道は続く

 二十年という平穏はイーサウにもエリナードにも時間を与えた。イーサウ連盟加盟都市間に敷設された街道網が完成したのもこの時期だ。エリナードは積極的に魔術師を参加させた。元々自警団は魔術師と連携するのに慣れているのもあって、そちらからも話が行ったらしい。魔術師は有用だ、と。アイフェイオン一門としても助かることだった。自らの居場所を失ってしまった魔術師たちだ。イーサウに受け入れられればこんなにありがたいこともない。だからこそ、自分の研究を放り出してまでイーサウに助力を惜しまなかった魔術師たち。
 そしてエリナード自身のことを言うのならば、カレンの他にも弟子ができた。学院が子供を受け入れると方向転換したころの若者たちの中から改めて師弟の誓約を交わした。すでに独立を許した者までいる。それをカレンがどう思っているのかは、エリナードも知らない。ただ日々楽しそうに修行をしているのが救いだった。
 その弟子と言う手足を使い、サキアと協力し、魔術師たちを総動員してタウザントの森を切り開いたのは、闘技会開催のため。木材はいずれこちらに移転することになる学院や研究機関の建築資材になる予定だ。そこまで来たところで届いた知らせ。
 カロリナ・フェリクス。死去。
 エリナードは止まらなかった。一瞬とて立ち止まることなく闘技会開催に進んだ。またも冷酷だのなんだの言われたけれど、これがエリナードの本心を語っていると知っている人たちがいる。だからそれでかまわなかった。
「――カレンが、言ってたよ。フェリクス師にだけ、見せたかったんだろうって。ちゃんと進んでいけるから大丈夫って言いたかったんだろうって」
 闘技会の休憩時間だった。フェリクスが存命中にはアリルカは決して巻き込めなかったエリナード。否応なしにエリナードの名を聞く羽目になるのだから、それだけはできなかった。だが、いまは。そして促したアリルカの魔術師参戦。真っ先にイメルがうなずいてくれた。
「生意気言いやがって」
 エリナードは小さく笑う。内心では少しだけ驚いていた。カレンがそこまで正確に自分の心の内を察していたとは。くすぐったくて、誇らしい。そんな照れくさいような感情。
「お前はいい弟子を持ったよ」
「なんのことだかな」
 笑って言えば肩をすくめるイメル。あの日以来、彼は髪を伸ばしていない。フェリクスを激怒させた自分への戒め、と言って。短く整えた髪は元々イメルが持っていた柔らかさを抑えて、外見だけならば多少は精悍になった。それなのにほんのりとした穏やかな男になった、とエリナードは思う。イメルの魔道が進んでいる証だ、と。彼は自らの均衡を過不足なく取っている。いまだ至らない自分を振り返り、フェリクスを思う。
 フェリクスのいなくなってしまったこの世界で初めて行われた闘技会。イーサウの住人達も近隣都市の人々も観戦に訪れては非常な喜びようだった。盛況のうちに終わり、まずは魔術師同盟の発足が確実になったことにエリナードはほっとする。アリルカも含めてアイフェイオン一門の勝利は疑っていなかった。元々技術が違う。いかに二十年の遅れがあろうとも、それ以上のものがある。エリナードが予想していたとおり、四属性のそれぞれの勝者はアイフェイオンから出た。
「笑っちまうよな」
 結局のところ、エリナードの同期が占めることになったのだから。イメルにミスティ、そしてオーランド。具合のいいことに半分がアリルカ居住だ。そして自分とオーランドがイーサウ。遠くに離れていても転移してくるから移動に問題はない。むしろ政治的にイーサウだけに偏らずにほっとしていた。
「師匠――」
 呼びかけてきたカレンをなぜかイメルが止めていた。黙って首を振って目を閉じている兄弟のような親友。エリナードは首をかしげて、そして苦笑する。
「心配すんじゃねぇよ。――俺なら、平気だ」
