「――だいたい、こんなもんか? まぁ、お前が見る必要のねぇとこは省いたけどよ」 エリナードの自宅地下だった。あの事故でエリナードは体の自由を失った。救助隊は重大事故だとはじめから神官を連れてきていたけれど、どうにもならなかった。潰れた足は形こそ取り戻したけれど、二度と動かない。 「誰が師匠の濡れ場が見たいか」 ぼそりと文句を言うカレンにエリナードは笑う。彼女から隠したのは実はそこではなかったのだけれど。 「別に見てもいいぜー? ライソンは身をよじって嫌がるだろうけどよー」 「だから見たくねぇって言ってんでしょうが!?」 動かない足。カレンにはただそう思っていてほしかった。いまはまだ痛む、それは知られているけれど痛み続ける、とは思ってほしくない。彼女から隠したのは、傷の酷さ。それでもエリナードには一片の悔いもない。 弟子を守ることができた。それだけで充分だ。最愛の娘を守る手立てがこの手にあった。それをどれほどフェリクスに感謝したらいいのか。今更泣きそうなほど、ありがたくて、ありがたくて。 あの事故でカレンの名声は半ば墜ちた。半ば、と言うのはアイフェイオン一門からの評価が上がったせい。残りの半分は「だから女に魔術師は」派だ。エリナードとしては自分の一門だからではなく、アイフェイオンの言っていることが正しいと思う。あれほどの事故など、才能があり、技術があり、しかも魔道が進んでいる、その証し以外の何物でもない。 残り半分を黙らせるためにエリナードは継承式を行った。そもそも時間がないから、と延び延びになっていた儀式だ。いまならば傷の療養を兼ねて時間ならば余っている。 儀式場の設定はカレンがした。どうやら彼一人きちんとした継承式を受けている、と言うミスティに聞いてきたらしい。そのあたりも研究熱心だな、と思う。あるいは師に万が一のことがあっては、そうとでも思ったか。 エリナードはカレンが顔を顰めるのもなんのその。自力で自宅の地下に移動する。魔術師であるありがたさでもある。魔法で補助すれば、短時間と言う限定はつくけれど自分で動くことができる。 そして継承式がはじまった。師弟ともに無防備になる儀式だ。何重もの結界は師弟がそれぞれ作り上げる。師を守り、弟子を守り。結局は相手だけを守っている結界。そして相手に守られている結界。 あるいはそれこそが継承式なのかとエリナードは納得した。師と弟子の間にあるものを再確認する儀式。それが継承式なのかもしれないと。 ゆっくりと精神を繋げていく。いままでエリナードが体験してきたこと、見たもの、聞いたもの。そのすべて。魔道における現時点までのエリナードの全人生をカレンは見た。 「なんか……溜息しかねぇですよ」 まだ繋がったままの精神。カレンの吐息が自らのうちに響き渡るかのよう。エリナードは密やかに笑う。 「なんだよ?」 「けっこう師匠の人生も壮絶ですよね。――なんでここまで能天気に立ち直ってんだか、意味わからん」 「お前な。ちったぁ物の言い方を考えろよな」 「考えた上でっすよ? ほんと……すげぇな」 真正面から言われてしまってはエリナードは天井でも仰ぐしかない。それを感じ取ったカレンが小さく笑う。 「大師匠もっすけどね」 「師匠のことも、何となく感じただろ?」 「漠然と、ですけどね。さすがに師匠が見せてもらったもんを間接で見てるだけだ。鮮明ってわけにも」 エリナードが死に逝こうとしているとき、フェリクスによって助けられた自分の命。フェリクスの精神の中に丸ごと抱え込まれて、否応なしに彼のすべてを見せられた。見せて、くれた。 ――タイラントにだって内緒だったんだけどね、僕のこういうところは。 あの時のフェリクスの心の声がいまもまだエリナードにはまざまざと思い浮かべられる。