意図的に延ばしているわけでは断じてないのだが、継承式が中々できないまま五年以上が過ぎている。カレンの研究が一段落するまで、と待っていたらエリナードの仕事が忙しくなる、その繰り返しだった。師弟ともに一流の魔術師であるだけ、ままにこういうことが起こり得る。 「昼飯食って、茶の時間までにってわけにもいかねぇからな」 同盟本部の執務室だった。どうしてこんなに書類仕事があるのだろうと頭を抱えたくなるほど紙束だらけだ。書記の一人でも雇いたい。否、すでに同盟には書記が数人いる。常人の有能な書記だった。魔法のことはなにもわからないけれど、書類ならば任せろと胸を張って言えるだけの書記たち。そこを通らずここにある、と言うことはエリナードしか処理のしようのない仕事である、と言うこと。またも長い溜息をつく。 継承式のことが気にかかっていた。早くしなくては、とずっと思ってはいる。あの夜会以降、彼女はエリナード・カレンを名乗り、殊にアイフェイオン一門の過半数はそれを認め歓迎してた。いまだ衆目一致とはいかないまでも充分ではある。エリナード自身、フェリクスの名を継いだときには星花宮で悶着があったらしいと知っている。それも時と共に、功績と共に消えて行った。そう言うものだ。 「って言ってもなぁ」 文句を言いつつ手は休めない。そんなことをしようものならばまた継承式が遅くなるだけだ。カレンのために、それは避けたい。 「別にいいすよ? 私は私だ」 いつかカレンはそう言っていた。本人がいいと言っているのだから、と思えるほどエリナードは割り切れない。アイフェイオンの過半数が認めている、のであって同盟参加者の全員ではなかったし、イーサウに住まいする魔術師やその卵たちからの当てこすりは年々酷くなっている。 「文句があるなら私の前に立ってから言えってんだ。せめてここまで歩いて来てから文句垂れてもらわなきゃ、説得力なんざねぇでしょうが」 ふん、と鼻で笑ったカレン。酷い噂話が耳にまで届いている。それでも気にしていないカレン。強いな、と思ってしまう。だからこそ師として、その強さを守ってやりたい。 カレンの言うことももっともだった。カレンに批判的な魔術師たちは一様にカレンより技術も魔力も劣る。仮にすべてが劣ったとしてもただ己の魔道を歩いていてくれるならばなんの問題もない。が、それすらない。それで文句を言われても鼻で笑うくらいしかすることがない、確かにそのとおりでもある。 力の弱い魔術師ほど、勘違いをしている。魔道とは技術でもまして魔力でもない。己がこの広大な魔法という大地にどう足跡を残すか、だ。確かに技術開発と言う一面は否定のしようがない事実だが、それだけでもないのが魔法の歴史。師に続き、師を越え、どう進んでいくか。越えられないのならば道を広げる。整備する。他にもすることはいくらでもある。突き進むだけが善でもない。それを、勘違いしている。 「まぁ、勘違いしてるから、馬鹿なことほざくんだろうがな」 長く深い溜息をつきながらちらり書類の山を見やる。このぶんではまだまだ終わりそうにない。そのエリナードの体がひくりとすくんだ。何を考えるより早く詠唱する。背筋を駆けあがってきたもの。内臓をかきまわされるような嫌な気配。 「――カレン!」 同盟本部の地下だった。どこと定めて跳んだわけではないエリナード。目標はカレン。ただそれだけで跳んだ己の無謀さ。まるで気にならなかった。 はっとしたカレンの眼差し。時を止めたよう前を見ていた目。カレンの手元で、膨れ上がりかけている魔法。瞬きの間に生の魔力が爆発する。 「師匠!」 カレンの体が、その師を認めた瞬間に動き出す。咄嗟に放ったのは護身呪。幾重もの結界でエリナードを包み込む。その一つ一つが魔力に跳ね飛ばされ、突き破られて行く気配。エリナードの背中に、爆発が襲い掛かり。 「――カレン?」 しばらくの間、意識のなかったカレンだった。自分の体の下、カレンが息をしていることだけがエリナードの救い。ぎりぎりのところで間に合っていた。 あの嫌な気配はカレンに起こる事故の気配。精神を接触させていたわけでもなかったのによくぞ気づいた、と己で己を褒めたい。 「……師匠?」 ぼんやりとしたカレンの声。少しばかり幼い口調で、いまだ意識がはっきりしていないのだと思えば恐ろしい。半分がた動けないエリナードではあったけれど、なんとか片手でカレンの頬を叩く。それに首を振って、ようやくカレンは目覚めて行く。 「一体。あぁ、すいません、私が――」 「事故ったんだよ。まぁ、よくあることだ。気にすんな」 「……しないわけ、ねぇでしょうが」 ぐっと苦いものを飲み下したカレンの声。エリナードは笑っていた。いまは言わないけれど、エリナードは思っている。カレンを助けることのできた自分というものを。あの日、フェリクスが助けに来てくれたよう、自分も弟子を守ることができた。あの事故の瞬間のフェリクスの絶望の目。弟子に手が届かない、その眼差し。エリナードはそれだけはできた、そう思う。フェリクスの届かなかった手。自分は届かせることができた。 「体は? 怪我、ねぇだろうな?」 「そんなの、見りゃ――。師匠!」 「でけぇ声出すんじゃねぇよ、体に響くわ」 いまになってようやくカレンはエリナードの惨状に気づいたらしい。