 はじめての闘技会を終えたその晩。ライソンが逝った。満足していたのであってほしかった。懐かしいあの甘い茶が飲みたい、そう言って笑っていた。エリナードが茶を淹れに立った隙に、ライソンは逝ってしまった。何一つ遺言を残さずに。残す必要はない、言うべきことならばすべてもう言った。あとはお前の心に全部ある。まるでそう言っているかのような、死だった。
 エリナードは葬儀もなにもかも一人でするつもりだったのに、カレンが横から手を出してきた。頼んでいない、言おうとしたら睨まれて口をつぐまされた。
「あんたがどう思ってるかは知りませんけどね、師匠。私にとっちゃライソンさんは親父さんみたいなもんなんです。娘の私が葬儀の準備してなにが悪いんですかい!?」
「……がさつな女だな」
「何がですか!」
「年齢考えろよ。せいぜい妹だろうが。娘は、ねぇわ」
 溜息まじりに言ってエリナードは笑う。カレンが顔を顰めた理由がよくわからなかった。たぶん、平静でいるつもりではあるけれど、違うのだろう。カレンにはそれが顕著なのだろうとエリナードは思う。が、自分では普通のつもりだ。どうにもならない。
 感情を失っていたというフェリクスだけれど、あるいはこんな気分にも似ていたのかと思う。自分では当たり前のつもり。何も間違ってはいないはず。けれど他の人々には、異常と映る。
 イーサウの重鎮でもあったライソンだった。晩年はコグサの兵学校を引き継ぎ、若い兵をしごいていた。砂色の髪が真っ白になったとき、剃りあげるようにして刈ってしまった頭。触り心地がいいと笑っていた自分の声。エリナードは思い出せるのに、なぜか遠くて戸惑う。
 様々な人が弔問に来た。サキアをはじめイーサウの主立った人たち。兵学校の卒業生に、教師たち。暁の狼の兵まで来ていた。まるで軍隊の閲兵のようで、エリナードはライソンには相応しいな、と思う。自分の横でカレンが会葬者に礼を言っている声。
 現実感の薄いそれを聞きながらエリナードはそれ以後も仕事に邁進した。イーサウに、学院に、一日の時間より仕事のほうがずっと多い。だからきっと、仕事をしていたかったのだろうとは後になって思った。止まってしまうのが、怖くて。いま止まってしまったら、二度と進めなくなる。それではライソンと生きた時間が無駄になる、そんな恐怖。
 ぽかん、と空いてしまった日だった、その日は。夜遅くまで仕事を入れているエリナードだったけれど、その晩ばかりはサキアの都合で彼の予定までふいになってしまった。おかげで自宅に戻って一人きり。研究の素材は学院だ。あちらに戻ってもよかったのだけれど、どうもそんな気になれなかった。
 ふと思いついては用意する。暖炉の前の小卓に例の甘い茶を置いてみる。その横に、若いころのライソンが好んだ強い酒。硝子の酒杯に注いで氷を作って入れた。
「ほんっと、貴族の贅沢だよな、これって」
 強い酒に溶かされて行く氷。氷によって味の変化していく酒。ゆっくりと楽しみながらライソンは笑っていた。魔術師ならば当たり前だと言い返しつつ、魔術師でよかったな、などと思った覚え。エリナードはもう一つの酒杯を用意してはライソンが好きだったあの椅子に腰を下ろす。灯りもつけず、暖炉の火だけ。惰性でつけていただけだから、ほとんど熾火のようなもの。無言で酒を飲んでは、エリナードの目は何を見ていたのか。ことりと音がする。
「……なんだよ、いたのか」
 振り返ればカレンの姿。一瞬、息を飲んでは棒立ちになったカレン。目をそらしてからそんな自分に腹でも立てたか唇を噛んで眼差しを戻す。なぜとなく、いるような気はしていた。カレンはすでに自分の家がある。それでも、こんな日には必ず彼女は自分の側にいる。そんな気がしてならない。それも自分と似ているな、そんなことを思う。
「いましたけど? 悪かったですね」
「悪いたぁ言ってねぇだろうが。どうせいるんだったら付き合えよ」
 ひょい、と小卓に置いたままの酒を掲げて見せる。カレンは顔を顰め、それでももう一脚椅子を引っ張ってきては腰を下ろした。
