今まで小さく見えていた青年が、突然に巨大になった。それだけで異常なほど恐ろしい。タイラントは自分が恐れられた理由をはじめて知った気がした。
「なに、怖いの」
 不思議そうと言うよりは面白そうにシェイティが問う。タイラントはそっと首をうなずかせた。
「変だね、あなた」
 くっと喉を鳴らして彼は笑った。不意に恐ろしさが去った。彼は彼で、何も変わっていない。それを感じ取ったのだろう、今度こそ不思議そうにシェイティが首をかしげる。
「どうしてそうやってすぐに他人を信じるかな、あなたは」
「だって」
「なに」
「そのほうが……楽しくない?」
「ない」
 恐る恐る言った言葉は一蹴された。溜息まじりの吐息を吐けば、ぽっと小さな白いものが上がる。
「あ……」
 無意識に吐いた氷の吐息がシェイティの手を傷つけはしなかっただろうか。慌ててタイラントは首を伸ばす。
「なに? 別に平気だけど」
 軽く指を曲げ伸ばししてシェイティは言う。どうやら本当に何事もなかったらしい。
「でも、ごめん。冷たかったよね」
「別に? すーっとした程度だけど」
「そっか」
 ほっとした様子の竜をシェイティは訝しげに見下ろしていた。手の上で知り合ったばかりの他人を気遣ってうなだれている。心温まるとは決して思わなかったけれど、幾許かの警戒心は解けてしまった気がして、不愉快だった。
「体……」
「うん、なに?」
 問われてシェイティはようやく自分が口を開いていたことを知った。無防備にもほどがある、と舌打ちする。
「体が小さくなると、ブレスも全然怖くないな、と思っただけ」
 肩をすくめて言った彼にタイラントは怒るより先に笑った。彼は自分の唯一の攻撃手段を奪ったのだ、と気づく。体の大きさ、吐息の攻撃。鋭い爪に頑丈な顎。竜の体の有利さをシェイティは奪った。
 それでも、やはり怒る気にはなれなかった。彼が協力してくれるからだと言うだけではない。タイラントが感じ取ったのは、シェイティの心の奥底にあるのかもしれない恐怖心だった。
 決して口に出してはならないことだろう。また、言ったとしてもシェイティは認めはしまい。認める代わりに、今度こそは一撃必殺で殺されるだろう。
「なに考え込んでるわけ?」
 確実に殺される、と思う分、タイラントにはそれが真実だと思えて仕方なかった。それは彼に言っても信じないことだろうけれど、吟遊詩人の勘だった。
「ちっちゃなドラゴンでいるのもいいなって、思ってたとこ。こんな経験できないしね。いい歌になるよ、きっと」
「楽天的だね、あなた」
 呆れ声で言って、それからシェイティは笑った。こんなに明るい声なのにどこか暗さが淀む。タイラントは噛みしめる唇もないままに、シェイティを見上げた。
「さてと、困ったね」
 彼は気づかず辺りを見回す。物も言わずに目当てを見つけたのだろう、歩き出した。抱いていた竜をひょいと腕に止まらせる。
「ちょっ……ちょっと待ってよ! うわ――」
「うるさい」
「君はいいけどさ! すごい……揺れるってば!」
「黙ってなよ、もう。ほんとにうるさい」
 そしてシェイティは相手をしなければ問題ないのだ、と気づいたよう黙り込む。小さな体になってしまったタイラントは彼の腕の上で揺られているより仕方なかった。
 目が回る。気持ち悪い。まだ歌の師についていた時代、船に揺られて海に出たことがあった。あの時の船酔いよりずっと、強烈な眩暈だった。
「ぐ……」
「ちょっと。吐かないでよ、僕の腕の上で」
「そんな……」
 ことを言われても。言いかけてタイラントは黙った。口を開けば本当に吐き戻しそうだ。
 シェイティは手の上でぐったりとする竜に溜息をつき、先程よりは幾分慎重に歩を進めた。それで揺れが収まるとは思えなかったけれど。
「動くよ」
「だめ……」
「我慢して」
「無理――っ」
 悲鳴を上げた竜に業を煮やしてシェイティは草の上へと放り出す。タイラントは物も言わずに吐いた。見る間に草の上が汚れていく。
 シェイティはちらりとそれを見ただけで放っておいた。いま自分ができることは何もない。それならば先にすべきことをするべきだった。
「君は――!」
 しばしの後、竜が足元から怒声を上げた。腕の長さほどの全長のくせ、翼を広げ精一杯に体を大きく見せようと威嚇している。
「ねぇ、あなたってほんとに人間だったわけ? 生まれつきドラゴンって感じだけど」
「うるさい、黙れよ! 君は友達の心配をするってことがないのか。君のせいでこんな目にあってるんだぞ」
「心配? しないわけじゃないけど。でもあなた、他人だしね」
 さりげなく言われた酷い言葉にタイラントは呆気にとられ次の言葉が出てこなかった。その隙に、と言うわけではないのだろうがシェイティの手が水袋の栓を抜く。