あの時の師がどんな気持ちでいたのか、いまのエリナードにはわかる気がした。弟子を守る手段が自分の手にあった、その感謝と喜び。少し、わかる気がした。 「問題はそこだよな」 「はい?」 「だからよ、俺だって師匠がカロル師から継いだもんまではよく見てねぇんだよ」 「ん? カロル師の後継って――。あ、違うか。ミスティ師はアイフェイオンだわ」 「そうそう。あいつだけは一門の名のまんまなんだ。でも、継承式はしてる。カロル師って方はな、とんでもない人だったけど意外と心遣いが細やかでよ。名前を継がせたのはうちの師匠なんだけど、火系の後継者って意味ではミスティって決めてたんだろ。名前名乗ってねえけど継承式はしてんだ」 「そう言うことでしたか。全然気にしてなかったから、知りませんでした」 「それ、ミスティが聞いたら喜ぶぜ? 気にされていねぇってのはあいつが自分の魔道を歩いてる証しってやつだからな」 自分一人師の名を名乗っていない、その引け目がミスティにあったのかどうかはエリナードも知らない。ただ、修業時代から少し彼は変わったとも思う。火系らしく突き進む、とはいかない。それはもう性格的なものであって変わりようはない。けれどミスティは積極的にはなった。火属性の雄として真っ直ぐに立っている。誇り高いその姿こそ、カロルが見れば喜ぶだろうとも思う。 「それで、師匠?」 「だからな、俺からお前に継がせるもんはいいさ。俺が継いだもんは漠然とであっても継がせてる。でもそれ以前は?」 「それは――」 「いまんとこな、まだ俺が話して聞かせてやれる程度だぜ? 世代で言ったらカロル師だってそれほど昔ってわけでもねぇしな。でも俺だってカロル師が修業してた頃のことはわからねぇ。なんとなく、伝わってるだけだ」 それ以前となるとさっぱりだ。ほとんど文献頼りになる。ましてカロルの師はサリム・メロール。ラクルーサが誇った最強の半エルフ魔術師だ。種族も違う、世代も違う。もうお手上げだ。 「でもお手上げ、とも言ってらんねぇだろ」 「ですね。これで情報が途切れると、厄介だ」 「そこだ。いまやってる研究の解決の切っ掛けが、三世代前にあったらどうするよ」 「文献漁ってると実はよくある話ですよね、それ」 「だよなぁ。――だからな、カレン」 にやりとすれば緊張したカレンの姿。それでも確固として立つ魔術師の姿。不意によかったと思う。自分が導くことのできた一人の少女。一人前になってここにいる。 「お前、継承式が楽になるようななんか、考えろよ」 「なんでですか!? なんで私が!」 「そりゃ、俺は済んだから? 次にやるやつが楽する手段を考えるのが物の道理ってもんだろうが」 「そんな馬鹿な!」 声を荒らげつつ、すでにカレンが色々考えはじめているのがエリナードにも伝わる。なにせ、いまだ精神は接触したままだ。もうすこし、このままで。師弟が共にそう感じているからこそ。まだ儀式場は解除していない。最初で最後、そんな気が共にしているせいだろう、きっと。ここまで互いをさらけ出すのは、この一度きり。まして師はその心の隅々まで弟子に見せたのだから。見ることを許す、それだけでも大変な覚悟ではある。だからこそ、正式な継承式を行った師弟が少ないのだが。 「鳩、どうですかね」 突然の言葉にエリナードは笑いだす。なんのことだと腹を抱えれば、わかっているくせにとカレンが顰め面。 「なんか考えろって言うから考えてんじゃねぇですか」 むっとしながら器用に笑っているカレンだった。エリナードにも見当はついている。そこにカレンが放り込んできた心象。魔術師がよく手紙代わりの伝言手段として利用する鳩の魔法だった。 「ちょっと情報量が少なくねぇか?」 「そりゃ鳩ですからね。そこはまず本一冊程度からはじめてみますよ。何事も着実に、ちょっとずつ、だ」 「意外だよなぁ。