「ライソンさんのでしょ。いいですよ、もう一個グラス持って――」
「めんどくせぇことすんな。いいだろうが、別に」
「まぁ……」
 遠慮をするようなことではないだろう。亡きライソンと酌み交わしていたとでも思っていたのか、カレンは。そうだとしたら中々可愛いところもある、とエリナードは小さく笑う。
「ま、娘が飲むんだったらライソンさんも機嫌悪くするより笑うかな」
「だから誰が娘だよ」
「私が?」
 にやりと笑ったカレンが酒杯を掲げる。まったくもって精悍そのものの娘で困ったものだ。エリナードもまた酒杯を掲げ返す。
「師匠――」
「別にライソンのことをどうこうじゃねぇんだよ。むしろ、師匠だ」
「え――」
 空いてしまった時間。何もできなくなってしまった時間。ほんのりとした酔いを感じながらエリナードはじっと小卓の茶を見ていた。
「ライソンはな、覚悟の上だ。俺たち魔術師は、同族でもねぇ限り、いずれ連れ合いは先に送ることになる。そんなことはな、最初からわかってたことだ」
 彼と知り合ったのは、まだライソンが十九歳の若さだったころのこと。まさか髪が白くなるほど一緒にいられるとは思っていなかった。傭兵の彼は、もっと早くに逝ってしまう、そう覚悟していたものを。自分の側で、穏やかに逝ってくれた。
 それがあるからこそ、わかる。フェリクスが開けた穴の大きさ、空しさ。ずっと深く繋がっていたフェリクスの心が動きを止めたのは、タイラントが殺されたあの瞬間。フェリクスが逝った、と聞かされたエリナードが感じたのは、安堵にも似た。
 止まっていた場所。なくなってしまった場所。同じなのに、全然違った。それほど衝撃を伴う死ではなかったのかとわずかに疑ったけれど、あのフェリクスのことだ。こちらに余波が来ないよう手を打っていたに決まっている。だからこそ、わかる。ちゃんと、見ていてくれた。やはり、フェリクスはこちらを見ていた。感情を失い、動く屍のようになってさえ、師は。ふとエリナードは呟く。
「凍え震え凝れ大気、リゼー<血氷剣>」
 彼の手に現れたものにはっとカレンが息を飲む。それは一振りの魔剣。カレンが知るエリナードの剣ではなく、氷作りの。
「……師匠の剣さ」
 持っているだけで、エリナードにはわかっていた。これがかつての師の剣ではないことが。自分の手にしっくりと馴染む長さ重さ。調整した覚えなど微塵もない。
「形見、かな。ったく、あのクソ親父め。勝手に俺ん中に残していきやがった」
 フェリクス死去の報に接してはじめて知った。己の精神の中、この術式があると。いつだろうかとエリナードは思う。わからなかった。
「ガキん時からお気に入りだったからな――。くれてやるってつもりだったのかどうか。あの親父のことだ、することなすことわかんねぇな」
 呟いて、笑って、酒を煽る。黙ってカレンが酒を注ぎ足してくれた。エリナードもまた肩をすくめて注いでやる。
「……師匠は、冷たい。ライソンさんより、やっぱり大師匠だ」
 拗ねたようなカレンの声。見れば酒がずいぶん進んでいる。笑った自分の声にも酔いがあってエリナードは肩をすくめる。
「あのな、馬鹿弟子よ。よーく聞いとけ。――親の死ってのは、意外とこたえるぞ。それこそ先に逝かれるのはわかってても、なんでかね、親は死なねぇと思ってるもんなんだぜ」
 この世界にフェリクスがいない。もう二度と見ていてもらえない。何を失うより、心にぽっかりと空いた穴。無言のカレンが酒に付き合ってくれた。
「まさか娘と酌み交わすことになるとはな。しかも酔い潰すなんざ想定外だわ」
 どれほどだろう。酒には強いはずのカレンが潰れていた。エリナードはカレンを抱き上げぎょっとする。軽かった。身長ならばたいして変わらない。それなのに、軽くて、どうしてだろう。切なくなる。寝台に運んでやる自分をふと、フェリクスのようだと思った。




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