「なに……」
 いったい何をしようとするのか、問うことはできなかった。突然の豪雨。否、シェイティがぶちまけた水袋の水が頭の上から全身に降り注ぐ。
「うわ……ぷっ」
 体を振りたて、水気を払う。見上げればシェイティは水袋片手に微笑んでいた。文句を言おうとしたところに、今度は泥状の何か。
「シェイティ!」
 悲鳴を上げた拍子に吸い込んでしまったものを吐き出す。苦い味がした。
「あ……」
「動くな。じっとしててよ、邪魔だなぁ」
 緑の泥もそのままに、シェイティはタイラントの体を大きな葉で包み上げた。ついでに見つけた蔦でぐるぐる巻きにしてしまう。
「これなら取れないね」
 満足そうに言ってシェイティはタイラントを見下ろした。そこにいるのは竜、と言うより何か奇怪な蓑虫のような生き物だった。
「君さー」
「なに?」
「薬草、塗ってくれるのはありがたいんだけど、もうちょっとなんとかしようがないの」
 緑の泥が口に入った瞬間、タイラントはそれが薬草を揉み潰したものだと気づいていた。
「だって。あなた、うるさいし。ちょろちょろ邪魔だし」
「小さくしたのは君だろ!」
「だから? ねぇ、その怪我で歩き回りたかったの? どこまで馬鹿なの。出血多量で死にたいの? 死にたかったら言って。とどめだったらいつでも刺してあげるから」
「……刺されたくないです」
「そう。だったらおとなしくしてなよ」
「……はい」
 シェイティは言わなかった。大きな竜の体のままでは治療ができない、とは。だが。結果的に彼がしたのはそういうことだった。今更ながらタイラントは気づく。
 じんわりと薬草の温みが体に伝う。とろとろと眠気が襲う。それほど酷い傷だったとは、思ってもみなかった。竜の体は人間のときより感覚が鈍いらしい。あるいは自分が興奮していただけかもしれない、とタイラントは思う。
「シェイティ」
 包まれた葉から顔だけ出した奇妙な格好でシェイティを見上げれば、かすかに彼が笑った気がした。この有様がおかしいのだろう。そう思っても腹は立たなかった。
「ありがとう」
 言葉に、シェイティは答えない。無言のままタイラントを縛った蔦を持って摘み上げる。それから、自分で体を支えることのできない彼が邪魔なのだろう、小さな唸り声を上げた。
「あの――」
「黙りなよ」
「……うん」
 一言の元に拒絶して、シェイティは唇を噛む。それがタイラントにはよく見えていた。そしてシェイティは軽く曲げた腕の中、タイラントを包み込む。まるで赤子のように。
「シェイティ――」
「黙れ。喋ったら、殺すから」
 もしかしたら照れているのかもしれない、タイラントは含み笑いをして言われたとおり、うなずくだけにとどめた。
 シェイティが気遣ってくれているのを感じる。温かい胸に抱かれて子供に返った気持ちだった。揺れも、先程よりずっと少ない。
 夕暮れの草原を風が渡っていく。さやさやと鳴る草の音が、ずいぶんと大きく聞こえた。首を伸ばせばシェイティの足元を草が洗っているようだった。振り返れば、大海原。そう錯覚するほど美しい草原。
「動かないでよ、邪魔だから」
 きょろきょろとするタイラントをたしなめたのは、どれほど後のことだっただろうか。わずかに険の薄れた声音に、シェイティの心が少しは和らいだのを知る。
「うん、ごめん」
「別に」
 素直に謝られて、反ってシェイティは困ったらしい。それがどこかおかしかった。タイラントの視線を感じたのだろう、険しい目つきで見下ろしてくる。
「あなた、なに食べるの。人間の肉とか言われても困るんだけど」
 だがシェイティが言ったのは、憎まれ口にも等しい戯言。タイラントは包み込まれた体を目いっぱいによじって笑った。
「そんなもん、食べるわけないじゃんか! 知ってるくせに酷いこと言うよな」
「知ってる?」
「だって魔術師だろ、君は。そういう知識ってあるんじゃないの。ないの、もしかして?」
 からかうよう言った言葉にシェイティは答えない。その代わりそっと手が伸びてきたかと思えば思い切り体を握りつぶされた。
「痛い痛い痛いってば!」
 悲鳴を上げた竜をシェイティはさも快いとばかりに見下ろし、満足げな笑みを見せて手を緩めた。ほっとタイラントが溜息をつけば、夕闇に鮮やかな白い息。
「攻撃する気だったら、もうちょっと威力がいるみたいだね、手乗りドラゴンちゃん」
「誰が手乗りドラゴンだ!」
「あなた。他にいる?」
 言ってシェイティは晴れやかに笑った。どうやら気晴らしのおもちゃにされたらしい、と気づくまでそう時間はかからなかった。




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