凍りついた表情にエリナードは笑ってもう一度頬を叩く。 「大丈夫だ。お前は結界の維持だけしとけ」 「でも! 師匠――。私が。私のせいで。師匠……」 「なに小娘みたいに慌ててんだってーの。俺を誰だと思ってやがる。舐めんなよ?」 にやりと笑ってみせたのに、間が悪く額から滴り落ちる血液。カレンの頬に赤い筋を作った。ぎゅっと唇を噛みしめたカレンが自分を見つめているその眼差し。決心をしたのか覚悟を決めたのか、結界の維持にだけカレンは注意を払う。だからこそ、気づいたのだろう。 「師匠、体が――」 「どうなってる? なんか途中でぶちって聞いた気がすんだけどよ。さすがにこの状況じゃどうなってんだかさっぱりだぜ」 「足が。――たぶん、足が――」 「ふうん。それだけか。なんだ、問題ねぇな」 「あるでしょうが!?」 「ねぇよ。別に生きてるし。足の一本や二本、弟子の命に換えられるかってんだ」 ふんと笑えば呆然としたカレン。カレンの上に覆いかぶさり、エリナードは彼女を守り続けていた。カレンが維持している結界もどこまで持つか。エリナードは事故そのものをなんとか抑えている。暴発した魔力を魔法の形に変えて少しずつ解放している。そうしなければ救助もしてもらえない。解放するのが早いか、カレンの体力が尽きるのが早いか。問題はそこだった。轟々と渦巻く魔力。エリナードの背中の上で荒れ狂う。呪文室であったのが幸いだった。最低限、被害はここだけで抑えられる。否、自分一人に。 「師匠――」 カレンの顔の両側で、エリナードは腕をついて自分の体を支えている。その頬に伸びたカレンの手。額を拭い、血を止めようと努力する。 「気にすんな。とりあえず仕事が先だ」 とはいえ、カレンは結界維持以外に何もできない。エリナードに手を貸せば、再度の暴発を招くだけ。それがわかっているだけエリナードは安心して仕事ができる。 「――酷いですね」 ぼろぼろになっているのだろう服の隙間から覗いた肌にも傷がある。どことなく感覚してはいるのだけれど、いまのエリナードにはかまっている暇がない。本当ならば、喋りたくもない。一心に魔法に集中したほうが楽だ。けれどカレン。いま体の下で必死になって震えを抑えている愛弟子の姿。 「あっちこっち、傷だらけで――」 そっと傷に触れて行く。鍵語魔法に治癒系呪文があればよかったのに、呟くカレンだったから、いつか研究するかもしれない、ふと思ってエリナードは笑う。いままで数人が研究しているけれど、いまだ成果が上がっていない分野だった。 「それなのに、私は――」 「俺が守ってやったんだぜ? 誰が怪我なんかさせるかってんだ」 「それで師匠が怪我してりゃ――。すみません、私だけ」 「弟子の不始末は師匠の仕事。弟子を守るのも師匠の仕事。お前もいずれ弟子持ちゃわかる。気にすんな」 肩をすくめようにも動かなかった。カレンが何かをしたのだろう、体が冷えて行く感覚は消えていた。そして消えたことで冷えつつあったのだと知る。それに内心で顔を顰める。意外とまずいことになっているらしいと。いまにも泣き出しそうなカレン。額に大きな傷でもあるのだろう、何度となく押さえてくれていた。噛みしめた唇。大きく開いたままの黒い目。じっと自分を見つめて涙をこらえていた。 「カレン」 「なんですか! 驚くじゃないですか!」 「なんだよ? 実は見惚れてたか? 悪いな、弟子に手ぇ出すほど不自由してねぇんだわ」 「誰が見惚れるか! つか、師匠まで言うか! って、それじゃねぇだろ!? なんでそんなひでぇ有様でそんな馬鹿言えんだ、あんたは!」 「だから、そこで喚くな。聞こえるっつーの」 わざとらしくカレンの頬に顔を寄せてみせる。悲鳴が上がってエリナードは一安心。いつもと同じことができるのならば問題はない。 「お前なぁ。なんつー悲鳴だ。俺は痴漢か。性犯罪者か」 「師匠が悪いんでしょ!」 「まーな。俺も師匠にやられて何度悲鳴あげたことか。あの人なぁ、わかっててやってんだぜ。俺が女に興味ないって知ってて平気で抱きついてきたり流し目くれたりな。最悪なことに風呂まで乱入されたこともある」 「うわ……。ん?」 「なんだよ」 「師匠。聞いていいですか。そりゃよかった。――大師匠がわかっててなさっていた、と言うのは聞きましたがね。だったら師匠はどうなんですかい!? わかっててやってんでしょうが、あんたも!」 「そこに気づくとは中々やるな」 「誰でもわかるわ!」 怒鳴って戻ったカレンの生気。自分の怪我などどうでもよかった。たとえこの命を失おうとも、カレンさえ無事ならばそれでよかった。 ただ、エリナードはカレンにそれだけは言わない。フェリクスに抱え込まれた日のことを思う。自分のせいで死にかねなかった師。何度となくやめてくれ離してくれと懇願した自分。師の命を使わせて生きるなどごめんだった。ならばカレンだとて。 ――わざわざ泣かす必要もねぇってな。 自分もずいぶんと師匠らしいことを考えるようになったものだ。笑うエリナードの意識が薄れはじめたころ、ようやく魔力の解放に目途がつく。救助隊が見つけたのは半身を魔力に押し潰され、カレンをその身で庇ったまま気を失うエリナード。全身に師の血を浴びて泣き叫ぶカレンが必死になって彼を呼んでいた。 |