それ、敵対派に聞かせてやれよ」 「やですよ、めんどくせぇ。好きに言やいいでしょうよ。別になに言われたってどうでもいいや。私は私の魔道を歩く。それだけですよ、師匠」 衒いなく真っ直ぐと放たれた言葉。眩しさを覚えてエリナードは目を細める。そうしてから照れくさかったのだと気づいた。カレンもまた、エリナードから逆流した感情によって照れたのだろう。ふいとそっぽを向く。 「おう、そうだ。ちょいと相談。つか、もう決めたことだけどよ」 「それ、相談って言いませんから」 「うっせぇな。いいだろ、別に。――俺は仕事をやめんぞ」 「はい!?」 「だから同盟の仕事をやめる」 事故のせいか。カレンがさっと青くなる。いまだからこそ取れる手段を。そっと精神の指先でつついては小さく笑う。撫でてなだめる。まるで幼い子供の頭を撫でるように。 「お前が言うとおりな、批判するやつはなに言ってもどうでもいいわ。いい加減に俺は研究生活に戻りてぇんだよ」 だから体の自由を失ったのはよい機会だ、エリナードは笑った。カレンも本心だと理解せざるを得ないほど朗らかに。 「ほんとな、俺が企画して立ち上げたもんだから致し方ねぇけどよ。仕事が多すぎる。俺の研究はここ十年止まったまんまだぜ。勘弁しろよ、マジで」 「だったら――」 「でもな、カレンよ。俺がここに住んでたら、仕事のほうが押し掛けてくる。そう思うだろ?」 当然だ。アイフェイオン一門を背負って立つフェリクス・エリナード。誰もがそう見るしエリナード自身そう振る舞ってきた。同盟発足に、その発展に有利になるならばなんでもすると。イメルがリィ・サイファの塔の管理者の名声を利用したよう、エリナードは自分の名を利用しただけだ。四導師それぞれがそうやって立ち働いてきた。今更退くと言っても簡単ではない。 「そりゃ、まぁ。当然でしょうよ」 カレンまで言う。弟子として、師の日常を見知っているのだからある意味ではカレンの方が正しく師の仕事量を把握しているのかもしれない。 「だから俺は引越そうと思ってな」 「はい!? どこにですか、どこに! だって、師匠。私は!」 「あー、ついてくんなよ? いい加減に親離れしろよ。俺は独身生活を楽しみたいんだ。コブ付きで遊べるかってんだ。――アリルカだよ、アリルカ。もうイメルには連絡してあるんだわ」 「ちょっと待てこのクソ親父め! 仕事が早すぎんだろうがよ!」 「仕事は早い方がいいぜ? なにしろ次から次に押し寄せてくるからよ」 言ってエリナードは接触をそっとほどく。カレンの名残惜しそうなかすかな気配。そしてそんな自分を恥じたのだろう彼女が立ち上がっては空咳をする。そう恥ずかしいものでもない、エリナードは思うのに。自分はもっとずっと長いあいだ師の愛に包まれていたと。 そして本当にエリナードは移住した。療養だ、の一言ですべての仕事から鮮やかに退いた。傷の重さをカレンに悟らせないためであるのは、エリナードだけの秘密。最後まで、彼女は気づかなかったことにほっとする。 「ただ、もしかしたら――」 小さな苦笑が浮かんだ。もしかしたら、気づいていて、隠していることまで飲み込んだ上でカレンは知らないふりを選んだかと。いまになって少し、そう思うようになった。アリルカで穏やかな暮らしを送るうちに、ようやく。 「どうした、エリィ?」 「いいや、なんでも。悪いな、次の仕事だ」 「心得ている。気にするな」 ふわりと抱きあげてくれる腕。頼っていいのだと言われてはじめて突き進み続けていた自分だと気づかされた。まだまだ勉強の毎日だ、エリナードは思う。 ――師匠。俺は、あなたに続けていますか。死ぬまでに、あなたの一歩先に行けるでしょうか。俺のあとは娘が続くでしょう。笑えるでしょう? あなたの孫ですよ、師匠。 笑えよ、師匠――。 |