いきなりだもん」
「それは僕のせいじゃない」
 言い切ったシェイティの声音がかすかに震えていたような気がして彼を見上げる。しっかりと唇を引き結んでいたから、きっと気のせいだろうとタイラントは思った。
「ねぇ、シェイティ。訓練すれば、私も君みたいな魔術師になれるのかな」
 きらきらとした目が見上げてきていた。シェイティは一瞬、惑った。
「なれるよ」
「だったら教えてよ! そうしたら自分の力であの魔術師を――」
「言いたいことはわかるけど。物凄い時間かかるよ。少なくとも、お姫様がおばあちゃんになっちゃうくらいにはね」
「そんな!」
 これが普通の人間の反応だとシェイティは思う。魔法など、一朝一夕に覚えられるものではない。呪文を唱えたからと言って、すさまじい力の発現を見るわけではないのだ。がっくりとうなだれたタイラントを鍋から引き上げ、シェイティは優しい手つきで水気を拭った。
「ほら、できたよ」
 そこにいたのは陽射しに、銀を帯びた真珠色を輝かせた美しい竜だった。




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